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第四章 常連客、大木の殉愛死
③大木は一生涯を懸けた愛に殉じたのだ!
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半月ほどが経った或る日、もう返事は無いものと諦めかけていた嶋木の元に、宛先人女性の娘と名乗る三十歳過ぎの女性から、連絡が入った。大木に線香の一本を手向けたいと言う。
翌日訪ねて来た娘の口から真相が話された。
「母は二月の寒い吹雪の日に亡くなりました。以前に手術した乳がんの再発と転移で、半年間の入院闘病の後、死にました。大木様には母の死後、お知らせしました」
嶋木は、大木が泥酔し呻吟し嗚咽して、「他人の領域に土足で踏み込むな」と嶋木を批難したあの時だと思い至った。
「これは、母の妹である叔母から聞いた話ですが」と前置きして、娘は話を続けた。
「嘗て若い頃、大木様と私の母は、お互いの友人達が羨む恋人同士でした。二人は愛し合い慈しみ合い、尊敬し合って幸せを育み合っていたということでした」
が、母親が未だ大学生だったということもあって二人に結婚の機が熟す前に、城下町の素封家であった母親の家が没落の憂き目に会った。彼女は旧家の長女だったのである。家族は両親と少し歳の離れた妹が一人居ただけである。
「母は家と家族を救う為に、両親に説諭されて、地元で手広く事業を起こし、全国レベルの企業に発展していた実業家の長男のもとへ、切望されて嫁ぎました。家の借金の肩代わりや家族の爾後の生活の為に嫁がざるを得なかったのです」
母親は嫁ぐ半月前に大木と二人、熱海へ二泊三日の旅行をして許しを乞い、大木も黙して受け入れた。
「母は、精神も肉体も、生そのもの全てを大木様に授けておきたかったのだと思います。だから大木様も黙って受容されたのでしょう」
それがあの淋しそうな最後の熱海での写真だったのか、と嶋木は想い起した。
大木と母親の二人の心には、生涯を賭けて愛し信じ合う固い契りと約束が、言葉には出さずとも、お互いに確信出来ていたのではないか、嶋木は思った。恐らく互いの人生をかけた愛の交歓だったであろう。
「母は大木様を生涯お慕いしていたと思います」
娘は半ば断定的に言った。
「母は、父にも私達子供にも精一杯の愛情を注いでくれました。事業で忙しい父には献身的に尽くして支え、子供には溢れるばかりの愛情と零れる笑顔で接しました。母が居る家は何時も明るく幸せそのものでした。母は生涯をかけて父や家族と、そして、大木様に対して、償いをしていたのではないかと思います」
「お母さんと大木さんとの間に行き来や交信は無かったのですか」
嶋木は無開封の手紙の束を想い出して聞いてみた。
「大木様からは転勤される度に、自宅の住所を自書した転勤通知だけが来たということでした。母はその都度、返事を差し上げたようですが、一度も返信は無かったそうです。二人が再会したことは一度も無いと叔母が断言しています」
娘は言葉を切って、一息入れた。
が、これでお終いです、という感じではなかった。何か思い惑っているふしが見える。話そうか話すまいか、躊躇している様子である。
暫し沈黙が流れた。
と、意を決したように顔を上げて、娘は嶋木をじっと見つめて、言った。
「私の血液型、B型なんです」
「えっ?」
娘の唐突な言葉に、嶋木は問い掛ける眼差しを返した。
「母はO型で、父はA型です。父と母からはB型の子供は生まれないんです」
あっ、そうだったのか。嶋木は虚を衝かれた思いで理解した。
「それで、そのことは、大木さんは知っていたのですか?」
「さあ、それは判りません。でも、恐らくご存じ無かっただろうと思います」
「どうしてですか?」
「母は自分ひとりの胸に生涯仕舞い込んでおくことによって、私と父と、そして、大木様に謝罪し、償ったのだと思います」
「・・・・・」
一人の女性を生涯かけて信じ愛し続けた大木の矜持、全てを飲み込んで妻と娘に限り無い愛情を注いだ夫の心の大きさ、一生をかけて夫や娘や大木に償い続けた女の真摯さ、三人の生き様に嶋木は頭の下がる想いがした。俺には到底出来ないことだ!
嶋木は、この娘のことは大木も知っていたのではないか、と思った。そうでなければ、自分から去って行った女性を、怨みもせず憤りもせず、男の意地も見せず、ただじっと己の胸に畳み込んで、長い人生を、矜持を保って生きることは到底出来ないであろう。
あの色鮮やかな二着のドレスは、愛する女性に対する信じる心の誓いの象徴であると同時に、成長していく娘に対する秘かな幸せへの願いだったのではなかろうか。そして、あの座右の銘は、自分を厳しく律する掟として大木が生涯守り通そうとした戒律だったのだ、嶋木は今更ながらに、大木の矜持の高さと強靭な意思に胸が熱くなった。
自分の内に秘めた錘を生涯一途に持続し守り抜く誇りと孤高の精神、妻も娶らず家庭も持たず、生涯一人の女性を思い続ける強烈なロマンと強靭な志、嶋木は「他人の領域に土足で踏み込むな」と言った大木の言葉の真の意味を漸く理解した気がした。
大木は一生涯を懸けた愛に殉じたのだ、これは殉死だ!
