人生の時の瞬

相良武有

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第8話 別れても・・・

④千穂、久方振りに松木に電話を架ける

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 名前も顔も知らないイベント会社の社長が雑誌で見たと言う千穂の写真は、テレビで売れていた頃に撮影された若々しい彼女だったのではなかろうか?・・・もし、そうだとしたら、その社長は今の千穂にはきっと失望することだろう、もはや彼女は若くないのだから・・・
 千穂がふと顔を上げると、奥の端のテーブルで和服姿のカップルがにこやかに話し込んでいた。
男は長身で、太い眉の下の眼には力強い光が宿り、引き締まった口元にも意思の強さが見て取れた。女はふっくらとした色白の丸顔に涼やかな大きな瞳をしていた。凡そ刺々しさなど露ほども感じさせない円やかさがあった。男は二十七、八、女は二十三、四歳かと、千穂は推し測った。
「今日は朝から展示即売会と御得意さんの応対で、一日大変だったろう、ご苦労さん」
「ううん、あなたこそお疲れさまでした」
「一年前に親父が脳梗塞で倒れた後、お袋がその介護で奥に引っ込んでしまったから、店での接客や家の中の家事全般がお前に全部圧し掛かってしまった。本当に良くやってくれているよ。有難う、な」
「いいの。私は唯、あなたのお役に立ちたいだけなの」
「親父が倒れてから暫くの間、売上が一寸落ちて気を揉んだが、ここ三ヶ月は順調に行っている。先月も先々月も去年を上回っている。呉服業界は斜陽のじり貧状態だから先の楽観は出来ないが、まあ、正直のところ、ホッと一息ついているというのが本音だな」
「そう、良かったわね」
暫く二人は、この一年を互いの胸の中で顧みているようであった。
「なあ、一度、フレンチでも食べに行かないか」
「えっ?」
「新婚旅行から帰った翌日から、ずうっと働き詰めだったろう。偶には骨休めに二人でディナーぐらい良いんじゃないか」
「私のことなら、別にいいわよ、気にしなくて」
「お前も案外、出不精だからな」
そう言って男はくすっと笑った。何かを思い出したようだった。
「あれは一昨年だったかな。俺がお前をデートに誘ったことがあったな」
「ええ、よく覚えているわよ」
「あの時、俺には魂胆があったんだ」
「魂胆?」
「お前をモノにしようと思ったんだよ」
「何言っているの、馬鹿ね」
「子供の頃から一緒に遊んだ幼友達のお前が、高校を卒業した後どんどん女っぽくなっていって、俺は気が気じゃなかった。此の儘、何処かの誰かと結婚しちゃうんじゃないかと心配したんだよ」
「そんな心配すること無かったのに」
女は小さな声で言った。
「ところが、お前にあっさり断わられてしまった。俺は自棄酒を呷ってぐでんぐでんに酔っ払って帰ったんだ」
「そうよ、へべれけに酔って、それも真夜中に家へやって来て、いきなり母に、光子さんを下さい、なんて言うんだから・・・。母も呆気にとられていたわ」
「翌くる朝一番に謝りに行って、もう一度正式に結婚を申し込んだ、という訳だ」
二人は顔を見合わせて微笑った。
これは新婚の幸せなカップルだったんだ・・・
千穂の胸に温かいものが湧き上がって来た。
「ねえ」
女は男の左手に自分の右手を重ねて言った。
「私この頃、亡くなった父の夢を見るの」
「お父さんの夢?」
「うん」
「然し、五つの時に死に別れて、殆ど何も憶えていないんだろう?」
「ええ。でも、夢に出て来る男の人が何故か父に思えてしまうのよ」
それから女が話した夢の内容は概ねこういうものだった。
五歳の光子が駅の改札前に立っている。夕闇が迫っていて辺りは薄暗く、家路に急ぐ人の群れが次第に増えている。電車が発着する音が聞こえる。
いいかね、と光子の前に蹲ったその男が言う。
「じっとして待っているんだぞ。此処を動くんじゃないぞ、解かったな」
そう言うと、男は光子の両手を痛いほど強く握り締めて、それから立ち上がると背を向けて改札の中へと消えて行く。その背中が明るい改札の向こうへ消えていくのを見送りながら、光子は半べそを掻いている。
それから暫くして、「お父ちゃん」と呼びながら、光子が何処とも知れない暗い街中の通りを彷徨い歩いている。光子の小さな胸には悲しみが溢れて頬に涙が滴り、そこで目覚める。目覚めた光子の頬も濡れている。
「お前もずうっと父親が恋しかったんだな。美容室を営む気丈なおふくろさんに立派に育てられても、やっぱり男親が居なくて寂しい思いをして来たということか」
「そんな大層な事じゃないのよ」
女は男の方に眼を向けて、また、明るい表情を見せた。
「恋しいとか寂しいとかということでもないの。私が今幸せだから、お父さんが居たら歓ぶだろうなと思って。駅の改札に消えて行く夢の中の父の背中が寂しそうだったからそう思うのね」
「夢の中のその駅が何処か解かるのか?」
「解かる訳無いでしょ、夢の中の話なんだから」
「それもそうだな」
二人は顔を見合わせて笑い合った。
「もう子供じゃないんだからお父さんは要らないのよね」
女は男の手を強く握り直したようだった。
「私は、あなたが居れば良いんだわ」
千穂は思った。
この二人は信頼の深い絆で結ばれた幸せな新婚夫婦だ・・・
そして、その幸せが何時までも続くことを彼女は心から願った。
 千穂が請求書を掴んで立ち上がった。先ほどの和服の男女が彼女の方を振り仰いで軽く会釈をした。
レジで支払いを済ますと千穂は大通りへ出た。松木のオフィスの在る広尾ビルの方を暫く見ていたが、やがて立ち止まって携帯を取り出し、懐かしい馴染みの番号をプッシュした。
「あなた?・・・あたし・・・千穂です」
「やあ、君・・・元気でやって居るのか?珍しいじゃないか」
「ええ。少し逢って話したいんだけど・・・駄目?」
「解かった。良いよ。唯ね、今、手が離せないんだ。二時間ほどしたら訪ねて行くから君のマンションで逢うことにしよう。待って居てくれるかな?」
「解ったわ。待って居るから、きっと・・・ね」
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