クラブ「純」のカウンターから

相良武有

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第一章 バーテン嶋木の誕生秘話

①嶋木、クラブ歌手を助ける

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 丁度客足が途絶えて仕事がエアポケットに入ったのを見計らって、バーテンダーの嶋木は外の空気を吸いに店の表に出て見た。
 空を見上げた顔をふと北へ向けると、斜め向かいのビルとビルの間から女が一人走り出て来るのが見えた。直ぐに後から男が二人、女を追いかけて出て来て、一人が女を背後から掴まえようとした。女はハンドバッグを振り回して烈しく抵抗した。
突然、もう一人の男が女を突き飛ばした。女は大きくよろけて崩れるように横転した。
男達は女を上から覗き込んで、小突くように蹴り始めた。
「何をやっているんだ!止めろ!」
 嶋木は店から走り出て男達を止めに入った。が、直ぐに激しい揉み合いになった。
嶋木は一人の男の顔にパンチを見舞い、襟首を掴んで引きずり廻して、烈しい肘打ちを顎に喰らわせた。ゴキッと何かが潰れる音がして、男は転倒した。
もう一人が猛然と右手を大きく振り回して嶋木の顔を殴りつけた。その一撃を喰った一瞬から嶋木は凄まじい反撃に出た。殴られたら殴り返すという本能だけが嶋木を突き動かした。男の下腹部にパンチの連打を打ち込み、苦しそうに咳き込みながら掴み掛かろうとする相手の腎臓辺りに強烈な左フックを喰らわせ、崩れそうになる相手の顎に右のアッパーを突き上げた。嶋木は自分でも解からぬうちに凶暴で残酷な気持になっていた。
壁に沿って尻から崩れ落ちた仲間を見てもう一人は戦意を喪失した。
「さっさと消え失せろ!」
嶋木は男二人に一喝した。
男達はのろのろと立ち上がり、顔や腕を押さえながら、よろよろと立ち去った。
「大丈夫か?」
嶋木は、未だ暗い怯えた様子でその場に立ち竦んでいる女に声をかけた。
女は少し片足を引き摺るようにして後ずさりながら言った。
「はい、大丈夫です。なんとか歩けますから・・・・・」
 女は嶋木の思った以上に若かった、未だ二十歳過ぎにしか見えない。が、その顔はひどく歪んで強張っていた。それは若い男達に襲われかけたという恐怖の強張りもあったが、それと同じように、嶋木の凶暴さに対する恐怖心からのものも大きかったように嶋木には思えた。
嶋木が一歩近づくと女は又、後退りした。女の眼にははっきりと恐怖の色が浮かんでいた。
この女は俺の正体を直感したのか?・・・見た人間が恐怖を覚えるほどの残酷で狂暴な振る舞いをした男が、善良な普通の人間ではないことを見て取ったのか?・・・
「ご心配無く。其処のクラブ「純」の嶋木という者です。安心して下さい」
嶋木は丁寧な物言いで柔らかく穏やかに名乗った。
はあ、と言う貌で納得した女は、漸く頷いて一歩踏み出そうとした。が、片方の足が酷く痛そうで直ぐに顔を顰めた。
「ほんとうに大丈夫か?うちの店で一休みしたらどうだ?さあ、早く俺の肩に摑まって・・・」
女は恐る恐る右手を嶋木の左肩に乗せて掴まり、そのままの姿勢で二人は店までの数メートルをそろそろと歩いた。
 店に着いた女を入り口近くの止まり木に座らせた嶋木は、冷蔵庫から冷たい水を出してコップに移し、女の前にそろりと置いた。それから、徐に、かち割った氷をビニール袋に詰めて女に差し出した。
「それで痛めた足首を冷やすと良いよ。少しは楽になるだろうから、さ」
女は素直に、有難うございます、と礼を言って直ぐに足を冷やし始めた。
「唄い終わったら、客席のテーブルに呼ばれたんです」
ハスキーな声で女が言った。
「あの人たち、お酒を一杯奢ると言ったんです。私はただ、お客様の折角のお志なので、一杯だけ飲んで失礼する心算だったのに、あの人達、それ以上のことを要求し始めて・・・」
「それで店の通用口から出て来たら、待ち伏せていて追いかけて来た、ということか?」
「はい」
「クラブ歌手も楽じゃないね」
「私、レコード歌手になりたくて、あちこちオーディションを受けているのですけど・・・」
「そうか、そりゃ、その方が良いよ。クラブ歌手は、日銭は稼げるが歳を取ると大変だろうからな」
嶋木は、俺にもチャンピオンを夢見た若い頃もあったなあ、と感慨を催した。
「あのな。八田美紀も蒼井那美も松尾瑠奈も初めは皆、クラブ歌手だったんだよ。アイドルのように直ぐに消えてしまう泡沫歌手じゃなくて、大人の歌をじっくり聞かせる息の長い歌手になることだな。諦めずに頑張ることだよ」
「はい、ありがとうございます」
嶋木は漸く顔に微笑を浮かべた女に向かって、軽くうなずいて見せた。
 暫くして、タクシーを呼んで帰ると言う女を手助けし、店の入り口まで肩を貸してやった。
そろそろと歩いて入口表に立った女は、向き直ってもう一度「有難うございました」と深々と一礼した。
「じゃ」と軽く左手を挙げて、嶋木は店の中へ踵を返した。
 店へ戻った嶋木は、先ほど躱わし損ねて一発浴びた頬の辺りを撫でながら、ラッキーパンチだったな、と苦笑した。
そして、あれもラッキーパンチだった、と遠い日のあの試合を想い起こした。
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