話を聞き終わった嶋木の胸には熱いものが込み上げて来ていた。彼の胸に星座がひとつ煌めいて見えた。
翌日訪ねて来た娘の口から真相が話された。
「母は二月の寒い吹雪の日に亡くなりました。以前に手術した乳がんの再発と転移で、半年間の入院闘病の後、死にました。大木様には母の死後、お知らせしました」
嶋木は、大木が泥酔し呻吟し嗚咽して、「他人の領域に土足で踏み込むな」と嶋木を批難したあの時だと思い至った。
「これは、母の妹である叔母から聞いた話ですが」と前置きして、娘は話を続けた。
「嘗て若い頃、大木様と私の母は、お互いの友人達が羨む恋人同士でした。二人は愛し合い慈しみ合い、尊敬し合って幸せを育み合っていたということでした」
が、母親が未だ大学生だったということもあって二人に結婚の機が熟す前に、城下町の素封家であった母親の家が没落の憂き目に会った。彼女は旧家の長女だったのである。家族は両親と少し歳の離れた妹が一人居ただけである。
「母は家と家族を救う為に、両親に説諭されて、地元で手広く事業を起こし、全国レベルの企業に発展していた実業家の長男のもとへ、切望されて嫁ぎました。家の借金の肩代わりや家族の爾後の生活の為に嫁がざるを得なかったのです」
母親は嫁ぐ半月前に大木と二人、熱海へ二泊三日の旅行をして許しを乞い、大木も黙して受け入れた。
「母は、精神も肉体も、生そのもの全てを大木様に授けておきたかったのだと思います。だから大木様も黙って受容されたのでしょう」
それがあの淋しそうな最後の熱海での写真だったのか、と嶋木は想い起した。
大木と母親の二人の心には、生涯を賭けて愛し信じ合う固い契りと約束が、言葉には出さずとも、お互いに確信出来ていたのではないか、嶋木は思った。恐らく互いの人生をかけた愛の交歓だったであろう。
「母は大木様を生涯お慕いしていたと思います」
娘は半ば断定的に言った。
「母は、父にも私達子供にも精一杯の愛情を注いでくれました。事業で忙しい父には献身的に尽くして支え、子供には溢れるばかりの愛情と零れる笑顔で接しました。母が居る家は何時も明るく幸せそのものでした。母は生涯をかけて父や家族と、そして、大木様に対して、償いをしていたのではないかと思います」
「お母さんと大木さんとの間に行き来や交信は無かったのですか」
嶋木は無開封の手紙の束を想い出して聞いてみた。
「大木様からは転勤される度に、自宅の住所を自書した転勤通知だけが来たということでした。母はその都度、返事を差し上げたようですが、一度も返信は無かったそうです。二人が再会したことは一度も無いと叔母が断言しています」
娘は言葉を切って、一息入れた。
が、これでお終いです、という感じではなかった。何か思い惑っているふしが見える。話そうか話すまいか、躊躇している様子である。
暫し沈黙が流れた。
と、意を決したように顔を上げて、娘は嶋木をじっと見つめて、言った。
「私の血液型、B型なんです」
「えっ?」
娘の唐突な言葉に、嶋木は問い掛ける眼差しを返した。
「母はO型で、父はA型です。父と母からはB型の子供は生まれないんです」
あっ、そうだったのか。嶋木は虚を衝かれた思いで理解した。
「それで、そのことは、大木さんは知っていたのですか?」
「さあ、それは判りません。でも、恐らくご存じ無かっただろうと思います」
「どうしてですか?」
「母は自分ひとりの胸に生涯仕舞い込んでおくことによって、私と父と、そして、大木様に謝罪し、償ったのだと思います」
「・・・・・」
一人の女性を生涯かけて信じ愛し続けた大木の矜持、全てを飲み込んで妻と娘に限り無い愛情を注いだ夫の心の大きさ、一生をかけて夫や娘や大木に償い続けた女の真摯さ、三人の生き様に嶋木は頭の下がる想いがした。俺には到底出来ないことだ!
嶋木は、この娘のことは大木も知っていたのではないか、と思った。そうでなければ、自分から去って行った女性を、怨みもせず憤りもせず、男の意地も見せず、ただじっと己の胸に畳み込んで、長い人生を、矜持を保って生きることは到底出来ないであろう。
あの色鮮やかな二着のドレスは、愛する女性に対する信じる心の誓いの象徴であると同時に、成長していく娘に対する秘かな幸せへの願いだったのではなかろうか。そして、あの座右の銘は、自分を厳しく律する掟として大木が生涯守り通そうとした戒律だったのだ、嶋木は今更ながらに、大木の矜持の高さと強靭な意思に胸が熱くなった。
自分の内に秘めた錘を生涯一途に持続し守り抜く誇りと孤高の精神、妻も娶らず家庭も持たず、生涯一人の女性を思い続ける強烈なロマンと強靭な志、嶋木は「他人の領域に土足で踏み込むな」と言った大木の言葉の真の意味を漸く理解した気がした。
大木は一生涯を懸けた愛に殉じたのだ、これは殉死だ!
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