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第七章 バーテンダー嶋木
⑧三年の歳月が流れた
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美幸が逝ってから三年の歳月が流れた。
だが、今日も嶋木は、このところ通い詰めて馴染みになっている小さなクラブのドアを押して、仄暗い店内へ入って行った。嶋木は自分の勤める店では呑まなかった。仕事と私生活は常に峻別していた。
五十年輩のママと二十七、八歳の女性バーテンダーが居るだけの小奇麗なクラブである。
正面のカウンター席にはきちんとネクタイを結んだスーツ姿のサラリーマン風の男が三人、ママを話の仲間に引き入れて屈託無く談笑していたし、奥のボックス席には和服姿の男女が一組、静かに話し込んでいた。
和服の男の太い眉の下の眼には力強い光が宿り、引き締まった口元にも意思の強さが見て取れた。女はふっくらとした色白の丸顔に涼やかな大きな瞳をしていた。凡そ刺々しさなど微塵も感じさせない円やかさがあった。
男は三十歳前後、女は二十五、六歳かと、嶋木は推し測った。
嶋木は空いている奥のカウンター席に、ボックス席を背にして腰掛けた。直ぐにバーテンダーが嶋木の前にバーボンの水割りとつまみを出してくれた。嶋木はいつものように軽く片手にグラスを持ち上げて、ママとバーテンダーに目顔で挨拶し、それから無言で飲み始めた。
暗い表情で飲んでいる嶋木の耳に、聞くとは無しに、後ろの席の男女の話し声が聞こえて来た。
「今日は、朝からは展示即売会、夕方からは上得意さんの接待で、一日大変だったろう、ご苦労さん」
「ううん、あなたこそお疲れさまでした」
「一年前に親父が脳梗塞で倒れた後、お袋がその介護で奥に引っ込んでしまったから、店での接客や家の中の家事全般がお前に全部圧し掛かってしまった。本当に良くやってくれているよ。有難うな」
「いいの。私は唯、あなたのお役に立ちたいだけなの」
「親父が倒れてから暫くの間、売上が一寸落ちて気を揉んだが、ここ三ヶ月は順調に行っている。先月も先々月も去年を上回っている。呉服業界は斜陽のじり貧状態だから先の楽観は出来ないが、まあ、正直のところ、ホッと一息ついているというのが本音だな」
「そう、良かったわね」
暫く二人は、この一年を互いの胸の中で顧みているようであった。
「なあ、一度、フレンチでも食べに行かないか」
「えっ?」
「新婚旅行から帰った翌日から、ずうっと働き詰めだったろう。偶には骨休めに二人でディナーぐらい良いんじゃないか」
「私のことなら、別にいいわよ、気にしなくて」
「お前も案外、出不精だからな」
そう言って男はくすっと笑った。何かを思い出したようだった。
「あれは一昨年だったかな。俺がお前をデートに誘ったことがあったな」
「ええ、よく覚えているわよ」
「あの時、俺には魂胆があったんだ」
「魂胆?」
「お前をモノにしようと思ったんだよ」
「何言っているのよ、馬鹿ね」
「子供の頃から一緒に遊んだ幼友達のお前が、高校を卒業した後どんどん女っぽくなっていって、俺は気が気じゃなかった。此の儘、何処かの誰かと結婚しちゃうんじゃないかと心配したんだよ」
「そんな心配なんてする必要無かったのに」
女は小さな声で言った。
「ところが、お前にあっさり断わられてしまってな。俺は自棄酒を呷ってぐでんぐでんに酔っ払って帰ったんだ」
「そうよ、へべれけに酔って、それも真夜中に家へやって来て、いきなり母に、光子さんを下さい、なんて言うんだから・・・。母も吃驚して呆気にとられていたわ」
「明くる朝一番に謝りに行って、もう一度正式に結婚を申し込んだ、という訳だ」
二人は顔を見合わせて微笑った。
これは未だ新婚の幸せなカップルだったんだ、と嶋木の胸に温かいものが込み上げて来た。
「ねえ」
女はグラスのカクテルを一口啜ってから、徐に言った。
「私この頃、亡くなった父の夢を見るの」
「お父さんの夢?」
「うん」
「然し、五つの時に死に別れて、殆ど何も憶えていないんだろう?」
