愛の裏切り

相良武有

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第八話 手酷い裏切り

④俊夫の頭から「酩酊児」のことが離れない

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 翌日、会社へ出勤しても酩酊児のことが俊夫の頭から離れなかった。
根拠の無い迷信ではないのか?然し、医者の長田が言ったのだからきっと真実なのだろう。
真実に「酩酊児」なる言葉が有るのか?有るとしたら、それは男がどれくらいのアルコールを呑んだ時に、どの程度のパーセンテージで産まれるのか?・・・
不安は一層拡がって行った。
 俊夫は昼休みを待ち兼ねるようにしてインターネットで調べてみた。
国立医療センターの専門医が書いていた。
「酩酊時の性交渉妊娠は胚や胎児にどう影響するか?性交時のアルコールは既に発育した卵胞・精子の受精に影響を与えるか?」
結論から言うと「科学的根拠は無い」とのことだった。
「妊娠中の女性が飲酒すると胎児が影響を受けることは明らかですが,酩酊時の性交渉から妊娠に至った場合,アルコールが胚や胎児の有害事象の原因になるという科学的根拠は示されていません」
俊夫は少し胸を撫で下ろした。
具体的には次のように記されていた。
(1)精液中へのアルコール移行について
 エタノールや代謝物アセトアルデヒドの精液中への移行性を調べた報告は見当たりませんが,単純拡散で移行すると考えられます。中等度酩酊時の血中アルコール濃度は0.1~0.15%(1.0~1.5mg/mL)とされています。血中アルコール濃度が1.0mg/mLのとき,精液中濃度も1.0mg/mLに達すると仮定すると,精液の容量を5mLとして,5.0mgのエタノールが女性の腟内に入ることになります。すべてのエタノールが腟壁から吸収されると仮定しても,女性の血液量を4000mLとした場合,女性の血中濃度は最大で1.25μg/mLにしかなりません。
このように考えると,精液を介する女性の曝露はごく微量であり,女性や胎児にとって意味があるとは考えられません。
(2)精子や受精に対するアルコールの影響について
 アルコールやアセトアルデヒドには遺伝毒性はないとされており,精子形成過程の曝露による影響はないものと考えられます。精子になるまでの形成期間はおよそ七四日とされ,射精前に既に精子となって蓄えられています。したがって,男性に投与された薬剤等が精子に影響するとすれば受精前約七四日以内ですが,射精の一~二日前の曝露は影響しないと考えられています。
また,女性が受胎時にアルコールを飲んでいたとしてもすぐに代謝されるので,胎児の器官形成やその後の発達に影響は及びません。
(3)排卵環境に及ぼすアルコールの影響について
 性交時に女性が酩酊状態だったとしても,既に発育した卵胞の排卵に影響することはありません。酩酊時の性交渉における最も大きいリスクは,望まない妊娠をしてしまうことであると言えます。
 長田が嘘を言ったのか?或いは、ひょっとして、彼奴は俺を妬んで揶揄ったのか?・・・学業でも洋弓でもあいつに敵わなかった俺が、彼奴よりも先に可愛い娘と結婚して、然も、愛しの子供まで生まれようとしている、そんな俺の幸せに嫉妬したのか?・・・いやいや、彼奴はそんな下等な男ではない。自意識の強い秀才なんだ。俺を妬んだり羨んだり僻んだりする必要は何処にも無い。だとすると、彼の言ったことは嘘では無いだろう。然も、このことは医者の彼奴が言ったことなんだ、多分真実だろう・・・これはインターネットの一文だけでは真偽は判らないな。もっときちんと調べてみなければならないかも・・・
 
 仕事が退けると俊夫は直ぐに駅前の大型書店へ足を向けた。
夕方の書店はサラリーマンや学生で混んでいた。
彼は最初に家庭欄の書棚の前に立った。
「家庭医学全集」「家庭の医療」「妊娠と出産」「母体と妊娠」「母親と子供」と言った本が並んでいる。目次に眼を通し、次に後ろの検索を探した。辺りに多い女性客の眼を意識して急いで探す所為か、「酩酊児」と言う言葉はなかなか見つからなかった。「妊娠の注意」といったそれらしい個所を探したが其処にも無い。ニ十分ほどの間にその一隅の本を十数冊も片端から目を通してみたが、やはり無かった。最後の本を書棚に戻すと俊夫はその場を離れた。
 辞書類は店の一番奥に在った。
各社の百科事典が金色の背文字を見せてずらりと並んでいる。殆どが戸棚の一番上の段に在って手が届かない。彼はふと気付いて、本棚の下段に在る小さな突き出しに積み重ねられた辞典を上から順に開いて行った。
「め、め、め、・・・酩酊児」
口の中で呟きながら探す。だが、何処の社のどの辞典にも出て来なかった。一通り見終わって俊夫は息を吐いた。どの百科事典にも無かったことでホッとしながら、反面、軽い失望も覚えた。
 辞典の書棚を離れかけた時、右手に掲げられた「医学」と言う標識が目についた。
医学専門書になら出ているかも知れないな・・・新しい興味が俊夫を捉えた。
「内科学」「外科学」「産婦人科学」・・・どの本も分厚くて大きかった。どの本を見れば良いのか、俊夫にはさっぱり見当が付かなかった。が、書棚を順に見渡して行くと「医学用辞典」と言う一際大きい書籍が在った。牽引は全てローマ字だった。
「MEITEIJI;酩酊児」
その字面を見出して俊夫は息を呑んだ。確かに在った。間違いなく「酩酊児」と書いてある。
「男子が酩酊状態で性交をし、その時に受精して妊娠した児を言う。精神薄弱、痴呆、性格異常等、先天性異常児を生む確率が高い。精神科用語」
一度読んでから、もう一度読み返した。本を持ったまま、俊夫は自分の顔が青ざめ唇が震えるのが分かった。
 酩酊・・・確かに俺は酩酊していた。だが、酩酊とは何を指すのか?
彼はもう一度、本へ眼を移した。「酩酊児」の項目の上に「酩酊」の項が在った。
「MEITEI;酩酊・・・飲酒によって或いは他の麻酔剤、睡眠剤の飲用によって、意識混濁、感情及び精神運動性の興奮、並びに筋緊張の低下を特徴とし、しばしば、気分の転換や注意散乱、饒舌、諧謔性爽快を来たす。高度の酩酊に達すると完全な健忘を遺す、またアルコールによる中毒状態をもいう」
 長田の言ったことは嘘ではなかった。俊夫は怯えたように本を閉じた。背伸びをし、本を書棚に戻すと彼は逃げるように店を出た。
 俊夫の頭に瑠美の白く柔らかい腹の膨らみが浮かび上がった。
あの中に俺の子が居る。頭だけでなく眼も剥き出し、鼻の潰れた醜く愚鈍な俺の子が日に日に大きくなっている・・・
 彼は眼を閉じて耳を塞ぎ、走り出したくなる衝動に耐えながら家路を急いだ。

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