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第二章 フリーの一見客
⑦名も知らぬ忘れ得ぬ男
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今日のようなやくざな男たちを見る度に、嶋木は、ずっと昔、自宅の近くにやって来た名も知らぬ男のことを思い出す。男はチンピラやくざとは正反対の位置に居る矜持をしっかり保った男だった、と嶋木は思っている。黒づくめの衣服に身を包み、額にも頬にも険しい皺が刻まれていた。
その時、嶋木は小学六年生の十二歳で、学校から帰ると毎日のように、近くに在った広い空き地で友達十数人と野球に興じていた。そして、秋も終わりに近づいたある夕暮れのこと、センターを守っていた彼が、ふと西側の大通りに眼をやった時、その男が眼に入ったのである。
男はキビキビした早い足取りで通りを北へ向かっていた。黒のスーツに黒いワイシャツ、黒いネクタイをきりりと締めて黒いソフト帽を目深に冠り、先の尖った黒い靴がズボンの裾から覘いていた。手にはジムに通うスポーツ選手が持つ類の小さな革のバッグを提げて、何かの建物を探しているようであった。
それから、空き地の角の十字路でつと立ち止まって何かを確認すると、直ぐに右折して、北側の道路に面した十階建ての大きなマンションに入って行き、それっきり出て来なかった。マンションは、以前に在った「千舟座」という芝居小屋の跡地に建てられていたので、辺りの人たちは「千舟マンション」と呼んでいた。
その晩、夕食の後、嶋木は、映画の中のニヒルな殺し屋もどきの格好をしたその男のことを両親に話した。父親と母親は食事の後の熱いお茶を啜りながら、嶋木に忠告した。
「そんな訳の解からないやくざ紛いの人とは関わってはいけないよ」
「その男の人は、空き地の横のマンションに入って行ったきり、出て来なかったんだ」
嶋木は言った。
「あの人、あそこに住むのだろうか?」
母親が応えた。
「あのマンションには空室が幾つか有るそうよ。その人はきっと空室のどれかを借りたんじゃない?近くに在る大きな染色工場に職人として新しく雇われたのかも知れないしね」
だが、翌日、男は全く姿を現さなかった。その次の日になっても、矢張り同じだった。男は染色工場に雇われた職人ではなかった。あの服装からいっても、それはそうだったろうと嶋木は思った。夜になって、嶋木はこっそりと空き地に出向き、男が部屋を借りたかも知れないマンションの三階辺りに目を走らせて、ブラインドの下りている窓をじっと見つめた。男はちらとも姿を見せなかった。
それから一週間後のことだった。
嶋木が友達と野球をしに空き地に行くとマンションの三階のブラインドが上がった。あの男が座っていた。黒いシャツを着て黒いネクタイを結んでいた。窓際から少し離れた奥に座っているので、真下の道路を往来する人間の眼には入らなかっただろう。夕暮れになって嶋木たちが家へ帰る頃になると、男は又、ブラインドを下ろした。
数日後、嶋木は母親に言い遣って近所の酒店へ醤油と酢を買いに行った。
早く遣いを済ませて遊びに行こうと急ぎ足で店に入った嶋木の眼に、カウンターに立っているあの男の姿が飛び込んで来た。嶋木は縮み上がった。
男は嶋木の視線を感じたらしく、さっと振り返ると、射るように鋭い黒い眼で彼を見つめた。おどおどした表情の少年嶋木に男は頷いてみせ、買物の包みを抱えて出て行った。
それから数日間というもの、嶋木が空き地へ行く度にマンションを見上げると、男は大抵窓際に座って新聞を読んでいた。男はそうやって何日かを過ごしていた。ひょっとして何かを待っているのかも知れなかった。