「ええ。でも、夢に出て来る男の人が何故か父に思えてしまうのよ」
五歳の光子が駅の改札前に立っている。夕闇が迫っていて辺りは薄暗く、家路に急ぐ人の群れが次第に増えている。電車が発着する音が聞こえる。
いいかね、と光子の前に蹲ったその男が言う。
「じっとして待っているんだぞ。此処を動くんじゃないぞ、解かったな」
そう言うと、男は光子の両手を痛いほど強く握り締めて、それから立ち上がると背を向けて改札の中へと消えて行く。その背中が明るい改札の向こうへ消えていくのを見送りながら、光子は半べそを掻いている。
それから暫くして、「お父ちゃん」と呼びながら、光子が何処とも知れない暗い街中の通りを彷徨い歩いている。光子の小さな胸には悲しみが溢れて頬に涙が滴り、そこで目覚める。目覚めた光子の頬も濡れている。
「お前もずうっと父親が恋しかったんだな。看護師の気丈なおふくろさんに立派に育てられても、やっぱり男親が居なくて寂しい思いをして来たということか」
「そんな大層な事じゃないのよ」
女は明るい声で男の言葉を否定した。
「恋しいとか寂しいとかということでもないの。私が今幸せだから、お父さんが居たら歓ぶだろうなと思って。駅の改札に消えて行く夢の中の父の背中が寂しそうだったからそう思うのね」
「夢の中のその駅が何処か解かるのか?」
「解かる訳無いでしょ、夢の中の話なんだから」
「それもそうだな」
二人は声を立てて明るく笑い合った。
「もう子供じゃないんだからお父さんは要らないのよね」
女は男を心から信頼しているように少し甘える声で言った。
「私は、あなたが居れば良いんだわ」
この二人は信頼の深い絆で結ばれた幸せな夫婦だ、と嶋木は思った。そして、その幸せが何時までも続くことを心から願った。
嶋木は話を聴きながら、奈美のことを思った。美幸が逝って既に三年の歳月が流れ、近頃になって、嶋木は奈美のことや奈美と暮らした日々のことを思い出すことが多くなっている。それも当初ほどの強い憤怒や憎悪の思いは薄らいで、美幸と三人で過ごした四年間の出来事と併さって懐かしい気持さえ混ざって来ている。
独りで黙々と酒を呷る嶋木の胸がきりりと疼いた。
だが、今日も嶋木は、このところ通い詰めて馴染みになっている小さなクラブのドアを押して、仄暗い店内へ入って行った。嶋木は自分の勤める店では呑まなかった。仕事と私生活は常に峻別していた。
五十年輩のママと二十七、八歳の女性バーテンダーが居るだけの小奇麗なクラブである。
正面のカウンター席にはきちんとネクタイを結んだスーツ姿のサラリーマン風の男が三人、ママを話の仲間に引き入れて屈託無く談笑していたし、奥のボックス席には和服姿の男女が一組、静かに話し込んでいた。
和服の男の太い眉の下の眼には力強い光が宿り、引き締まった口元にも意思の強さが見て取れた。女はふっくらとした色白の丸顔に涼やかな大きな瞳をしていた。凡そ刺々しさなど微塵も感じさせない円やかさがあった。
男は三十歳前後、女は二十五、六歳かと、嶋木は推し測った。
嶋木は空いている奥のカウンター席に、ボックス席を背にして腰掛けた。直ぐにバーテンダーが嶋木の前にバーボンの水割りとつまみを出してくれた。嶋木はいつものように軽く片手にグラスを持ち上げて、ママとバーテンダーに目顔で挨拶し、それから無言で飲み始めた。
暗い表情で飲んでいる嶋木の耳に、聞くとは無しに、後ろの席の男女の話し声が聞こえて来た。
「今日は、朝からは展示即売会、夕方からは上得意さんの接待で、一日大変だったろう、ご苦労さん」
「ううん、あなたこそお疲れさまでした」
「一年前に親父が脳梗塞で倒れた後、お袋がその介護で奥に引っ込んでしまったから、店での接客や家の中の家事全般がお前に全部圧し掛かってしまった。本当に良くやってくれているよ。有難うな」
「いいの。私は唯、あなたのお役に立ちたいだけなの」
「親父が倒れてから暫くの間、売上が一寸落ちて気を揉んだが、ここ三ヶ月は順調に行っている。先月も先々月も去年を上回っている。呉服業界は斜陽のじり貧状態だから先の楽観は出来ないが、まあ、正直のところ、ホッと一息ついているというのが本音だな」
