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第二話 魅せられて
⑥一年半後、聡介は真面目な娘、貴恵と婚約した
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それから一年半後、聡介は高井貴恵と言う女性と婚約した。
彼女の父親は予てから聡介を高く買っていた一人であった。貴恵は淡い栗色の髪の可愛らしい真面目な娘だった。彼女にはボーイフレンドが二人居たが、聡介から結婚を申し込まれると躊躇うことなく彼等との関係を断った。貴恵は聡介に大いなる関心と好意を抱き、彼に激励と幸福感を与えた。
二人の出逢いはチャリティー・パーティだった。
聡介と貴恵は一時間ほど並んで腰を下ろし、文学や音楽の話をした。小説のこともクラシックのことも聡介はよく知らなかったが、若くして既に伝説的な成功を収めている彼としては「知りません」とは言えず、些か通俗的な考えを開陳した。
「わたしはモーパッサンの短編小説が好きなの。鋭い観察と明晰な文体が肌に合うのね、きっと」
「うん、楽しい話の底に暗いペシミズムがほの見えるしね」
「サキのあのどんでん返しも面白いわ」
「そうだな。ユーモアとウイットの糖衣の下に、人の心を凍らせるような諷刺が隠されている、将にブラック・ユーモアってやつだな」
「あなた、ノーベル賞作家のフォークナーって知っている?」
「ああ、読んだことは無いが、名前を聞いたことは有る」
「アメリカ南部の退廃した生活や暴力的犯罪の現実を斬新で独特な手法で描いた二十世紀最大のアメリカ文学者よ」
貴恵はクラシックが好きだと言う。
「クラシックは壮大で神々しくて人間臭いのね」
彼女は言った。
「メロディーが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽でしょう。メロディーは自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものだと思うの」
「クラシックは同じ曲でも演奏者やコンダクターによってイメージが異なるからね。それぞれ表現の仕方が違うので、音質やテンポ、強弱や緩急などが変わるんだな。古い古典ではあっても、その辺りがクラシックならではの魅力なんだろうと僕も思うよ」
貴恵は常に微笑みながら聡介の話を聴いた。
その年、東京の冬はいつになく長引いて、風が柔らかくなり花々が開いたのは四月の中半になってからだった。聡介は仕事にも愛にも大量の満足感を得て、久しく忘れていた精神の静穏を愉しんでいた。貴恵との結婚は、部屋にカーテンが引かれ、柔らかな光を湛えたティー・カップの間を彼女の手が動き、子供たちの笑い声が聞こえる、そうした世界を意味することを彼は知っていた。
二人の間には、焔も美も、蠱惑も神秘も無いだろうが、然し、それこそが平穏な生命に溢れた幸せと言うものだろう・・・
五月の中半、天候が真夏に通じる細い橋の上で行きつ戻りつしていた或る夜に、聡介は貴恵の家の入口に立った。二人の婚約は一週間後に発表されることになっていたが、この夜も、彼等はパーティーで長椅子に腰を下ろし一時間ほど話し合う予定だった。パーティーに彼女を連れて行くということは、何とは無しに、ステータス・シンボルになる感じを聡介に抱かせた。彼女の評判は非の打ち所が無く、「立派な女性」としても飛び抜けた存在だったからである。
聡介はブラウン・ストーンで建造された邸宅の、玄関前の石段を登って、中へ入った。母親が居間から姿を現して彼を迎えた。
「聡介さん」
彼女は言った。
「貴恵はね、酷い熱を出して寝込んじゃったの。あの子はあなたと一緒に行きたいと言ったんだけど、私が無理矢理寝かしちゃったのよ」
「そうですか・・・大したことが無ければ良いんですが・・・」
「ああ、それは大丈夫よ。明日の朝になればあなたとゴルフにだって行けますよ。一晩だけ許してやって、ね、聡介さん」
その微笑は優しかった。母親と聡介とは気の合う同士だった。彼は居間で暫く話をして暇乞いをした。
彼女の父親は予てから聡介を高く買っていた一人であった。貴恵は淡い栗色の髪の可愛らしい真面目な娘だった。彼女にはボーイフレンドが二人居たが、聡介から結婚を申し込まれると躊躇うことなく彼等との関係を断った。貴恵は聡介に大いなる関心と好意を抱き、彼に激励と幸福感を与えた。
二人の出逢いはチャリティー・パーティだった。
聡介と貴恵は一時間ほど並んで腰を下ろし、文学や音楽の話をした。小説のこともクラシックのことも聡介はよく知らなかったが、若くして既に伝説的な成功を収めている彼としては「知りません」とは言えず、些か通俗的な考えを開陳した。
「わたしはモーパッサンの短編小説が好きなの。鋭い観察と明晰な文体が肌に合うのね、きっと」
「うん、楽しい話の底に暗いペシミズムがほの見えるしね」
「サキのあのどんでん返しも面白いわ」
「そうだな。ユーモアとウイットの糖衣の下に、人の心を凍らせるような諷刺が隠されている、将にブラック・ユーモアってやつだな」
「あなた、ノーベル賞作家のフォークナーって知っている?」
「ああ、読んだことは無いが、名前を聞いたことは有る」
「アメリカ南部の退廃した生活や暴力的犯罪の現実を斬新で独特な手法で描いた二十世紀最大のアメリカ文学者よ」
貴恵はクラシックが好きだと言う。
「クラシックは壮大で神々しくて人間臭いのね」
彼女は言った。
「メロディーが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽でしょう。メロディーは自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものだと思うの」
「クラシックは同じ曲でも演奏者やコンダクターによってイメージが異なるからね。それぞれ表現の仕方が違うので、音質やテンポ、強弱や緩急などが変わるんだな。古い古典ではあっても、その辺りがクラシックならではの魅力なんだろうと僕も思うよ」
貴恵は常に微笑みながら聡介の話を聴いた。
その年、東京の冬はいつになく長引いて、風が柔らかくなり花々が開いたのは四月の中半になってからだった。聡介は仕事にも愛にも大量の満足感を得て、久しく忘れていた精神の静穏を愉しんでいた。貴恵との結婚は、部屋にカーテンが引かれ、柔らかな光を湛えたティー・カップの間を彼女の手が動き、子供たちの笑い声が聞こえる、そうした世界を意味することを彼は知っていた。
二人の間には、焔も美も、蠱惑も神秘も無いだろうが、然し、それこそが平穏な生命に溢れた幸せと言うものだろう・・・
五月の中半、天候が真夏に通じる細い橋の上で行きつ戻りつしていた或る夜に、聡介は貴恵の家の入口に立った。二人の婚約は一週間後に発表されることになっていたが、この夜も、彼等はパーティーで長椅子に腰を下ろし一時間ほど話し合う予定だった。パーティーに彼女を連れて行くということは、何とは無しに、ステータス・シンボルになる感じを聡介に抱かせた。彼女の評判は非の打ち所が無く、「立派な女性」としても飛び抜けた存在だったからである。
聡介はブラウン・ストーンで建造された邸宅の、玄関前の石段を登って、中へ入った。母親が居間から姿を現して彼を迎えた。
「聡介さん」
彼女は言った。
「貴恵はね、酷い熱を出して寝込んじゃったの。あの子はあなたと一緒に行きたいと言ったんだけど、私が無理矢理寝かしちゃったのよ」
「そうですか・・・大したことが無ければ良いんですが・・・」
「ああ、それは大丈夫よ。明日の朝になればあなたとゴルフにだって行けますよ。一晩だけ許してやって、ね、聡介さん」
その微笑は優しかった。母親と聡介とは気の合う同士だった。彼は居間で暫く話をして暇乞いをした。
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