咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

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浮かれていた俺に、魔がさしたのか?

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俺は想定外の“再告白”で、背中から嫌な汗が一気に吹き出し、どうにか社長室から解放された。

 咲坂はこの後、一本だけできる撮影があるらしく、社長と打ち合わせがあるとかで、そのまま社長室へ残った。

 さて……肝心なことを整理しよう。

 上條社長やMISAKIは、咲坂のあまりの変化に驚いたと言っていた。あの二人がそう言うのだから、きっとそれは事実なのだろう。

 でなければ、撮影中止という大きすぎる判断を下すはずがない。

 だが、彼女が見せた反応は、俺の実感とは少し噛み合わなかった。

 さっき会った咲坂は――確かに「変わった」ことは認めるが、大騒ぎする程には思えない。まして撮影をキャンセルする程に。

 思い返すように息を整え、ゆっくり考える。

 彼氏となった俺の自惚れが許されるなら……

 咲坂は、俺の前ではずっと今日のような表情や振る舞いをしてきた。

 そもそも、俺以外の前では……特にこのスタジオでは、“あまりに分厚い仮面”を貼りつけていた。

 だから、その素顔を、このスタジオの誰もが知らなかった。

 それは近しい距離にあった上條社長やMISAKIですらもだ。

 初めてこのスタジオに来た時、俺と咲坂のやり取りを見てスタッフたちがざわついていた光景がよみがえる。

 あの時のスタッフたちの戸惑いは、今回の変化に比べればまだ序の口なのだろう。

 今日見せた咲坂の変化は、そう何倍も大きなインパクトだったに違いない。

 やっと咲坂は、このスタジオでもいつも俺に向けている素敵な、そして今回の変化がもたらした人間らしい女性として振る舞うことができるようになったのだ。

 この俺だけに見せていた咲坂が、もう俺独占ではないと思うと……ちょっと寂しい気もする。

 いやいや……ちょっとこの独占欲はキモいか?

 エレベータが一階に着き、扉が開く。俺はロビーへ出て、待たせている逆井の姿を探した。

 すると……

 トンッ!

 と背中を叩かれた。

 振り向くと――

「よう、櫻井!ってそんな露骨に嫌な顔するなよ?誰だと思ったんだよ?」

「いや、逆井だと思ったよ」

 このやり取り、毎度毎度ほんと疲れる。

「で、咲坂さんは?」

「間もなく来るよ」

「よっしゃ!……でもお前さ、そうやって咲坂さんの行動を全部把握してるとか、“ストーカーかよ!”って突っ込むぞ?」

「そこは彼氏かよって突っ込めよ」

 この“くだり”もいつも通りだが、今日の俺は、違うのだ。

「まあ、実際……彼氏だからな」

 わざわざ“逆井ごとき”にカミングアウトする必要はないのに、それでも口にしてしまった。

 しかし――

「アハハハ、だったらいいのにな?」

 逆井は軽く笑うだけで、取り合う気配もない。

 まあ逆井を説得する気力なんて最初からないんだが。

 この会話は適当に終わらせるつもりだったが、そうもいかなくなった。

「あ、咲坂さん!」

 逆井が目ざとく咲坂を見つけてしまったのだ。

 今の咲坂と俺がここで顔を合わせれば――まあ、どうなるか、想像がついてしまう。

「こんにちは、逆井くん」

 そう言って、咲坂は微笑んだ。

 その笑顔は、かつて逆井に見せていた貼りついた笑顔ではなく、自然の笑顔だった。

 素で見せる咲坂の笑顔の破壊力は相変わらずハンパない。

「な、なんか今日は一段と綺麗だね……恋でもしてるのかな?」

 咲坂の魅力的な変化には、“さすがの逆井”でも気付いたようで照れてしまった。

「あ?逆井くん分かる?」

「おい咲坂、そこは否定しとかないと逆井がショック死するって」

 いつもの調子で突っ込むと、咲坂は不満げにジト目で俺を睨んだ。

 なんでそんな顔するんだよ?逆井にバレたら面倒だぞ?

 俺は空気が怪しくなる前に、話題を変えた。

「この後の撮影とか大丈夫なのか?」

「う、うん。しゃ、社長と相談して、次は大丈夫だろうって……」

 カタイ!……カタイよ咲坂さん?……表情カタイよ!?

