愛の裏切り

相良武有

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第七話 背信

③龍二は両親の顔を知らない孤児だった

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 田沼龍二は両親の顔を知らない孤児だった。
清水寺の奥に在る湧水寺の一房で事務総長の手によって育てられた。事務総長は湧水寺の僧侶で名を松本慶良と言った。龍二の隣の部屋には三つ歳上の兄が住まっていたが、彼の姓は龍二とは違っていた。龍二は、兄が何処の誰なのか、何も知らなかったし知ろうともしなかった。それらは全て暗黙の了解のようなものだった。
母親の居ない寺の一房で龍二は物心ついた時から修行僧と同じような暮らしをして育った。寺には寺務員と呼ばれる女性がいたが、彼女たちは参詣者や拝観者などに対応する謂わば表向きの仕事を担っていたので、修行や生活などと言った裏の面には一切関わらなかった。龍二は幼い頃から優しい女手とは無縁に育った。
 龍二は小学校に上がった時、自分が孤児であることをはっきりと認識した。提出書類の親の欄に書かれた姓も家族の欄に書かれた兄の姓も自分のそれとは違っていた。母親の欄にはその姓さえも無かった。
「僕にはお母さんは居ないの?」
「他所の子は本人も両親も同じ姓名なのに、何故、僕だけ姓が違うの?」
龍二は養父に頻りに訊ねたが、はっきりした答は返って来なかった。明確な返答が無いと言うことは、見えない処に何かの秘め事が有るのだろう、と幼い龍二にも察しはついた。それから龍二はそのことに触れなくなったし、考えもしなくなった。
 龍二の毎日の生活は他所の子とは一時間以上も時間サイクルが早かった。
起床は朝の四時半、「振司」と呼ばれる修行僧が鳴らす「振鈴」を合図に起床し、寝具を手際よく纏めて「後架」と呼ばれる洗面所へ向かう。龍二は眠たい眼を擦って洗面所で「掲文」を唱えながら歯を磨き、頭から顔、耳の裏までを桶一杯の水で洗った。
三十分後には「暁天坐禅」と呼ばれる一日の最初の坐禅がはじまった。龍二は坐禅堂の中の決められた「単」で衣だけをつけて座ったが、その時間は「一柱」と呼ばれる線香が燃え尽きる時間まで続けられた。坐禅は「大開静」の鐘を以て終了した。
間を置かず、今度は法堂で鐘が鳴ると直ぐに移動して一同で三拝した後、「朝課」と呼ばれる朝の勤行の読経を始めなければならなかった。
「粥座」と言う朝食は五時三十分。食事は他人より早く食べてはいけないし遅くてもいけない。音を立てたり食器を落としたりするのは以ての外。龍二は周りの大人たちに目を配りながら、遅れないように必死で食べた。全てを食べ終わると「刷」と言う道具を使って器の中に残った食べ物を摂り、器に注がれたお茶で食器を洗った。食器に残った水分は浄布で拭き取り、応量器をコンパクトに重ねて袱紗に包む。ご馳走様に相当する「掲文」を唱えて食事は終了した。食事を作ることも食べることも修行僧にとっては尊い修行なのであった。
六時丁度、「日点掃除」と言う朝の掃除の始まりである。
「一に掃除、二に看経」と言われ、掃除は心身内外の塵を払い清める修業として読経よりも重視されていた。掃除は動く禅と言われ、普段は足音も立てず静かな振舞いを要求される修行僧たちもこの時ばかりは渾身の力で雑巾を架けるのだった。三と八の付く日には普段目の届かない細部まで掃除をするのが習わしだった。
掃除が終わると龍二は学校へ出かけた。
学校では他の生徒たちと何ら変わること無く勉学に勤しみ運動に興じ、クラスメイト達と遊んで燥いだ。唯、周りからは一風変わった子と言う眼で見られ、特に親しくなる友達は誰一人として出来なかった。給食時には、寺での摂食習慣の故か、周りに目配りして、遅からず早からず、丁度中ほどで食べ終えた。
「あの子、ちょっと変わった子ね」
「そりゃ、あいつは寺の子だからな、変わっているわさ」
「なんだか暗い眼をして陰気くさい感じね」
「陰気なだけでなく何か怖いみたいよ」
皆はそんな風に龍二を評した。
学校から帰ると、午後五時に始まる「薬石」という夕食までは自由に時間を過ごすことが出来た。
「薬石」は正式な食事ではなかった。古来より宗門では朝昼以外に食事は摂らず、夕時には温めた石を抱いて飢えを凌いだ。従って、正式な食事と見做されなかったので、「行鉢」は行わず「褐文」も唱えなかった。全員に食事が行き渡ったところで一斉に食べ始めるのだった。
午後七時になると「開板」という夜の座禅が始まった。夜坐によって一日を締め括り寝る準備へと入る訳である。将に坐禅に始まり、坐禅に終わる日々精進であった。
夜坐の終了を告げる鐘が鳴ると「開枕鈴」が鳴り響いて就寝時刻となった。開枕とは折り畳み式の木製枕を用いたことから来ていたが、時に午後九時三十分、龍二は自分の部屋へ引き上げて行った。
 龍二は、これと言った予定の無い休日には、修行僧と一緒に同じ行動をした。
午前の労働である「作務出頭」、昼食の「斎座」、午後の作務出頭、小休止を挟んで「茶礼」と言う一時間の休憩、それが済むと薬石の夕食だった。
 
