クラブ「純」のカウンターから

相良武有

文字の大きさ
59 / 72
第三章 常連客、プレイおやじ、若原

③「私は世界遺産がとても好きなの」

しおりを挟む
 或る時、突然、彼女が直截に聞いて来た。
「あなたは何か特別な趣味をお持ちになっていらっしゃるの?」
若原は不意打ちを喰ったようで狼狽えた。まさか、女性が趣味だ、とも答えられない。
答を探すように視線を宙に泳がせていると、彼女が言った。
「私は世界遺産がとても好きなの」
「世界遺産?然し、そんなものを観て歩いたら相当に費用が嵩張るんじゃないのかい?」
「そうね、だから大概は本の写真かテレビの画面で見ることが多いのだけど、とても嬉しくてハッピーな時とか、逆に、物凄く辛くて苦しくてきつい時とかには、思い切ってさっと観に行っちゃうの。あの壮大で荘厳な実物を見て神秘と謎の世界に浸っていると、日頃の喜怒哀楽や人生の悲喜こもごもなんて何時の間にか何処かへ吹っ飛んでしまう。人間って凄いなあ、ってつくづく感じ入ってしまうわ」
「何処か特別に思い入れる処は在ったのかい?」
「何処も彼処も素晴らしいのだけれど、石の遺跡なんかは凄いと思う。巨大な石を切り出して一分の隙も無く積み上げて創られているの」
「ほおう?」
「エジプトの石壁は巨石を複雑な形状に正確に切り出して隙間なく積み重ねてある。ただ四角い石を切り出すのではなく、立断面や上下の面にも凹凸をつけて切り出し、それを積み重ねることでどんな方向にもずれないように出来ているし、イランのファールス州にあるぺルセポリスの大階段は広大な人工基壇の上に築かれているので、遺跡の入口へは百十段もの階段を登らなければ行き着けないの」
「なるほど」
「チリ領のイースター島には人面を模した石造彫刻のモアイと言うのが在るの。海に面したアフと呼ばれる高台に、多くの場合、海を背に向けて多数建てられている。モアイは、祭祀目的で立てられた、と推測されているけれども、実際の祭祀形態については諸説が有ってはっきりしないの」
 それから彼女は石の遺跡について若原の全く知らない神秘の幾つかを説明した。
「特にペルーにはクスコ、シルスタニ遺跡、サクサイワマン、オリャンタイタンボ、と言った名立たる遺跡が幾つも存在するの」
 クスコの石垣はインカ時代よりも前の七世紀から十二世紀に作られたもので、剃刀一枚、水一滴さえも通さないその驚異的で精巧な石組みの技術は今もなお注目されており、少なくとも、千年の年月と、その間の二度に渡る大地震にも、微動だにしなかった石組みは、インカの石組みの技術が現代の技術を凌駕していることを如実に物語っているものである。
 シルスタニ遺跡は先インカ時代からインカ時代にかけてつくられた円柱形の墓で、すべての墓の東側に出入り口があり、そこから太陽が差し込むようになっている。これは東から昇る太陽の光を浴びると死者の魂がよみがえると信じられていたからだと言われている。
 サクサイワマンはインカの遺跡で、その目的は城砦、宗教施設、その双方を兼ねた建造物など諸説があるが未だ確定しておらず、一九八三年にクスコの市街としてユネスコの世界遺産に登録されたものである。
「中でも私が最も驚かされたのは、高さが私の背丈の4倍近くもある数百トンの超巨石が、周囲の、これも何十トンもありそうな巨石群と多面体で繋ぎ合わされていることだったの。因みに、最大の巨石は三六〇トンを越すと言われており、この重さはなんと地下鉄の車両15台分にも相当するのだって」
 オリャンタイタンボは川岸の平地と急な斜面に築かれた建築物で、インカの都市建設の主な特徴を具備し、標高二、八四六メートルにあるこの砦は正面に六枚岩の壁を備えてその威容を誇っている。その壁石は、列によって少しのすき間もなくぴったりと組み合わされ、完璧な接合を見せている。いずれの石も数十トンはあろうかという巨大なものばかりである。
「それから、老いた峰、と言う意味のマチュピチュと言う遺跡が有るのだけれど、この遺跡は山裾からはその存在が確認できないことから、しばしば、空中都市、空中の楼閣、インカの失われた都市、などと雅称されているの。主神殿の石組みはピッタリと合わされていたけど、居住区域の石組みはちょっと不ぞろいな造りだった。たぶんそこに最初からあった自然の巨石を巧みに石組みに組み込んで利用したんだと思う。その技術や発想力にもびっくりさせられたし、削る道具も運ぶ道具も今とは全く違う中で、どうやってこれだけの石組みを作れたのだろうかと真実の不思議に思ったわ」
太陽の神殿の裏にある壁は石がぴったりと重なっていて、最も美しい壁、と言われていると彼女は言った。
「マチュピチュとピラミッド周辺の河岸神殿が作られた頃に、全く場所が異なるところで、石組みの異なる技術が使われているの。移動手段がない時代に、誰が、どうやって技術を伝達したのか、全く驚き以外の何物でも無いわよ」
「然し、そういう石の遺跡や世界遺産に関心や興味を持つ契機は何だったの?」
「うん、それはね。十数年前に書籍の編纂で世界遺産のシリーズ物を刊行することになったの。その時に石の遺跡の特集を組んだのね、で、実際に現場へ観に出かけて、その余りの凄さに圧倒されてしまったの。古代の人達がどうやってあの巨大な石を切ったり運んだり積み上げたりしたのか、何人の人間がどれくらいの時間をかけて作り上げたのか、現代の我々にはもう想像を遥かに超えた世界だと思った。時の司祭者や為政者の絶大な権力による使役で夥しい数の犠牲者を出しただろうけど、兎も角も創り上げたその偉業に、言葉も出ない程に圧倒されたの。それが最初の契機だったと思うわ」
彼女はそう言って若原の顔を窺うようににっと微笑った。
 話を聞きながら若原は、彼女は一本筋の通った背骨をしっかり持った大人の女性だ、とその教養の深さと聡明さに愈々魅せられた。
「でも世界遺産って真実に良いわよ。心も身体も癒されるし、それだけで無く、明日を生きる活力も勇気も貰える。観ていると何かとてつもなく大きなものに包まれて精気が蘇える、自分が新たに生き返る気がするのね」
そう言って彼女は照れたように、はにかむように、小さな微笑いを頬に刻んだ。それは若原にとってこの上なく愛おしかった。
 
