咲坂(SAKISAKA)という、誰の目にも留まるほど美しい女性は――俺にだけ“心の闇”を見せた。

里見 亮和

文字の大きさ
36 / 40

笑えよ、咲坂

しおりを挟む
ナイフを持っている野本を見た瞬間、アドレナリンが全身に回るような緊張が全身に走った。

浅はかすぎる。人として終わっている。

そのどうしようもない低俗さに、胸の底から嫌悪が込みあげた。

同時に俺は、ナイフという凶器の前に恐怖と緊張で震えが止まらなくなっていた。

田尻の読みは間違っていなかった。

間違ったのは俺の方だ。警戒すべき相手を見誤った。

突然のことに頭がついていけない。

落ち着け。思考を取り戻せ……俺は恐怖と緊張に抗いながらそう自分に言い聞かせていた。

今日、野本にとって俺が来ることは想定外なはずだ。

だとすれば――

野本がナイフを持ってここにいた理由。

それは咲坂を待ち伏せていた、ということだ。

こ、こいつ……咲坂を刺そうとしてたのか?

この野郎、ふざけるなよ?

俺は禍々しい憎悪の感情に支配され、全身が身震いした。

おそらく野本は、俺と咲坂が付き合うという話を“咲坂本人から”聞いたはずだ。

それでもなお、しつこく迫り続け、遂には完全に咲坂から拒絶された。

だから野本は、本能の箍が外れ、狂ったように凶行へ走った。

そして今、最悪のタイミングで憎き相手である俺を見つけてしまった。

野本にとっては渡りに船。

標的が咲坂から“俺へ”切り替わった瞬間だった。

すると、信じがたいことが起きた。

廊下の奥から、鋭いハイヒールの音が連続して響いた。

まさか……咲坂!?

そして階段の上に、息を切らした咲坂が姿を見せてしまった。

〝バカかお前は……なんで来るんだよ!〟

胸の奥で血が凍りついた。

野本はもともと咲坂が標的だ。

咲坂が野本の視界に入った瞬間、間違いなく標的が“咲坂”へ戻る。

それだけは絶対に避けなければならない。

案の定、野本は咲坂に気づき、踵を返して一直線に向かった。

「咲坂!戻れ!……早く!」

俺は必死に腕を振り、戻れと叫んだ。

「YUKINA!!やっぱり俺のこと、気になって来てくれたんだな?」

……最悪だ。完全に妄想の世界に入り込んでいる。

このままじゃ間に合わない。

走っても追いつけない。

なら、言葉だ。

舌戦で意識をこちらに向けるしかない。

「野本!俺の彼女に手を出すな!」

野本がビクリと振り向く。

よし、反応した。

おまえが単純なヤツで助かったよ。

「悪いが……YUKINAは俺のことが好きらしい」

野本の顔が憎悪で歪んだ。

その後ろでは、咲坂が真っ赤になって固まっている。

おい……今その反応いるか?

〝こっちに来い……咲坂から離れろ〟

俺は野本の表情を読み取りながら、慎重に階段を上がる。

「YUKINA……?」

野本が俺から目をそらさず、しかし低く咲坂に問いかけた。

最悪の展開だ。まだ距離が遠い。

咲坂は怯えたように体を縮めている。

「君は……この男が好きなのか?」

咲坂は逡巡し、答えに迷っている。

その瞬間、俺は歩幅を広げ、一気に距離を詰めた。

咲坂が言うであろう答えは分かっている。

だが“今だけは”正しい答えではない。

言わせてはいけない。

「私は……」

やめろ咲坂!

首を左右に振り、必死に伝えようとした。

しかし――咲坂は言ってしまった。

「私は……櫻井義人を愛している」

その言葉が引き金になった。

野本は狂気じみた叫びを上げて咲坂へ突進。

俺も全力で駆け寄り、野本に組みついた。

ナイフの軌道が大きく逸れ、咲坂の身体をかすめるだけで済んだ。

俺は野本の腕を掴もうとしたが――その刹那、脇腹に焼けるような痛みが走った。

「バカヤロウ……右脇腹はレバーだ……そこは刺すなよ……」

「よ、義人!!……義人!!」

咲坂が縋りつくように駆け寄ってきた。

「咲坂! く、来るな!!」

野本は、俺を刺したショックで硬直したままだ。

「バ、バカ……はやく逃げろ……」

「ああ……よ、義人!! 義人!」

咲坂は完全に取り乱している。

クソ、意識が遠のく……

「に、逃げろ……は、はやく……」

「やだよ……義人……やだよ……血が……すごいよ……」

野本はまだ動かない。

ナイフは脇腹に刺さったままだ。

抜かせるわけにはいかない。

抜いたら終わる。

野本の動きだけは見失うまいと目を凝らすが、視界がにじんでいく……

咲坂の声も遠い……

まずい。このまま落ちたら本当に終わる……

そのときだった。

廊下の奥から、東郷が全力で飛び込んでくる姿が視界の端に映った。

よ、よし……東郷さん……

これで咲坂は助かる……

東郷は一瞬で野本の腕をねじり上げ、完全に制した。

さすがだ。本当に頼りになる……

俺なんて、モブに刺されて倒れるだけなのに……

でもよかった。咲坂はもう大丈夫だ……

安堵した瞬間、急に力が抜けた。

あれ?

