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⑦男の矜持

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 霙交じりの寒い冷たい二月の夜だった。
午前零時を回ってクラブ「純」を出たバーテン嶋木は、強い風に吹かれてコートの襟を立て、肩を窄めて家路を急いだ。川沿いの道を西に向かって歩き、交差する通りを左折しようとして、川に架かる橋の袂で黒いものが蹲っているのを眼にした。常連客の大木だった。欄干を背に両足を前に投げ出して、ぐったりともたれかかっていた。嶋木が屈みこんで両腕を掴み、ぐいっと引き起こした時、どんより曇った鈍色の眼が開かれ、泣いているのが見て取れた。
「大丈夫ですか、大木さん?」
嶋木は声をかけた。
「ああ、ああ。構わんでくれよ」
声はくぐもって擦れている。眼も据わっていた。
「さあ、行きましょう。家まで送りますよ」
「放っといてくれよ」
「こんなところに居たら凍え死んじゃいますよ、大木さん」
「放っといてくれと言ってるんだよ!」
今まで聞いたことの無いぞんざいな言い方だった。
だが、嶋木が抱え起こすと逆らわずに立ち上がった。が、ぐらっと前につんのめり、深く息を吸い込んで又、ぐらっとつんのめって橋の欄干に手をついた。泥酔していた。それに苦渋と疲労に打ちひしがれてもいた。
嶋木はタクシーを止めて、半ば押し込むようにして大木を乗せた。

 一カ月後、嶋木がふと顔を上げるとカウンターに居た大木の姿が見当たらなかった。と同時に、彼の座っていた辺りに人の輪が出来て、周囲が騒々しくなった。
近寄った嶋木の眼の下で大木が倒れていた。
「大木さん、大丈夫ですか?大木さん!」
直ぐに救急車が呼ばれて病院に運ばれた。居合わせた常連客の一人が同乗して行った。
その日の深夜に嶋木の携帯電話が鳴った。純子ママからであった。
「大木さんが先ほど、亡くなったの」
「えっ?」
「救急車で病院に着いた後、程無くして、心筋梗塞で息を引取ったの」
「・・・・・」
「遺体は、今夜は病院の安置所に留め置かれるわ。でも、家族や親戚に連絡しなければならないので、明日の朝、大木さんのマンションへ一緒に行って欲しいのだけど・・・」
「解りました。同行します」
翌朝、大木のマンション前で純子ママと落ち合った嶋木は、マンションの管理人に事情を説明して、部屋を見せて欲しい、と依願した、が、管理人を納得させて許可を得るには暫く時間が掛かった。結局、管理人も一緒に立ち会うことで、部屋に入ることを許された。
 大木の部屋は三階にあった。管理人の手でドアが開けられた瞬間、嶋木はしばしその場に立ち竦んだ。2LDKの、さして広くは無いスペースではあるが、入り口の下駄箱から奥の洋間まで、寺院のように粉塵一つ無く綺麗に、整頓され、清掃されていた。
 ダイニングキッチン、リビングルーム、何処を見ても、埃も被っていない。床には沁み一つ無かった。
奥の洋間にはベッドと和箪笥一竿、それに黒塗りの机と椅子一脚、壁には乳白色のクロス紙が貼られ、クローゼットが埋め込まれていた。窓に面した机には、閉じたノート型パソコンとプリンター、筆記用具立てが整然と並んでいる。机の横の壁には、座右の銘と思われる、達筆の毛筆でしたためられた色紙が飾られていた。
“欺瞞無く偽善無く、驕り無く卑下無く”。
「ねえ、ねえ、あんた達」
胡散臭そうな口調で管理人が二人に言った。
「いったい、この部屋で何を捜そうというんですか?」
「家族か親戚の名前、住所、何でも良いんだ」
嶋木は答えた。
「誰か一人くらい身寄りが居るんじゃないかと思ってね」
嶋木はクローゼットの三枚扉を開いて「おうー!」と声を上げた。
「これは綺麗だ!」
中には女物のドレスが二着、透明なカバーをかけて吊るされていた。
一枚は春の晴れやかな桜色、もう一枚は秋の鮮やかな柿色であった。どちらも生粋のシルクで、いかにも豪奢な手触りがした。管理人はどきどきした表情でドレスを眺め、飾り気の無いベッドの上に一着ずつ並べて置いた。
純子ママが開いた和箪笥の最下段の抽斗から、紐でキッチリと括った手紙の束が出て来た。差出人はすべて一人の女性の名前であり、発信地はいずれも北郊の地方都市であった。嶋木は宛名の住所に目を走らせながら封書の束を繰った。宛先住所は大木の異動の跡をそのまま示しているように思われた。その他の手紙やハガキ類は机の抽斗にも、部屋の何処にも無かった。残されていたのはこれだけだった。
 手掛りを求めてリビングルームの本棚を見てみた。
最下段の棚にアルバムが一冊立っていた。ケースから抜き出して捲ったアルバムには、一枚一枚の写真に日付と場所が付記されて、二十代の輝くように若くて自信に満ちた微笑の大木と、瞳の大きな気品ある可憐な女性が並んで写っていた。どの写真も笑顔と幸福に満ち満ちていた。が、最後の四、五枚は笑顔が消えて憂愁と悲嘆にくれた表情の二人が、淋しそうに並んでいるものであった。日付は昭和〇〇年〇月〇日、場所は熱海「お宮の松の前」、アルバムの写真は其処で終わっており、他には一葉の写真も残っていなかった。
結局、大木の死を知らせるべき家族や親戚の手掛りは何一つ得られず、嶋木は大木の天涯孤独を思いやって胸が塞がれた。
管理人と嶋木と純子ママは、またドレスをクローゼットに終い直し、全てを元通りに戻した。手紙は開封しなかった。管理人が部屋に鍵をかけ、三人はマンションの前で別れた。
 二日後、純子ママと嶋木はクラブ「純」の常連客達に声を掛け、店の者全員を混じえて、市の斎場で大木をひっそりと葬ってやった。
その翌日、嶋木はあの全ての手紙の差出人である女性に手紙を書いて、大木の死を知らせた。
 