 何をしても彼女と居ると若原の心はときめいた。
それまでの大勢の女性達との出会いとは似ても似つかぬ感情が胸に溢れた。そう、敬愛の情だった。それまで若原は女性に対して尊んだり敬ったりという思いを抱いたことは無かった。女性は若原にとって、惚れた、はれた、好きだ、恋しい、可愛い、それだけの存在であり、情事の対象として熱意を傾ける存在でしかなかった。だが、彼女は違っていた。女というよりも一人の人間としての存在、何か自分よりも気高い崇高なものが彼女の中に存在するように感じられて、畏敬の念すら抱いた。こんな気持は初めて味わう感情だった。
そうだ、これが愛というものだ!
 若原は初めて愛を理解した気がした。
そして、人生の伴侶というものにも初めて思いを馳せた。
情事は一時の情熱だけだし、惚れた、はれた、という恋愛の感情は持続しても精々が一、二年であろう。だが、一緒に生きる伴侶が居るということは、それは人生の希望になり得るだろう。
 だが、若原は次第に、自分が彼女から敬愛されるに相応しい存在かどうかという不安につきまとわれるようになった。
「彼女と知り合った当座は、そんな不安は頭に浮かばなかったんだが、彼女を愛し始めた途端に、色んな不安に付きまとわれることになってしまった。先ず、自分が歳をとり過ぎていることが心配になった。彼女が俺のことを身の程知らずの浮気男と思っているのではないかと心配になった。教養や知性の乏しい軽薄な人間と内心軽蔑しているのではないかと心配になった。俺はまさしく疑心暗鬼の心理状態に陥ったんだよ」
そして、彼女の誕生日の夜が決定的となってしまった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

まだ見ぬ未来へ駆け抜けて!