 そんなんじゃ“さすがの逆井”でもバレるぞ?…

「ん?どうしたの咲坂さん?」

 やはり“さすがの逆井”も違和感をもってしまった。

 すると咲坂の視線が揺れて、最後にはすがるように横目で俺を見た。

「義人。まだ、逆井くんには言ってない……よね?」

「だって昨日の今日だぞ?……“逆井ごとき”に報告する順位は低いだろ?」

「ん?……何の話だ?」

 逆井は本気で気付いていない。

「まあ言うだけ言っとくか……いいよな?咲坂?」

「うん。私は別に……」

 逆井は前のめり。期待だけして危機感ゼロ。

「俺と咲坂が付き合うことになったということ」

「いや、そのネタ飽きたから」

 逆井は半笑いで流してくる。その“分かってない感”が逆に腹立つ。

 ほんとムカつく。だからお前に説明する気力を使いたくないんだよ。

「だからマジでネタじゃねえって」

「はいはい……櫻井は脳内で咲坂さんと付き合ってるんだろ。お幸せに」

 この“最高にイラつく絶妙なライン”……安定の逆井だ。ほんとブレない。

「咲坂……お前から言ってやってくれ」

 丸投げした瞬間、咲坂の顔が一気に真っ赤になった。

 普段“外向け”の顔しかしない咲坂が、ここまで取り乱すのは珍しい。

 その反応だけで十分すぎた。

 その横で、逆井の顔色が青ざめていく。

「お、おまえ……まさか……!」

 声が震えている。

 いや気持ちは分かるが、驚きすぎだろ。

「さ、さ、咲坂さん……ホントなの?」

「うん……まあ、この人が私の彼氏になりました」

 咲坂が小さく笑って言うと、逆井はフラフラ歩き、近くの椅子に崩れ落ちた。

 完全に魂が抜けている。

 まあ、普通そうだよな。

 俺みたいな平凡男が咲坂と付き合うなんて、物語以外で起こると思わないだろう。

 きっと逆井から広まれば、学内中がひっくり返る。

 でも、もう咲坂は誰の視線にも怯えない。

 俺が彼氏として隣に立つ。それだけの話だ。

 咲坂は今日、唯一できることになった撮影に向かった。

 逆井はというと、「もう少しスタジオを見ていたい」と言って、帰る気配がない。まあ、普通の大学生からしたら、この芸能スタジオは完全に異空間だろう。あの千葉の夢の国より、よっぽど非日常だ。

 俺は逆井から根掘り葉掘り聞かれるのも煩わしいので、咲坂の撮影が終わるまでビル内にあるコーヒーショップで時間を潰すことにした。

 ただ……

 ゆっくりする間もなく、またもスマホに着信があった。

 あれ?また上條社長だ。今度はなんだ?

 撮影がコケたのか?さすがに今度こそ俺に八つ当たりは勘弁してほしい。

「櫻井、YUKINAはまだそっちにいるのか?」

「は?とっくに撮影に向かいましたよ?いないんですか?」

「ああ、撮影がまもなく始まるのに姿が見えない」

 え?!

 どういうことだ?

「もう撮影室に向かって随分時間たってますよ?」

 咲坂が“まだ”撮影室にいない?

 それは、ただのトラブルでは済まない種類の異常だった。

 あまりの焦燥感で血の気が一気に引いた。

 そして今になって肝心なことが俺の思考からすっかり抜け落ちてしまっていたことに愕然とする。

 なんで彼女を一人にさせてるんだ俺は?

 なに呑気にコーヒーなんて飲んでんだよ?

 俺はこのスタジオに何をしに来たんだ?

 田尻の警告を伝えにだろう?

 なのに俺は咲坂に田尻の警告を伝えていないじゃないか?

 ここにきて“ようやく”俺は自分の異常に気付き始めた。

 いつもは慎重なはずの俺が、そんなことすら意識から抜け落ちている。

 おかしい……。

 いつもの俺でない。

 俺はうすら寒い恐怖が心の底から湧き起こってくるのを感じた。

 もしかして……やられたのは俺なのか?