 龍二が高校三年生になって大学への進学を考え始めた頃、育ての親の松本慶良が言った。
「龍二、お前、僧侶になる心算なら、それなりの学校へ行き、修業をしっかりやり直せ。そうで無いのなら、一般の普通の大学へ通って勉学に励め。寺の修業は明日からしなくて良いから」
「お養父父さん、僕は普通の大学へ通って一般の社会へ出て行きたいと思っています。御仏の世界でない俗世界でしっかり挑戦してみたいんです。どうか僕の我が儘を許して下さい」
龍二は丁寧に頭を下げて養父に依願した。
「解かった。これからは自分の道は自分で切り拓け。全てはお前の努力次第だ。しっかり頑張れ」
龍二は、養父が自分を初めて大人に扱い、一人前に扱ってくれたことが、とても嬉しかった。
 龍二は長年育ててくれた養父にこれ以上の金銭的な負担は懸けたくないと、余り裕福でない家庭の子が通う二流の私立大学に合格して貧乏学生の道を歩み始めた。スーパーの品出しを初め喫茶店のウエイターやチラシ広告のポスティングなど様々なアルバイトに精を出して金を稼いだ。龍二には趣味に没頭したりスポーツに興じたり、女の娘と酒を飲んだり遊んだりする余裕は時間的にも金銭的にも殆ど無かった。
 生まれ育って来たこれまでの境遇から龍二が身に着けたモラルは至って単純シンプルだった。
他人を宛てにせず、他人に頼らず、期待もせず・・・そして、未来にも人生にも期待せず、宛てにもせず・・・
龍二は愛や夢や、絆や連帯や信念などを信じたり疑ったりすることは無かった。彼はそれらにまるで関心が無かった。
そんなものが何になる?・・・
それは、本人が意識していようと居なかろうと、将に虚無と刹那の倫理だった。彼は大学時代の四年間は人生の執行猶予期間だと思っていた。卒業した後に何になりたいとか何をしたいとか、そういうことは考えさえもしなかった。龍二はその日その日をただ流されて刹那的に生きた。
 卒業して今の大手企業に勤めたのも、養父松本慶良が知古の伝手を頼って押し込んでくれたものだった。龍二は有難く感謝して勤務し、早や四年が流れ過ぎた。
龍二の仕事の成果はそれなりに良好だった。彼はビジネスマン然とした颯爽たる企業戦士ではなかったが、力まない巧まない自然体の営業スタイルが顧客に好評を得て、新規得意先の開拓や新製品の売込みに実績を積み重ねた。黒縁の眼鏡を架けた一見暗そうな顔も笑うと両頬に笑窪が刻まれて幾分の明るさを演出した。決して陽気で爽やかなタイプではなかったが、そうかと言って、陰気でいじけた印象ではなかった。むしろ、偶に冗談口を叩いて周りを和ませる軽いキャラだった。龍二に敵は社の内にも外にも居なかった。敵を作らないことは龍二がその生い立ちから自然に身に着けた処世術であった。
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