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⑥心の傷跡

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 大空翔子は音楽界のみならず日本最大のスターだった。
大空翔子・・・唄うだけでなく自ら作詞作曲もするシンガー・ソングライター・・・
日本中の何処に居ても彼女の歌声が否応なく耳に入った。ハードな曲では荒々しいまでに情熱的、バラード調の曲では一転して抒情的、生来の甘い美声に彼女ならではのメリハリが付けられている。
歌だけではない。映画にドラマにCMに、新聞や雑誌やネットの記事に、テレビのインタビューに、彼女の華麗なる容貌としなやかな姿態が見られない日は無かった。
 その夏、大空翔子はデビュー十周年を記念する座長公演を、北海道から九州まで全国を縦断して行っていた。公演は東京を皮切りに札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡と巡って締め括りは故郷の京都だった。それは、故郷に錦を飾らせてやりたい、というプロデューサーやマネージャーの翔子に対する深い思いによるものだった。
 公演の前日に京都入りした翔子を待っていたのは夥しいファンの数と物々しい警備体制だった。記者会見の場として用意された京都ホテルの特別室は、毛足の長い絨毯、煌びやかなシャンデリア、アンティーク調のランプなど崇高な雰囲気の漂う伝統的なヨーロピアンクラシズムが溢れる会場だった。集まった記者の数は二百人余り。芸能記者にレポーター、カメラマンにテレビの取材班。男性の記者も居れば女性記者も居た。
大空翔子に向けられた質問は極く月並みなものが多かった。
「京都のご出身だそうですが、最近の京都をどう思われますか?」
「東京に居る時にも“おばんざい”など京都の料理を食べられますか?」
「“アイム・エンジェル”という最新のヒット曲の発想はどのようにして得られたんですか?」
その時、背の高い精悍な風貌の記者が立ち上がった。スーツにネクタイという他の記者とは違って締まった格好をしている。手には手帳と小型テープレコーダーを持っていた。
「大空翔子さん」
彼は丁寧な物言いで訊ねた。
「今やあなたは押しも押されもしない大スターですが、それで、真実に、幸せですか?」 
翔子は不意を突かれたように惑って、返答に詰まった。
う~ん、と言うように眼を宙に泳がせてから、彼女は答えた。
「さあ、どうかしら・・・正直なところ、良く判らないわ」
 会見が終わって自室に引き揚げてからも、彼女はずっとその問について考え続けた。
北から東へ望む五十メートルほどの窓からは、天空へ広がる東山三十六峰の山並みと古都の街並みが一望出来たし、世界的な英国デザイナーによる内装デザインは、これまでに見たことも無い品位有る調和と安らぎを生み出していたが、それらは翔子の心には何も響かなかった。
あの記者に訊かれたようなことは、芸能雑誌や新聞の記者にもよく訊かれる。だが、同じことを訊かれてもさっきのあの記者からは別の違った感じを受けた。生真面目な物腰の所為か、丁寧な言い回しの所為か、あの記者はただお座成りの質問をしていたのではないような気がする。彼は真実に答を知りたがっていた。ひょっとして、心から私のことを心配してくれたのかも知れない、そんなことは在り得ないことだろうけれど・・・
 暫くして、翔子はジーンズに格子柄のシャツという地味な服装に着替え、トレードマークの長い黒髪は上に押し上げて帽子の中へ束ねた。そして、サングラスをかけ部屋のキーをポケットに辷り込ませて階下へ降りて行った。
 エレベータを降りて広々としたロビーへ出て行くとあの男がソファーに座っていた。記者会見の席で例の質問をした記者である。彼は直ぐに立ち上がって近づいて来た。
「大空翔子さん、先ほどは失礼。僕の質問であなたを大分困らせてしまったようですね」
「ううん、良いのよ、そんなことは無いわ。私の方こそご免なさい、答らしい答えをしなくて」
彼は向井吾郎と名乗って簡単な自己紹介をした。職業はジャーナリストで東京やニューヨーク、中東や東南アジアでも仕事をしていたと言う。音楽専門のライターではなく諸々の社会現象や文化現象について分析し論評し提起するのが本業とのことだった。
それを聞いて、翔子は微笑いながら言った。
「それじゃ、わたしも、その“現象”とやらの一つなのかしら?」 
「ええ、勿論です。それはあなたも良くご承知でしょう。何処へ行ってもあなたを知らない人など居ないだろうから」
彼女はただ微笑して彼を見やった。
「わたし、これから一週間、このホテルと南座の舞台に閉じ込められるの、まるで囚人のように。それで一つお願いが有るのだけど、聞いて貰えるかしら?」
「ええ、僕で出来ることなら何なりと」
「有難う、嬉しいわ。でね、京都がどんな所だか、ちょっと、散歩に連れて行ってくれません?」
「然し、あなたは京都生まれの京都育ちと聞いていますが・・・」
「私が京都に居たのは中学生までなの。そんな子供が知っている京都なんて多寡が知れているでしょう、何も知らないのと同じだわ」