 半月ほどが経った或る日、嶋木の元に、宛先人女性の娘と名乗る三十歳過ぎの女性から、連絡が入った。大木に線香の一本を手向けたいと言う。
翌日訪ねて来た娘の口から真相が話された。
「母は二月の寒い吹雪の日に亡くなりました。大木様には母の死後、お知らせしました」
嶋木は、大木が泥酔し呻吟し嗚咽していたあの時だと思い至った。
娘は話を続けた。
「嘗て若い頃、大木様と私の母は、お互いの友人達が羨む恋人同士でした。二人は愛し合い慈しみ合い、尊敬し合って幸せを育み合っていたということです」
が、二人に結婚の機が熟す前に、城下町の素封家であった母親の家が没落の憂き目に会った。彼女は旧家の長女で、未だ大学生だったのである。家族は両親と少し歳の離れた妹が一人居るだけであった。
「母は家と家族を救う為に、両親に説諭されて、地元で手広く事業を起こし、全国レベルの企業に発展していた実業家の長男のもとへ、切望されて嫁ぎました。家の借金の肩代わりや家族の爾後の生活の為に嫁がざるを得なかったのです」
母親は嫁ぐ半月前に大木と二人、熱海へ二泊三日の旅行をして許しを乞い、大木も黙して受け入れた。
「母は生そのもの全てを大木様に授けておきたかったのだと思います。だから大木様も黙って受容されたのでしょう」
それがあの淋しそうな最後の熱海での写真だったのか、と嶋木は想い起した。
大木と母親の二人の心には、生涯を賭けて愛し信じ合う固い契りと約束が、言葉には出さずとも、お互いに確信出来ていたのではないか、恐らく互いの人生をかけた愛の交歓だったであろう。
「母は、父にも私達子供にも精一杯の愛情を注いでくれました。事業で忙しい父には献身的に尽くして支え、子供には溢れるばかりの愛情と零れる笑顔で接しました。母が居る家は何時も明るく幸せそのものでした。母は生涯をかけて父や家族と、そして、大木様に対して、償いをしていたのではないかと思います」
「お母さんと大木さんとの間に行き来や交信は無かったのですか」
嶋木は無開封の手紙の束を想い出して聞いてみた。
「大木様からは転勤される度に、自宅の住所を自書した転勤通知だけが来たということでした。母はその都度、返事を差し上げたようですが、一度も返信は無かったそうです」
 娘は言葉を切って、一息入れた。が、これでお終いです、という感じではなかった。何か思い惑っているふしが見える。話そうか話すまいか、躊躇している様子である。
暫し沈黙が流れた。
と、意を決したように顔を上げて、娘は嶋木をじっと見つめて、言った。
「私の血液型、B型なんです」
「えっ?」
娘の唐突な言葉に、嶋木は問い掛ける眼差しを返した。
「母はO型で、父はA型です。父と母からはB型の子供は生まれないんです」
あっ、そうだったのか。嶋木は虚を衝かれた思いで理解した。
「それで、そのことは、大木さんは知っていたのですか?」
「さあ、それは判りません。でも、恐らくご存じ無かっただろうと思います」
「どうしてですか?」
「母は自分ひとりの胸に生涯仕舞い込んでおくことによって、私と父と、そして、大木様に謝罪し、償ったのだと思います」
「・・・・・」
 一人の女性を生涯かけて信じ愛し続けた大木の矜持、全てを飲み込んで妻と娘に限り無い愛情を注いだ夫の心の大きさ、一生をかけて夫や娘や大木に償い続けた女の真摯さ、三人の生き様に嶋木は頭の下がる想いがした。
 嶋木は、この娘のことは大木も知っていたのではないか、と思った。
あの色鮮やかな二着のドレスは、愛する女性に対する信じる心の誓いの象徴であると同時に、成長していく娘に対する秘かな幸せへの願いだったのではなかろうか。そして、あの座右の銘は、自分を厳しく律する掟として大木が生涯守り通そうとした戒律だったのだ、嶋木は今更ながらに、大木の矜持の高さと強靭な意思に胸が熱くなった。
自分の内に秘めた錘を生涯一途に持続し守り抜く誇りと孤高の精神、妻も娶らず家庭も持たず、生涯一人の女性を思い続ける強烈なロマンと強靭な志・・・大木は一生涯を懸けた愛に殉じたのだ、これは殉死だ!
話を聞き終わった嶋木の胸には熱いものが込み上げて来ていた。
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