咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

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俺はようやくスタートラインに立つことができた

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俺と咲坂は、もうすっかり暗くなった駅近くにある公園の中を歩いていた。

 公園の街灯はかなりの光量で道を照らしているので、歩く道は昼間のように明るい。

 散歩する人、ランニングする人、近しい男女が仲睦まじくする姿……

 思い思いの風景が俺たちの目の前を通り過ぎていった……

 ……… ……… ………

 俺が咲坂のことを一人の特別な女性と意識してから、その想いを伝えることを躊躇ってきた。

 咲坂という女性は確かに容姿はモデル界にあっても一目置かれる程であり、また彼女の頭脳は難関私大K大学においても群を抜いていた。

 表向きのスペックでは、彼女は最上位に君臨する”女神”という属性すら彷彿させる。

 しかし俺は彼女がそんなハイスペックすぎるから……というような上っ面の理由で前に出ることを躊躇していた訳ではない。

 俺が怖れたのは格差ある女性に踏み込んで撃沈することではない。

 そうして恥をかくことなんて全くもって怖くはない。

 俺が恐れたもの……

 それは彼女が抱える「闇」の存在だ。

 咲坂の周りにいる男が感じたのは、その闇の持つ「魔性」とも呼べる魅力だ。

 しかし俺はそういった得体のしれない「魔性」を咲坂から感じたことはない。

 それでも俺は咲坂の背後にいる「闇」の存在を無意識に感じ取っていたのだと思う。

 だから俺はその「闇」に踏み込むことに恐怖した。

 「闇」に不用意に踏み込むことは危険であり、その危険は時に「命の危険」を伴うということを深層心理学を学ぶ俺は十分すぎる程に知っている。

 だから足が竦んで……前に出ることをためらった。

 いままでに咲坂は事あるごとに寂しい顔を覗かせた。

 思えばそれは決まって俺が彼女に踏み込む事をためらった時であった。

 田尻のサークル説明会の帰り道、咲坂の部屋、そして田尻から俺との関係性の弱さを指摘された時。

 そんな時、いつも彼女は俯き、悲痛な表情を見せて……最後には諦めたような寂しい顔をした。

 俺は彼女のそんな心の声を感じ取って……俺は咲坂が泣き続けている夢を見たこともあった。

 咲坂は俺が踏み込む事をずっと待っていた。

 そんな辛い顔をしながら……心ではきっと涙を流しながら……苦しい顔を笑顔という仮面で偽って……ずっと、ずっと我慢強く待ってくれていた。

 それなのに……

 俺はあまりに不甲斐なかった……

 咲坂が田尻に俺との関係性を突き付けられた時……

「私がなんとかします」

 とまで俺は咲坂に言わせてしまった。

 田尻も呆れた顔でそれは咲坂の仕事ではないと言った。

 そうだ。

 その仕事は俺がまずやらなければいけない仕事なんだ。

 森内が言っていたようにここには難しい理屈を持ち込む必要は一切ない。

 「闇の恐ろしさ」

 なんて曖昧模糊なもののために彼女にあれ以上……寂しい顔をさせてはいけない。

 男なら愛する女性にあんな顔をさせてはいけないのだ。

 俺が不甲斐ないという理由だけで咲坂を苦しめるなんてあってはならない。

 俺は二度と咲坂にあんな顔はさせはしない。

 俺は二度と咲坂を泣かせはしない。

 だから……

「咲坂……」

 俺がそう言うと咲坂の肩がピクリと動いた……

 そして無言のまま俺の顔を見た。

 咲坂の真剣な眼差しは、あまりに真っすぐで……そして間違いなくその瞳は何かを期待していた。

 その瞳を見て……俺は安心して言葉を繋いだ……

「俺……咲坂のこと……好きだよ」

 咲坂の大きな目がもっと大きく見開いて……

 咲坂の口元は……

 みるみるへの字に歪んで……

 その真っすぐな瞳からは涙が溢れだした。

「……知ってた」

 咲坂はそう一言……泣き声で呟いた。

「え?知ってた?」

「ウソ……ホントはずっと怖かった」

「怖いって……何が?」

「義人が離れてしまったらどうしようって」

 おそらく俺がいちいち咲坂のことで落ち込む時、ことさら明るく振舞っていたのもきっと不安の裏返しだったのかも知れない……

 そんな彼女の気持ちも知らずに。

 彼女の気持ちに目を向けず、俺ばかりが独りよがりな行動を取り続けていたのだ。

 情けない。

「でもよかった……ホントによかったよ」

 咲坂の言葉は舌足らずな幼い子供が母親に言うようだった……そして唇を可愛らしく歪めて……また泣き始めた。

「不甲斐ない俺で済まなかった……でも……もう間違えない……俺は……」

「……」

 咲坂は涙でグチャグチャになった顔を俺に向けて……綺麗に輝く瞳を俺に向けて俺の言を待った。

「俺は咲坂に一番近しい男として咲坂を闇から救ってみせる」

 ”闇から”という語彙を敢えて含めたのは、深層心理学を知る咲坂ならその覚悟が伝わると思ったからだ……

 それは「命を掛けて護る」という意味だから。

 咲坂は……聡明な咲坂だからその意味を直ぐに理解してくれた。

「うぁああああ~……」

 咲坂は、立ち呆けたまま……まるで子供のように……上を向いて大声で泣きじゃくった……

 俺は咲坂に近づき……今度こそは俺の方がそんな彼女をしっかり両腕で抱きしめた。

 咲坂は顔を俺の胸にうずめたまま……ずっと、ずっと子供のように泣き続けた。

 咲坂は不安だったのだ……ずっと、ずっと俺に会う以前から……ずっと。

 咲坂という女性はホントは実はこんなにも幼い少女のように純粋で無垢な少女のままだったのだ。

 彼女がいつもふるまう大人びた仕草、作り物のような笑顔、そんなもので身を固めて生きていくしかなかったのだ……あの地獄のような環境で。

 …… …… ……

 咲坂は、散々に泣いた後……少し恥ずかしそうに伏し目がちに俺を見た。

 その顔は、モデル然とした大人の女性の顔ではなく今までに見たこともない一人の少女の顔がそこにあった。

 ああ、これが……これがホントの咲坂雪菜という女性の顔なんだ。

 俺はようやく……今になってはじめて彼女の本物の顔にたどり着くことが出来た。

「私も義人が好き」

 咲坂もはっきりと……言葉にしてくれた。

「知ってたよ」

「だよね……私、結構分かりやすくアピールしてたから」

「アレで”友だちとしか思ってない”なんて返されたら一生、女性を信じられなくなってたところだよ」

 俺はそう軽口を言って、二人で笑いあった。

 会話が途切れると自然と俺は咲坂の肩を引き寄せ……

 唇を合わせた。

 俺は……ようやく……ようやくスタートラインに立つことができた。

「あ~ゴホンっ!"

 え?

 ウソでしょ?

 横目で声の主を見ると……

 犬の散歩をする老人だった。

 な、なんだ……

 俺はほっと胸をなでおろした。

 不覚にもあのタイミングで、一瞬小杉先輩の顔を思い出してしまったことが心底悔やまれる。

 せめて森内の顔だったらよかったのだが……いや、それは咲坂的には、もっとまずいのか?

 ならやはり小杉先輩……オエっ!!

 ホント、あの二人邪魔。
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