ある生暖かい金曜日の午後だった。嶋木が空き地で遊んでいると、ふと、大通りを徐行している黒い外車が眼に止った。大きな長い黒のボディがピカピカに輝いている。中には二人の男が乗っていた。左側の運転席の男も、右側の助手席の男も、二人とも黒ずくめの衣装を身に纏い、黒眼鏡を懸けていた。運転席の男は口髭も生やしているようだった。外車はゆっくり走って、二丁目を左に折れて消えた。数分後、一丁目から出て来た外車は、またゆっくりと慎重に通りを流して行った。その外車が三度目に表われて二丁目の角を曲がった時、嶋木はあの男が住んでいるマンションに飛び込んで行った。心臓が早鐘を打っていた。
嶋木はドンドンと男の部屋のドアを叩いた。返事が無い。もう一度叩くと、部屋の中で人の動く気配がした。
嶋木は言った。
「僕だよ、おじさん。この間、酒屋で出逢った僕だよ。あのう、知らせておきたいことがあるんだけど・・・」
内側から鍵が外されてノブがゆっくりと回った。と、その瞬間、毟り取られるようにドアがさっと開いた。嶋木は吃驚して後ろに跳び退った。男はビシッと上下のスーツを着込んで、拳銃を構えて立っていた。
「おい、おい、坊主・・・」
ふう~っと息を吐き出して男は言った。
「お前の頭を吹っ飛ばしてしまうところだったぞ、こら」
「済みません」
嶋木はじっと拳銃を見つめた。本物の拳銃を見るのは初めてだった。古びたニッケルのような色をしていた。当然ながら、拳銃の名前までは判らなかった。
「でも僕、どうしてもおじさんに知らせておきたかったんだ。あのね、さっきから黒い大きな外車が、この近所を三回も廻っているんだよ。中には黒い服を着て黒いサングラスを掛けた二人の男の人が乗っていたけど」
男はブラインドを下ろした窓を一瞥し、眼を細く眇めて嶋木を見た、が、何も言わなかった。
「あの連中、おじさんを探しているんじゃないかな」
「いや」
男は上着のポケットを弄り千円札を一枚取り出した。
「有難うよ、坊主。然し、いいか、お前は此処で何も見なかったし誰にも会わなかったんだ。いいな!」
「うん」
「ようし。じゃあ家に帰って学校の宿題でもやりな」
嶋木は千円札をポケットに納って家に帰った。
その時、嶋木は小学六年生の十二歳で、学校から帰ると毎日のように、近くに在った広い空き地で友達十数人と野球に興じていた。そして、秋も終わりに近づいたある夕暮れのこと、センターを守っていた彼が、ふと西側の大通りに眼をやった時、その男が眼に入ったのである。
男はキビキビした早い足取りで通りを北へ向かっていた。黒のスーツに黒いワイシャツ、黒いネクタイをきりりと締めて黒いソフト帽を目深に冠り、先の尖った黒い靴がズボンの裾から覘いていた。手にはジムに通うスポーツ選手が持つ類の小さな革のバッグを提げて、何かの建物を探しているようであった。
それから、空き地の角の十字路でつと立ち止まって何かを確認すると、直ぐに右折して、北側の道路に面した十階建ての大きなマンションに入って行き、それっきり出て来なかった。マンションは、以前に在った「千舟座」という芝居小屋の跡地に建てられていたので、辺りの人たちは「千舟マンション」と呼んでいた。
その晩、夕食の後、嶋木は、映画の中のニヒルな殺し屋もどきの格好をしたその男のことを両親に話した。父親と母親は食事の後の熱いお茶を啜りながら、嶋木に忠告した。
「そんな訳の解からないやくざ紛いの人とは関わってはいけないよ」
「その男の人は、空き地の横のマンションに入って行ったきり、出て来なかったんだ」
嶋木は言った。
「あの人、あそこに住むのだろうか?」
母親が応えた。
「あのマンションには空室が幾つか有るそうよ。その人はきっと空室のどれかを借りたんじゃない?近くに在る大きな染色工場に職人として新しく雇われたのかも知れないしね」
