愛の裏切り

相良武有

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第三話 愛の虚妄

④麗華、沢本と別れ大きな邸宅で飼い犬と暮らした

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 麗華が沢本と別れてかれこれ一年が過ぎた。
彼女は京都市左京区下鴨、糺の森の近くに在る大きな邸宅に飼い犬と共に暮らしていた。
 母親の新藤恵美は、元は祇園花街の芸妓で、父親は麻生重一郎と言う近在の大地主で大金持ちの郷士だった。二人は座敷へ呼んで呼ばれている内に割り無い仲になり、直ぐに、麻生は恵美を見請けてこの地に住まわせた。程無くして麗華が生まれたが、彼女は嫡出子ではなかった。麗華は母親の姓を名乗ることになった。
 父親は週に一、二度しか顔を見せなかったが、日々の暮らしは潤っていた。麗華はバレーやピアノや絵画を習って幼少時代を過ごし、とりわけ彼女は、自分の思いが眼の前に形として出現して来る絵を描くことに熱中した。中学三年生になった時、既に、自分の将来を画家になることと決めていたし、今のアトリエはその時、邸内の離れ棟を改造して造られたものであった。
 だが、麗華が高校二年の時、母親が膵臓癌で急逝した。闘病生活が僅か半年間と言う呆気ない離別だった。それまで家事を執り行ってくれていたお手伝いさんが残ってくれて麗華の日々の暮らしに支障を来たすことは無かったが、彼女は暫くの間、寂寥と悲嘆に心身を苛まれた。が、やがて、大学受験と言う人生の大きな転換期を前にして、麗華は悲しみに浸りながらも将来に眼を向けた。やはり彼女には画家になることしか考えられなかった。父親が彼女の将来を考えて、この広大な土地と邸宅を麗華名義に変更してくれ、序に、お手伝いさんとの女だけの二人暮らしを危うんで猟銃を一丁備えてもくれた。日々の生活費は、無論、毎月、潤沢に、麗華が画家として独り立ちしたつい最近まで、彼女の口座に振り込まれた。お手伝いさんは麗華が美大へ入った年に「もう一人で大丈夫ですから」と退きとって貰った。
 彼女は今、毎日、アトリエで絵を描き、庭園をいじって、飼っている柴犬と暮らしている。
小じんまりとした庭園は、絵を描く片手間に彼女が丹精込めた甲斐あって、美しく整った。
四季を通じてスラックスに簡単な上衣、寒い時にはその上にハーフコートを羽織っているという格好で、絵を描くか、庭をいじっているか、愛犬と散歩をしているかして、日がな一日暮らすこの美貌の独り身の彼女は近在の人々の目を引いた。
 だが、麗華には、嘗て沢本と結んで持った性愛に対する虚妄、彼が彼女に初めて教え込んだ愛技への断ち切れない執着があった。あの痺れるような恍惚感があった。それが忘れ難く彼女の心にくっ付いて離れなかった。
それは麗華の身に憑いた沢本の影、否、麗華の女が際限無く沢本への投合と一致を願ったが故に、振り返れば、今はもう彼女には消えて無い、当初、沢本をああまで捉えたあの彼女自身への不安と嫉妬なのであった。
麗華は沢本と共に到り来た今の自分を愛しいと思い、嘗てのように身を屈めて彼の胸に顔を埋め、その一瞬を抱き締めたいと思った。また、今の自分が、絡んだ四肢の内に息づく思い出と引き比べて、何故か酷く疎ましく、彼女は意味の解らない悔恨に胸を締め付けられて、やり場の無い焦りと絶望をさえ感じた。
 そして、やがて麗華は沢本との関係について慌て出した。
結局は、彼は、嘗て通って来た女たちと同じ女をしか私の中に見出さなかったのではないか?・・・あの別れる間際の闊達な素っ気無さは、二人の高次な段階での愛の表現などではなく、単に私に飽いたからではなかったのか?
麗華は嫉妬の対象を他の女ではなく自分自身に求めた。それは愛の過程で自分から失われた自分自身であると彼女は思った。それが女の自惚れであることも彼女には解っていた。
沢本を愛してひたすら彼との無欠な一致を願ったが故に、その愛がいつの間にかすり替わり、愛する彼を失くすと同時に自分をも失くしてしまったのだろうか?・・・愛の破綻とはそういうものなのか?・・・。
 否、と麗華は思った。
沢本は怖れていたのだ。自らの手で創り上げた私と言う女の像を、彼は怖れていた・・・。彼も私と同じだったのだ。彼は私の内に自分自身の投影を見たのだ。彼も又、自分の創り上げた私の像と共に育っていたのだ。彼の創り上げた私と言う傑作は生きたまま逆に彼を追って苛んだのだ。創られた私が知らず知らずの内に創り返していたのだろうか?・・・
 麗華と沢本は互いに創り合った、ということであった。彼女は沢本との性愛に“全き”を願い、彼と別れたことによってその“全き”を得たとも言えた。
麗華には、最初にして総てを完成せしめたこの愛の創り合いの恐ろしさが、今にして身に応えた。麗華は愛の虚妄に悲劇的に執り憑かれ、彼女に残されたものは追憶だけだった。彼女はこの糺の森の広大な邸宅で絵を描き、庭をいじって、独りきりで一年間暮らして来た。愛の虚妄に執り憑かれた彼女は自分でブラックマジックをかけて自身を呪縛したのである。彼女は沢本が決して取り返しの効かない遠い距離へ完全に隔たってしまったのを感じた。それは、麗華が今日まで一人で生きながら信じて来た、沢本との性愛から得た愛の虚妄が、やはり一つの執念でしかなく、実体の無い愛の仕組みの内に自分が暮らして来たと言う空虚な実感であった。
 彼女は初めて寂しいと思った。
沢本との別離から受けた衝撃をたった一人で胸に秘めてこの一年間を過ごして来たことが、虚しさとして胸に込み上げて来た。麗華は愛の虚妄に生きることの虚しさと寂しさに打ちひしがれた。やり切れない虚しさが躰中に拡がり彼女はぼんやりと何も考えずに日々を過ごした。虚妄を虚妄として理解した彼女は、自分自身をこの上なく愛おしく哀れに思った。が、そんな自分をどのようにして建て直せば良いのか、未だ、見当さえつかなかった。
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