檸檬色に染まる泉

鈴懸 嶺

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覚悟の約束

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「維澄さん、化粧室行ってくるからちょっと待ってて貰っていいですか?」

「うん、行ってらっしゃい」

「それと、ここを”絶対”動かないでくださいね?」

「え?どうして?」

「え~と、だから……維澄さんヘタに動き回ると人だかり出来そうだから」

「そ、そんな訳ないでしょ?」

「いいから!ね?動かないでね?」

「わ、分かったわよ……早く行ってらっしゃい」

「うん、じゃあ……」

 私は維澄さんが絶対にその場を動かないことを念押しして、慌てて廊下に飛び出した。



 私は焦りを通り越して恐怖心で身震いした。

 化粧室に行くなんていうのは嘘。




 少し前のこと……

 私と維澄さんは、予選会場の扉近くに座っていたから扉を開けて入ってくるオーデション参加者がいちいち気になって落ちつかなかった。

 すると、なんとなく扉に視線が向いている時間が多かったので、廊下を通過する一団に何気なく目がいってしまっていた。

 そして、私は戦慄のあまり血の気が引いた。



 遠目にも分かった。

 数人のスタッフらしき人たちの中心にいてひときわ華やかで、かつ異様なオーラを纏った”その人”が誰なのかを。

 上條裕子だ。

 とういうことはその周りにいるのはKスタジオのスタッフか?

 やっぱり来ていたんだ……

 幸い維澄さんはKスタジオのメンバーと上條社長の存在には気付かなかった。

 私は維澄さんにこの事実を知られないために、咄嗟に粧室に行くふりをして廊下に飛び出した。

 もちろん決して維澄さんが予選会場を出ることがないように念を押してだ。

 だってなんの心の準備もなくいきなり維澄さんが上條社長と会ったりしたら、悪い想像しか浮かばない。

 まだ維澄さんを上條社長に会わせてはならない。

 こうなることを予想はしていたものの、いざ実際に上條社長の姿を見つけてしまうと、実現してしまうであろう維澄さんと上條社長との邂逅に無策でいたことを思い知ってしまった。