 俺は急に夢から醒めたように現実に戻された。

 スタジオに来てから俺は何をやっていた?

 渋谷駅で逆井に会って、MISAKIと話をして、上條社長と話をして、なんとなくフワフワと居心地のいい会話ばかりが続いていた気がする。その間、肝心のことがすっかり俺の思考から抜け落ちていた。出来過ぎなくらい“浮ついた状態にさせられていた”。そうとしか思えない。

 この感覚は知っている。

 この浮ついて、地に足がついていない……何かに酔っているような危うい感覚。

 大きなミスをするときには大抵こういう時だ。

 まずい……魔だ。

 俺としたことが魔に差し込まれた。

 咲坂の笑顔に……警戒心をすっかり奪われてしまった。

 忘れていた……

 闇は……

 “咲坂本人”から発せられていることに。

 咲坂の笑顔の裏では無意識だけに訴えかける変化が確かに起こっていたんだ。普段の俺なら気付けた。しかし、それに気付けない程に俺は魔に付け入られていた。

 あんな浮ついた状態で、見抜けるわけがない。

 それを俺だけ知っていた咲坂の顔がどうとか……アホか俺は!?

「社長。すぐに探します。だから咲坂が見つかったらすぐに連絡をください」

「ああ分かった。なんだ櫻井?何をそんなに慌てている?」

「いえ、大丈夫です。とりあえず切ります」

 まずい。絶対にまずい。

 何か起こる……

「あれ?櫻井?どうした?血相変えて?」

 通路を歩いていた逆井が、俺の顔を見て目を丸くした。

「さ、逆井!咲坂見なかったか?」

「え?咲坂さん?ああ……さっき見栄えのいい男と話してるの見かけたぞ。ちょっと咲坂さん困った感じだったけど?」

 心臓がどくんと跳ねた。

 見栄えのいい男?嫌な予感しかしないワードだ。

 と、東郷だ。あのバカ……まさか自分から俺たちのこと説明に行ったのか?

 何やってんだよ。

 先に俺が田尻の警告を伝えておけば。

 後悔が一気に押し寄せてくる。

「悪い、逆井、咲坂を見かけたらすぐに連絡くれ。そして申し訳ないが咲坂を一人にしないでおいてくれ」

「おい櫻井?何言ってんだよ?意味わかんねーぞ?」

 逆井は困惑していたが、少し沈黙が走った。

「いいから!頼む、そうしてくれ!」

 声が上ずった。

 その気配で、逆井もただ事じゃないと悟ったらしい。

「ああ……分かったよ」

 まだ納得していない顔だが、最後には俺の頼みを飲んでくれた。

 咲坂……どこにいる?

 クソっ。

 当てもなく探しても見つからない。どうする?

 考えろ。手がかりがありそうな場所はどこだ?

 ──撮影室だ。まずそこへ向かってみよう。咲坂はそこに向かったはずだ。

 どこだ?撮影場所は。

 焦りで呼吸が荒くなる中、自分に問いかけ続けていると、幸運にもMISAKIの姿を見つけた。

 俺はMISAKIへ駆け寄り、声をかけた。

「突然すまない。咲坂……いやYUKINAはいまどこかわかる?」

 MISAKIは驚いて、わずかに身を引いた。

「どうしたんですか?そんな怖い顔して」

「悪い、ちょっと急いでるんだ」

「な、なんですか……YUKINAさんなら3FのC撮影室だと思いますよ」

「助かる。本当にありがとう」

 MISAKIは賢くて目ざとい。明らかに不審がってはいたが、それでも要点だけを素早く教えてくれた。

 俺はエレベータで三階へ向かい、C撮影室の表示を探す。

 広いフロアではないので、「C撮影室」のプレートはすぐに見つかった。

 スタッフも咲坂を探しているはずだ。ここまで来たら、勝手の分からない俺だけで動くより撮影スタッフと連携したほうがいい。

 とはいえ、いきなり扉を開けるのはマナー的に論外だ。

 俺は扉をノックした。

 しかし、スタジオの扉特有の曇った音しか出ない。中に届いている気がしない。

 開けるべきか?一瞬迷ったその時──

 扉が音もなく、静かに開いた。

 そして現れたのは──

 よりにもよって、東郷だった。
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