小林汐希
ライト文芸
2年5組の生徒:松本花菜(17歳 高校2年生) 2年5組の担任:長谷川啓太(23歳 教師歴1年目) 幼い頃から、様々な悩みを抱えながら過ごしてきた花菜。 それは幼い頃に父との離別を経験した家庭環境だったり、小学校の最後に作ってしまった体の古傷であったり。 学校外の時間を一人で過ごすことになった彼女の唯一、かつ絶対的な味方でいてくれたのが、近所に住む啓太お兄ちゃんだった。 しかし年の離れた二人の関係では仕方ないとはいえ、啓太の大学進学や環境変化とともに、その時間は終わりを迎えてしまう。 ふさぎ込む花菜を前に、啓太は最後に「必ず迎えに来る」という言葉を残して街を離れた。 言葉を受け取った花菜は、自分を泣かせないための慰めだったという諦めも入りつつ、一方で微かな希望として心の中で温め続けていた。 数年の時を経て二人が再び顔を合わせたものの、もはや運命の意地悪とでもいうべき「担任教師と生徒」という関係。 最初は様子伺いだったけれど、往時の気持ちが変わっていないことを再確認してからは、「一人じゃない」と嬉しいこと・辛いことも乗り越えていく二人には少しずつ背中を押してくれる味方も増えていく。 再会した当初は「おとなしい終末的運命キャラ」になっていた花菜も次第に自信を取り戻し、新米教師の啓太も花菜のサポートを裏で受けつつ堂々と教壇に立ち続けた。 そんな互いを支えあった二人の前に開けた世界は……。 たった一つだけの約束を胸に、嬉しいときは一緒に喜び、悲しいときは支えあって走り抜けた二人の物語です。

Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都
青春
幼なじみへの気持ちの変化を自覚できずにいた中2の夏。ライバルとの出会いが、少年を未知のスポーツへと向わせた。 美少女と手に手をとって進むその競技の名は、アイスダンス!! 【2022/6/11完結】  その日僕たちの教室は、朝から転校生が来るという噂に落ち着きをなくしていた。帰国子女らしいという情報も入り、誰もがますます転校生への期待を募らせていた。  そんな中でただ一人、果歩(かほ)だけは違っていた。 「制覇、今日は五時からだから。来てね」  隣の席に座る彼女は大きな瞳を輝かせて、にっこりこちらを覗きこんだ。  担任が一人の生徒とともに教室に入ってきた。みんなの目が一斉にそちらに向かった。それでも果歩だけはずっと僕の方を見ていた。 ◇ こんな二人の居場所に現れたアメリカ帰りの転校生。少年はアイスダンスをするという彼に強い焦りを感じ、彼と同じ道に飛び込んでいく…… ――小説家になろう、カクヨム(別タイトル)にも掲載――

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

怪我でサッカーを辞めた天才は、高校で熱狂的なファンから勧誘責めに遭う

もぐのすけ
青春
神童と言われた天才サッカー少年は中学時代、日本クラブユースサッカー選手権、高円宮杯においてクラブを二連覇させる大活躍を見せた。 将来はプロ確実と言われていた彼だったが中学3年のクラブユース選手権の予選において、選手生命が絶たれる程の大怪我を負ってしまう。 サッカーが出来なくなることで激しく落ち込む彼だったが、幼馴染の手助けを得て立ち上がり、高校生活という新しい未来に向かって歩き出す。 そんな中、高校で中学時代の高坂修斗を知る人達がここぞとばかりに部活や生徒会へ勧誘し始める。 サッカーを辞めても一部の人からは依然として評価の高い彼と、人気な彼の姿にヤキモキする幼馴染、それを取り巻く友人達との刺激的な高校生活が始まる。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

処理中です...