愛の裏切り

相良武有

文字の大きさ
上 下
1 / 104
第十六話 あぶく恋

⑤慰謝料の示談が成立した

しおりを挟む
 瑠璃から電話があったのは一カ月余りが経った頃だった。
「両親が、会いたい、って言っているの。午後一時半に家に来て頂けないかしら?」
藤木に断る理由は無かった。
 彼は渋谷から東急線の急行で横浜へ出た。其処で横須賀線に乗り換え、逗子に着いたのは午後一時だった。駅前からタクシーに乗り、葉山まで約十分、瑠璃の家の見当は凡そ就いていた。以前、いつかビートルで近くを通った時に瑠璃から聞いていた。
 辺りは海辺に臨んだ斜面に立つ豪壮な邸宅群だった。タクシーを降りた藤木はゆっくりと斜面の道を登って行った。が、直ぐには瑠璃の家は見つからなかった。彼は、庭で女の子を遊ばせていた若い母親に、笑顔を見せて瑠璃の家を訊ねてみた。
「江波さんならこの裏手ですよ」
若い母親は笑みを浮かべて教えてくれた。
藤木は、教えられた五十坪ほどの広さの家の前に真紅のビートルが停まっているのを確認してから、表札を確かめてブザーを押した。
一体どんな話になるのか・・・
彼は全く先が読めず、気持が暗く沈んだ。
ドアを開けたのは瑠璃だった。
「いらっしゃい」
彼女は他人を迎えるような表情で藤木を迎えた。
 応接室へ通された彼は、其処に、瑠璃の他に、見知らぬ人間が四人座っているのに驚いた。
両親と初対面の挨拶を済ませると、母親が紹介した。
「娘の兄と姉です」
何れも三十過ぎで、男はサラリーマン風、女は家庭の主婦、と言う印象だった。二人は強張った顔つきで藤木と会釈を交わした。瑠璃がその脇に腰を下ろした。
「話は妹から聞きました」
姉が固い口調で切り出した。
「妹は、あなたときっぱりと別れさせます。それが私たちの結論です」
藤木はほっと安堵の息を漏らした。
「妹もそのことを納得しました。そうよね?」
瑠璃は不満げな貌をして頷いた。
兄が叱り飛ばした。
「はっきり自分の口でちゃんと言え!」
瑠璃の肩がぴくんと動き、彼女は俯いたまま言った。
「わたし、あなたには二度と逢いません」
親兄弟の前で彼女はそう断言した。
「此方こそ、君には済まないことをした、許して欲しい・・・」
「本当ですよねぇ」
姉が口を挟んだ。
「いきなり放り出されて・・・妹だってこれから先、どうして良いか判りませんわ」
姉のその台詞を聴いて、藤木は彼等の思惑をはっきりと覚った。
そういうことか・・・慰謝料を奪んだくる魂胆か・・・
「早速ですが、どうして頂けますか?」
すかさず兄が切り込んで来た。
「あなただって、このまま、サヨナラじゃ寝覚めが悪いでしょう?」
藤木は殊勝な表情を作りながら、訊いた。
「と、申しますと?」
「或る程度の期間の生活の保障を、妹にしてやって頂きたいですね」
「判りました」
藤木は言った。
「どのくらいお支払したら宜しいでしょう?」
兄姉が口々に言った。
「それはあなたの収入から逆算して下さい」
「凄くお稼ぎになっているのでしょう?」
藤木はムッとするのを堪えて、相手の様子を窺いながら言った。
「月に二十万円くらいでしたら・・・」
「その二十万円を、何か月頂けますか?」
「六カ月では、どうでしょう?」
「たった百二十万円?」
いきなり瑠璃が口を出した。
「見損なわないでよ!わたしがそんな安い女だと思っているの!」
「月に二十万と言えば、大卒新入社員の初任給と同じ額だろう。君は一生懸命に働いて金を稼いだことが有るのか?貴重な金額なんだよ」
藤木は瑠璃に皮肉な眼差しを向けて言った。
「それに、雇用保険の失業手当だって貰える期間は半年なんだ」
瑠璃はカッと藤木を睨みつけた。
「ま、今更、醜い争いは止めましょう」
父親が初めて口を開いた。
「毎月のものは、それで結構です」
「他に何か?」
「それとは別に、一時金として三百万円ほど出してやって下さい」
まるでバナナの叩き売りのような口振りだった。
卑しいなぁ・・・品物の売買じゃあるまいに・・・
藤木はそう思って彼等を蔑んだ。
「三百万円はとても無理です・・・二百万でどうでしょう?」
「否、否・・・それじゃ、とても、とても・・・」
父親が粘った。
「二百五十万円、出せませんか?」
 表へ出ると同時に藤木は無性に腹立たしくなって来た。
ふざけやがって!・・・
瑠璃に対する慰謝料は、一時金二百五十万円、あとは月々二十万円を六カ月間、ということで話し合いがついた。その二百五十万円は翌日、父親と逢って手渡すことになった。
 
 翌日の午後、逗子駅前の喫茶店で父親と待ち合わせた藤木は、二百五十万円を入れた封筒を差し出した。その札束をゆっくり数えた父親は押し頂いて鞄に仕舞い込み、領収書と念書をテーブルの上に置いた。
「確かに・・・」
念書には、瑠璃の手書きで、藤木にはもう二度と逢わない、と書かれて、印鑑が押してあった。
 一月二十万円を六カ月間払うと言う件は、公正証書にすることになっていた。
喫茶店を出た二人は直ぐ近くに在る公証人役場へ向かった。
古鞄を膝に置いて担当職員と向き合った父親の姿は、藤木には、何処から見ても、うだつの上がらない不動産屋にしか見えなかった。
公正証書は、瑠璃の側にとっては確実に支払いを担保するものとして、藤木にとっては先々の何かのトラブル時に強固な証拠となるものとして、それぞれの思惑で作成されたのだった。
 夕方、家に帰った藤木の心は和らいでいた。
家庭の温かさをしみじみ噛み締めながら、心の底で秘かに妻にひたすら詫びていた。そして、もう二度と浮気はするまい、と堅く心に誓った。
 
 六カ月後、一通の転居案内書が藤木の仕事場に届いた。差出人の名前には、新しい住所の横に、夫何某、妻瑠璃と記されていた。
ほお、あの慰謝料は結婚資金に化けたのか・・・
そう思って、藤木は案内書を直ぐに破り捨てた。そして、気持を新にして、次の作品の執筆に取りかかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

裏切り

yk
恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:6

プレゼント・タイム

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:9

堅物監察官は、転生聖女に振り回される。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,808pt お気に入り:154

私は貴方から逃げたかっただけ

jun
恋愛 / 連載中 24h.ポイント:227pt お気に入り:2,415

メイドを妊娠させた夫

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,967pt お気に入り:249

ロリコンな俺の記憶

大衆娯楽 / 連載中 24h.ポイント:6,162pt お気に入り:16

王妃となったアンゼリカ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:142,443pt お気に入り:7,895

最愛の人がいるのでさようなら

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:44,120pt お気に入り:505

伯爵令嬢は執事に狙われている

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,132pt お気に入り:459

旦那様!単身赴任だけは勘弁して下さい!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:4,366pt お気に入り:182

処理中です...