そういえば……俺、なんで階段で寝てるんだ?

ん? 咲坂がいる……? なんで泣いてるんだ……?

ああ、おまえすぐ泣くもんな。

でも顔がぼやけてよく見えない……

咲坂? どうした?

声もよく聞こえないぞ……

さっきから、なんでそんなに泣くんだよ……

そうか……俺は野本に刺されたんだったな。

もしかして……俺、死ぬのか……?

ここで――

ここで俺が死んだら……

咲坂はまた“闇”に取り込まれてしまう。

それはダメだろう。

絶対にダメだ……

咲坂には、俺の視線が要る。

だから……ダメだ。

俺はここで終わるわけにはいかない。

咲坂……どうして泣いてる?

顔が見えない。ぼやけてる。

頼む、こっちを向けよ。

その顔を、ちゃんと……見せてくれ。

俺が何より好きな、その顔を。

世界で一番綺麗だと、本気で思ってる……あの笑顔を。

そうだよ……その笑顔。

咲坂は、そうでなきゃいけない。

ずっと、そうやって笑っててほしいんだ。

咲坂……笑えよ。

なあ……笑ってくれよ。

頼むよ……笑えよ。

そうだ……それでいい……。

笑えよ、咲坂……

笑えよ……咲坂……。

咲坂……

咲坂……

咲坂……

咲坂……

さき……さ……
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

陰キャ幼馴染に振られた負けヒロインは俺がいる限り絶対に勝つ!

みずがめ
恋愛
★講談社ラノベ文庫新人賞佳作を受賞しました!  杉藤千夏はツンデレ少女である。  そんな彼女は誤解から好意を抱いていた幼馴染に軽蔑されてしまう。その場面を偶然目撃した佐野将隆は絶好のチャンスだと立ち上がった。  千夏に好意を寄せていた将隆だったが、彼女には生まれた頃から幼馴染の男子がいた。半ば諦めていたのに突然転がり込んできた好機。それを逃すことなく、将隆は千夏の弱った心に容赦なくつけ込んでいくのであった。  徐々に解されていく千夏の心。いつしか彼女は将隆なしではいられなくなっていく…。口うるさいツンデレ女子が優しい美少女幼馴染だと気づいても、今さらもう遅い! ※他サイトにも投稿しています。 ※表紙絵イラストはおしつじさん、ロゴはあっきコタロウさんに作っていただきました。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

春から一緒に暮らすことになったいとこたちは露出癖があるせいで僕に色々と見せてくる

釧路太郎
キャラ文芸
僕には露出狂のいとこが三人いる。 他の人にはわからないように僕だけに下着をチラ見せしてくるのだが、他の人はその秘密を誰も知らない。 そんな三人のいとこたちとの共同生活が始まるのだが、僕は何事もなく生活していくことが出来るのか。 三姉妹の長女前田沙緒莉は大学一年生。次女の前田陽香は高校一年生。三女の前田真弓は中学一年生。 新生活に向けたスタートは始まったばかりなのだ。   この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」にも投稿しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

(学園 + アイドル ÷ 未成年)× オッサン ≠ いちゃらぶ生活

まみ夜
キャラ文芸
年の差ラブコメ X 学園モノ X オッサン頭脳 様々な分野の専門家、様々な年齢を集め、それぞれ一芸をもっている学生が講師も務めて教え合う教育特区の学園へ出向した五十歳オッサンが、十七歳現役アイドルと同級生に。 子役出身の女優、芸能事務所社長、元セクシー女優なども登場し、学園の日常はハーレム展開? 第二巻は、ホラー風味です。 【ご注意ください】 ※物語のキーワードとして、摂食障害が出てきます ※ヒロインの少女には、ストーカー気質があります ※主人公はいい年してるくせに、ぐちぐち悩みます 第二巻「夏は、夜」の改定版が完結いたしました。 この後、第三巻へ続くかはわかりませんが、万が一開始したときのために、「お気に入り」登録すると忘れたころに始まって、通知が意外とウザいと思われます。 表紙イラストはAI作成です。 (セミロング女性アイドルが彼氏の腕を抱く 茶色ブレザー制服 アニメ) 題名が「(同級生+アイドル÷未成年)×オッサン≠いちゃらぶ」から変更されております

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について

沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。 かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。 しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。 現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。 その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。 「今日から私、あなたのメイドになります!」 なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!? 謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける! カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!

処理中です...