愛の裏切り

相良武有

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第十話 行違った愛の思い

①セレブの二人、信吾と美沙、忽ちにして恋に落ちる

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 大都会東京のハイソサエティで大高信吾はしっくりして寛いだ生活を送っていた。其処には、令嬢たちが社交界にデビューする華やいだパーティも在れば、男性だけで集う“男”の世界も在った。
長身でがっしりした体格、健康そうな血色で顔色も冴え、自信から来る魅力的な風格にちょっと素っ気無いような態度、それらが相伴って、彼が一流名門大学の出身で金持の令息であることを人々は、言われるまでも無く、直ぐに感じ取るのだった。
 持ち前の気さくさと、巧みにことを捌いて行く才覚の所為で、彼は自らを取り巻く世界の中で、見る見るうちにその中心的存在となった。自分が中心になれない集団に対しては苛立ちのようなものを彼は感じたし、優位に立とうとして他人と争うようなことはせず、それは文句無しに自分に与えられるのが当然だと思っていた。
酒をこよなく愛し、酒を嗜好する連中とは何の衒いも無く付き合ったし、又、ビジネスマンとしての大高信吾には並居る経営者たちでさえ敬意を払っていた。彼は方々の社長相手にも自信のある態度で筋道の通った話を長々と続けた。
 信吾は賑やかなことが大好きで、女好きで、快楽を追うことに倦むことを知らない男だった。そんな信吾が、不思議なことに、保守的で何方かと言えば几帳面な性格の女性と恋に落ちたのは、将に、“恋は魔物、愛は幻!”と言うものであった。
 二人は信吾の大学の、同窓会のパーティ会場で出逢った。
「大高じゃないか!」
声をかけて来たのは同級の名倉だった。彼は脇に妙齢な女性を伴っていた。
「おう、名倉か!暫くだ、な」
二人は再会を懐かしんだ。
「綺麗な人だな、君の婚約者か?」
「そうじゃないよ、横浜に住んで居る従妹だよ。偶々、家へ遊びに来ていたのが、俺が同窓会に行くって言ったら、面白がって従いて来たんだ」
言いながら、名倉は二人を引き合わせた。
「俺の悪友の大高信吾だ。誘惑されないように気を付けろよ」
「大高です、宜しく」
信吾はそう言って手を差し出した。
「五十嵐美沙と申します。宜しくお願いします」
信吾の手を握り返した美沙は、色の白い、如何にも生真面目な感じの美人だった。彼女はその堅く取り澄ました表情にも拘らず、男性を一目で惹きつける絶大な魅力を備えていた。真面目で賢い女なんて真っ平だ、と言う我が儘で勝手な負けず嫌いの男は結構居るものだが、信吾はそう言う類の男ではなかった。従って、頭が切れて冷笑的なものの見方をする彼が、誠実で素直であると言うのを何よりの美点としているような美沙に、どうして惹きつけられたのか、それは一目瞭然であった。 
 名倉が他の級友から声を掛けられたのを機に、二人はパーティ会場の隅の丸テーブルに向かい合って腰を下ろした。
「何か飲みますか?」
「それじゃ、カクテルを一杯・・・」
信吾は直ぐにウエイターを手招きして酒をオーダーした。
 初めて顔を合せた時、瞬間的に、互いの胸の中で電撃的に何かが弾けた。それは将に、二人ともに、一目惚れだった。人が立て込み流れ動く会場の片隅で、二人は顔を突き合わせ、瞳を見詰め合いながら語り合った。誰かが信吾に声を掛けたが、彼は上目遣いに一瞥して、軽く片手を挙げただけで、直ぐに美沙との会話に戻って行った。
忽ちにして、二人は恋に落ちた。然もそれは美沙の言いなりの形をとった。
 その後、信吾は夜の集まりに顔を出すことも無く、美沙と一緒の時はいつも決まって、何事かを真面目な調子で話し合った。それは何週間にも亘って続いた。が、人生や倫理や哲学や愛などと言った特別な何かについて語り合っていた訳ではなく、二人とも幼稚な取り留めないことを言い合っていたに過ぎなかった。然し、それがいつしか次第に熱い情感に満たされた雰囲気に変わって行ったのは、その種の会話が具体的に交わされたからではなく、真面目そのものであった二人の態度が醸し出したもの、言わば催眠術にかかったようなものだった。
「わたし達って、思考も感情もぴたりと一致しているのね」
 彼等は、互いに精神的合体合一の意識を通わせ合うような調子で、にこりともしない低声で会話を続けた。そのうちに二人は、対話が続いている間だけは極めて至福と言った格好で、その生真面目な雰囲気に包まれて、裸火の灯影を浴びたように琥珀色に輝き、その対話の終わりが近付いた頃になって、漸く、自分たち自身の感情によって会話を中断するのだった。
「ねえ、人は何の為に学ぶのかしら?」
「それは、自我の芽生えの為だよ」
「自我の芽生え?」
「赤ん坊は世界の中心に居るよな。天動説のようなもので、自分では何もしなくても全てが赤ん坊の周りを回っている。世界は赤ん坊を包んでくれてはいても対峙ずることはない。ところが、保育園や幼稚園へ行くようになって、同じような年齢層の他者と初めて出会う。他者を知って初めて自分と言う存在を認識する最初の経験となる。世界は自分の為だけに回っているのではないことを初めて知る。他者を知ることによって初めて自己と言うものの意識が芽生える。自我の芽生えは他者によって意識される自己への視線なのだよ」
「自分を外から見るという経験、これが即ち学ぶということの最初の経験と言う訳ね」
「そうだ、そう言うことだな」
「じゃあ、読書や勉強の意味もそれと同じなのかな?」
「自分を客観的に眺める、即ち、自己を相対化する視線を与えてくれるのが読書だよ。こんなことを考えている人が居たのか、こんな愛があったのか、と思う。こんな辛い別れが有るのかと涙ぐむ。読む前には知らなかった世界ばかりだよな。それを知るということは、即ち、それを知らなかった自分を知るということで、一冊の書物を読めば、その分、自分を見る新しい視線が自分の中に生まれる。自己の相対化とはそういうことだよ。勉強するのはその為だな」
「読書にしても勉強にしても、それは知識を広げるということもあるけれど、もっと大切なことは、自分を客観的に眺める為の新しい視線を獲得するという意味の方が大きい訳ね」
「人間は自己を色々な角度から見る為の、複数の視線を得る為に勉強をし、読書をするということだよ」
「読書や勉強を欠くと独り善がりの自分からを抜け出すことが出来ないし、他者との関係性を築くことも出来ないということかしら?」
「勉強や読書は、自分では持ちえない時間を持つということで、過去の多くの時間に出会うということだ。過去の時間を所有する、それもまた自分だけでは持ち得なかった自分への視線を得ることで、そんな風にして、それぞれの個人は世界と向き合う為の基盤を作って行く訳だ」
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