だが、翌日、男は全く姿を現さなかった。その次の日になっても、矢張り同じだった。男は染色工場に雇われた職人ではなかった。あの服装からいっても、それはそうだったろうと嶋木は思った。夜になって、嶋木はこっそりと空き地に出向き、男が部屋を借りたかも知れないマンションの三階辺りに目を走らせて、ブラインドの下りている窓をじっと見つめた。男はちらとも姿を見せなかった。
それから一週間後のことだった。
嶋木が友達と野球をしに空き地に行くとマンションの三階のブラインドが上がった。あの男が座っていた。黒いシャツを着て黒いネクタイを結んでいた。窓際から少し離れた奥に座っているので、真下の道路を往来する人間の眼には入らなかっただろう。夕暮れになって嶋木たちが家へ帰る頃になると、男は又、ブラインドを下ろした。
数日後、嶋木は母親に言い遣って近所の酒店へ醤油と酢を買いに行った。
早く遣いを済ませて遊びに行こうと急ぎ足で店に入った嶋木の眼に、カウンターに立っているあの男の姿が飛び込んで来た。嶋木は縮み上がった。
男は嶋木の視線を感じたらしく、さっと振り返ると、射るように鋭い黒い眼で彼を見つめた。おどおどした表情の少年嶋木に男は頷いてみせ、買物の包みを抱えて出て行った。
それから数日間というもの、嶋木が空き地へ行く度にマンションを見上げると、男は大抵窓際に座って新聞を読んでいた。男はそうやって何日かを過ごしていた。ひょっとして何かを待っているのかも知れなかった。
ある生暖かい金曜日の午後だった。嶋木が空き地で遊んでいると、ふと、大通りを徐行している黒い外車が眼に止った。大きな長い黒のボディがピカピカに輝いている。中には二人の男が乗っていた。左側の運転席の男も、右側の助手席の男も、二人とも黒ずくめの衣装を身に纏い、黒眼鏡を懸けていた。運転席の男は口髭も生やしているようだった。外車はゆっくり走って、二丁目を左に折れて消えた。数分後、一丁目から出て来た外車は、またゆっくりと慎重に通りを流して行った。その外車が三度目に表われて二丁目の角を曲がった時、嶋木はあの男が住んでいるマンションに飛び込んで行った。心臓が早鐘を打っていた。
嶋木はドンドンと男の部屋のドアを叩いた。返事が無い。もう一度叩くと、部屋の中で人の動く気配がした。
嶋木は言った。
「僕だよ、おじさん。この間、酒屋で出逢った僕だよ。あのう、知らせておきたいことがあるんだけど・・・」
内側から鍵が外されてノブがゆっくりと回った。と、その瞬間、毟り取られるようにドアがさっと開いた。嶋木は吃驚して後ろに跳び退った。男はビシッと上下のスーツを着込んで、拳銃を構えて立っていた。
「おい、おい、坊主・・・」
ふう~っと息を吐き出して男は言った。
「お前の頭を吹っ飛ばしてしまうところだったぞ、こら」
「済みません」
嶋木はじっと拳銃を見つめた。本物の拳銃を見るのは初めてだった。古びたニッケルのような色をしていた。当然ながら、拳銃の名前までは判らなかった。
「でも僕、どうしてもおじさんに知らせておきたかったんだ。あのね、さっきから黒い大きな外車が、この近所を三回も廻っているんだよ。中には黒い服を着て黒いサングラスを掛けた二人の男の人が乗っていたけど」
男はブラインドを下ろした窓を一瞥し、眼を細く眇めて嶋木を見た、が、何も言わなかった。
「あの連中、おじさんを探しているんじゃないかな」
「いや」
男は上着のポケットを弄り千円札を一枚取り出した。
「有難うよ、坊主。然し、いいか、お前は此処で何も見なかったし誰にも会わなかったんだ。いいな!」
「うん」
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