「そう、良かったわね」
暫く二人は、この一年を互いの胸の中で顧みているようであった。
「なあ、一度、フレンチでも食べに行かないか」
「えっ?」
「新婚旅行から帰った翌日から、ずうっと働き詰めだったろう。偶には骨休めに二人でディナーぐらい良いんじゃないか」
「私のことなら、別にいいわよ、気にしなくて」
「お前も案外、出不精だからな」
そう言って男はくすっと笑った。何かを思い出したようだった。
「あれは一昨年だったかな。俺がお前をデートに誘ったことがあったな」
「ええ、よく覚えているわよ」
「あの時、俺には魂胆があったんだ」
「魂胆?」
「お前をモノにしようと思ったんだよ」
「何言っているのよ、馬鹿ね」
「子供の頃から一緒に遊んだ幼友達のお前が、高校を卒業した後どんどん女っぽくなっていって、俺は気が気じゃなかった。此の儘、何処かの誰かと結婚しちゃうんじゃないかと心配したんだよ」
「そんな心配なんてする必要無かったのに」
女は小さな声で言った。
「ところが、お前にあっさり断わられてしまってな。俺は自棄酒を呷ってぐでんぐでんに酔っ払って帰ったんだ」
「そうよ、へべれけに酔って、それも真夜中に家へやって来て、いきなり母に、光子さんを下さい、なんて言うんだから・・・。母も吃驚して呆気にとられていたわ」
「明くる朝一番に謝りに行って、もう一度正式に結婚を申し込んだ、という訳だ」
二人は顔を見合わせて微笑った。
これは未だ新婚の幸せなカップルだったんだ、と嶋木の胸に温かいものが込み上げて来た。
「ねえ」
女はグラスのカクテルを一口啜ってから、徐に言った。
「私この頃、亡くなった父の夢を見るの」
「お父さんの夢?」
「うん」
「然し、五つの時に死に別れて、殆ど何も憶えていないんだろう?」
「ええ。でも、夢に出て来る男の人が何故か父に思えてしまうのよ」
五歳の光子が駅の改札前に立っている。夕闇が迫っていて辺りは薄暗く、家路に急ぐ人の群れが次第に増えている。電車が発着する音が聞こえる。
いいかね、と光子の前に蹲ったその男が言う。
「じっとして待っているんだぞ。此処を動くんじゃないぞ、解かったな」
そう言うと、男は光子の両手を痛いほど強く握り締めて、それから立ち上がると背を向けて改札の中へと消えて行く。その背中が明るい改札の向こうへ消えていくのを見送りながら、光子は半べそを掻いている。
それから暫くして、「お父ちゃん」と呼びながら、光子が何処とも知れない暗い街中の通りを彷徨い歩いている。光子の小さな胸には悲しみが溢れて頬に涙が滴り、そこで目覚める。目覚めた光子の頬も濡れている。
「お前もずうっと父親が恋しかったんだな。看護師の気丈なおふくろさんに立派に育てられても、やっぱり男親が居なくて寂しい思いをして来たということか」
「そんな大層な事じゃないのよ」
女は明るい声で男の言葉を否定した。
「恋しいとか寂しいとかということでもないの。私が今幸せだから、お父さんが居たら歓ぶだろうなと思って。駅の改札に消えて行く夢の中の父の背中が寂しそうだったからそう思うのね」
「夢の中のその駅が何処か解かるのか?」
「解かる訳無いでしょ、夢の中の話なんだから」
「それもそうだな」
二人は声を立てて明るく笑い合った。
「もう子供じゃないんだからお父さんは要らないのよね」
女は男を心から信頼しているように少し甘える声で言った。
「私は、あなたが居れば良いんだわ」
この二人は信頼の深い絆で結ばれた幸せな夫婦だ、と嶋木は思った。そして、その幸せが何時までも続くことを心から願った。
嶋木は話を聴きながら、奈美のことを思った。美幸が逝って既に三年の歳月が流れ、近頃になって、嶋木は奈美のことや奈美と暮らした日々のことを思い出すことが多くなっている。それも当初ほどの強い憤怒や憎悪の思いは薄らいで、美幸と三人で過ごした四年間の出来事と併さって懐かしい気持さえ混ざって来ている。
独りで黙々と酒を呷る嶋木の胸がきりりと疼いた。
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