向井は軽く頷いて言った。
「解りました。お供しましょう」

 二人が向かったのは翔子の生まれ育った西陣だった。小学生だった頃、翔子は夏の日の午後、よく自転車に乗って生まれ育った西陣の街中を走り回ったものだった。 
 応仁の乱で西軍総大将の山名宗全らが堀川よりも西の土地に陣を構えたことから「西陣」の名が始まった。京都では大昔から織物作りが行われ、平安時代には現在の西陣の南側に織物職人が集まっていた。平安後期には「大舎人の綾」「大宮の絹」と呼ばれる織物が作られ、独自の重厚な織物は寺社の装飾に用いられた。応仁の乱の後、各地に離散していた織物職人が京都に戻って来て、西陣と呼ばれるこの地で織物づくりを再開したのである。
 西陣の入り口で翔子は車を停め、向井と連れ立って一緒に降りた。車はそのまま引き返えして行った。
西陣の屋根は一面に暗い色をして沈んでいた。が、屋根の所々が四角に光っていた。その光っているのは、西陣の家々の電燈の下の生活が空へ流れて行く窓口となっているのだった。昼はその屋根のガラスの窓から陽の光が零れて入り、夜は其処から西陣の夜の生活が空へ向けて黄色く輝くのである。それは“天窓”だった。
星がきらきらと輝いている今夜は、その四角な窓は二つ三つと消えて行って、西陣の屋根は一面に暗い色で深く沈んでいた。
 路地が三方に分かれて続いていた。紅殻格子が隣り合って並ぶ間を、屋根と屋根とが隣り合って並ぶ間を、生活の風の吹いている路地が続いていた。吹き溜まりには石の地蔵が在って寺の門に続いていた。
翔子が屋根の犇めく路地の奥を見やって言った。
「屋根と屋根との近接している間の路地は、西陣に生き続けて来た音を封じ込め、生活の風の吹いている路地は曲がって、歴史の奥へ通う風の道に続いているの」
西陣で生まれ育った翔子の心の中には、歴史の流れる音がしているのではないか、それが彼女の音楽の原点ではないか・・・向井はそう思った。
 西陣を後にした二人は堀川の一条に架る橋の袂で足を止めた。
一条戻り橋・・・
「戻り橋」の名は、大昔、漢学者三好清行の葬列がこの橋を通った際に、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の息子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返って父子が抱き合った、という話に由来している。
嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は、嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習があるし、逆に太平洋戦争中は、応召兵とその家族は兵が無事に戻ってくることを願ってこの橋に渡りに来ることがあったと言う。
「渡ってはいけないということと渡らねばならないと言うことの二つの意味を持つ橋と言う訳か・・・」
「わたしは此処から出ることも戻ることも出来ないで居るの・・・」
翔子はそう言って橋の中央で立ち止まり、暗い川を見下ろした。
翔子の肩が微かに震え出した。向井には翔子が泣いているように見えた。
翔子は、幼い頃、此処で父親と交わした会話を思い出していた。
「お前の母はこの戻り橋を渡って行ったのに、お前のところには帰って来なかった」
「この橋を渡って、何処かへ、なんで、行ってしもうたんや?」
「父にもそれは解らない。母もお前の処だけへは帰ろうと思って、この戻り橋を重たい心で渡って行ったんだろうよ」
「戻り橋やのに、なんで、戻って来いひんかったんや?」
「戻り橋を渡って行ったからと言って、戻って来ると決まっているものではない。人間はどうにもならない時、暗い風の吹く向こうに光っている何かを見たいから、そうするだけなんだよ」
「みんな悲しいのやなあ」
「そうだとも。みんな悲しいものだから、戻り橋を暗く重たい心で渡って行くのだよ。見てごらんこの水の色を。真っ黒に空が映っているだけだよな」
向井が翔子の肩を優しく抱き寄せ、翔子はその広い胸に顔を埋めた。やがて、顔を上げた翔子の唇に向井の唇がそっと重ねられた。
「わたし、あなたに幸せにして貰いたいの」
翔子が囁いた。切実な思いが籠められている声だった。
 躰を離した二人はまた連れ立って歩いた。
だが、暫くすると翔子の声が湿って来た。
「東京になんか帰りたくない。此処にあなたと居たい。ねえ、この京都で二人だけの家を買って一緒に住もうよ。ツアーは止めて一年に一回、レコードを吹き込めば良い、この生まれ故郷の京都で・・・」
然し、彼女は其処で口を噤んだ。一瞬膨らんだ希望が破れた風船のように萎んで、彼女を冷酷な現実に引き戻したようだった。故郷の戻り橋から遠く離れて、ひとり途方に暮れている翔子の姿が哀れで、向井は胸が引き裂かれそうだった。
「さあ、行こう」
街路はいつもより暗かった。抱き締め合うようにして二人は歩いた。傍らを通り過ぎる車の車輪が絹を引き裂くような音を立てた。
彼女の心が幸せに行き着くのはいつの日だろうか?・・・
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