 どこかに〝会わないで済むかも〝なんて呑気な想像があったのかもしれない。

 甘かった。

 これで維澄さんが上條社長に会うことはおそらく避けられない。

 もっと真剣に考えておくべきだった。

 とりあえず私は廊下に出て上條社長の姿を探した。

 すると上條社長とKスタジオの面々は予選会場の審査スペース側の扉から会場に入っていくのが見えた。

 事前の要項メールにはゲスト審査員としてKスタジオのYUKINAの名前があった。でもこの様子だと上條社長も審査員として”しゃしゃり”出てくる可能性が高い。

 私は焦りと興奮が入り混り身体はガタガタと震えていたが、迷わず上條社長の後を追って扉を開けた。

 すると……

 スタジオの最後尾にいた男性が私の顔を”ギロリ”と睨みつつ間髪置かずに私を怒鳴りつけた。

「参加者はあっちの扉から入って!!」

 しかし私はこの男性とやり取りをしている余裕はない。

「上條さん!!」

 私はこの男性の怒声をスルーしていきなり大声で上條社長を呼んだ。

 すると上條社長は怪訝な顔で振り返った。

 同時にさっきの男性が間に入ってきた。

「いきなりなんだ君は?失礼だろ!!」

 しかし直ぐさま上條社長はその男性を制した。

「いいから、さがってな」

 上條さんはきっと私が訪ねてくるのを想像していたのだろうか?私の顔を見た瞬間、”しめしめ”と言わんばかりに鋭い視線と微笑みを私に向けてきた。

 上條社長とは二回ほど会っているが、その時の印象とはまるで違う。まさに”戦闘モード”むき出しで今日の彼女からは恐怖しか感じない。

 私はそんな上條社長の”威圧感”に緊張した。

「え~と、神沼さんだっけ?フフフ、わざわざ挨拶に来たって感じではなさそうだけど?」

「か、上條さん?な、なに企んでるんですか?」

「はあ?久しぶりに会っていきなりなにを言いだすのよ?」

 私は自分の言いたいことが先走って意味不明なことを言っているのは分っている。でも理路整然と話す余裕が今の私にはない。

 でもきっと上條社長のことだ。私が声をかけた理由だって本当は分っているはずだ。

「分ってると思いますけど、維澄さん会場に来てますよ?」

 私は上條さんが知りたいであろうことを”先に”口にした。

 この時、一瞬上條社長の表情が硬くなるのが分かった。

 やっぱりそうだ。

 上條さんは当然維澄さんがこの会場に来ることは予想していたとはいえ確証はなかったはずだ。

 維澄さんを良く知る上條さんだからこそ、”逃げ体質”の維澄さんが今回だって逃げると想像していてもおかしくはない。

「へえ~それで?」

 それでも上條社長は惚けてポーカーフェイスをしてきた。

「惚けないでください。いきなりKスタジオがこのオーデションに首を突っ込んできたのだって私のプロフィール見たからですよね?」

「ハハハ、何を言ってるの?あなたいつから私の目に留まるような一流モデルになったの?随分と自意識過剰がすぎるんじゃない?」

「誤魔化さないでください!維澄さんに何をしようとしてるんですか?」

 この後の及んで惚けようとする上條社長に業を煮やした私は思わず怒鳴ってしまった。

 しかし上條社長は顔色一つ変えずに、いやむしろさらに眼光を強めて言った。

「あなたがIZUMIをどう想っているかは知らないけど、”部外者”のあたながこれ以上首突っ込まないでくれるかしら?」

 私はいきなり声をトーンを変えてきた上條社長の言葉で、また心が恐怖を感じ一旦は勢いづいた私の気勢は一瞬で潰されてしまった。

 でも私は震える声で何とか言を繋いだ。

 私は”部外者”なんかじゃない。

 過去に維澄さんが愛したであろう上條社長への嫉妬心が勝って私は一歩踏み出すことがでした。

「上條社長から維澄さんに会いに行くのはやめてください」

「はあ?なんであなたにそんな指示をされなければならいないの?」

「維澄さんが自分から上條さんを訪ねるようにしますから、それまで待っててください。」

 なんとか私がそこまで言うと、上條社長は急に表情を緩めた。

「ふ~ん……IZUMIは私に会う気がある。そういうこと?」

「はい。」

「本人がそう言ったの?」

「私が説得しました」

「あなたが?!……アハハハハ、それは面白い」

「な、何が面白いんですか?」

「あんたも健気だなと思って」

「ど、どう言う意味ですか?」

「フフ……まあ、分った。とりあえずあなたを一旦信じましょう。ただし……」

 また上條社長は鋭い視線を私に向けた。

 私はゴクリを唾を呑みこんで上條社長の言を待った。

「私が待つのはこの予選が終わるまで。予選が終わったらIZUMIに来るように言ってちょうだい」

「そ、そんな一方的な……」

「これが条件よ。私もあなたの主張を呑んだんだから”あなた”がIZUMIをそれまでに説得しなさい」

「クッ……」

 上條社長の有無を言わせぬモノ言いに私は絶句してしまった。

 でも仕方がない。まだ時間はある。

「わ、分りました。んとかしてみます」

「まあ、どうせ私は予選終わるまでこの審査室動けないからIZUMIに会ってる暇はないんだけど」

「そ、それじゃあ最初から」

「そうよ?」

「そ、そんなずるいじゃないですか?」

「ずるい?そんなことないでしょ?どうせ私が強引に言わなければIZUMIは逃げて帰ってしまう可能性があることはあたなも分かってたんでしょ?」

「……」

 私は全てをこの人に見透かされてしまっていたことを思い知った。

 そうか、私はこの人の交渉しているつもりでも結局この人の描いたストーリーに乗せられてしまっただけだ。

 確かに上條社長が言う様に、こうでもしなければ私も具体期に上條社長と維澄さんを邂逅させるためのストーリーは思い浮かばなかった。

 悔しいけど、上條社長のやり方が正しいのかもしれない。


 …… …… ……

 私は維澄さんの元へ戻る途中、深呼吸を何度もして高ぶりすぎた感情をなんとかおさえようとした。

 そうだ……

 まずは私から覚悟を決めなければならない。

 私はなんとか冷静に、そして顔色を普段通りにして維澄さんの前に戻ってきた。

「維澄さん、お待たせしました」

「あ、檸檬?ずいぶん遅かったね」

「ええ……」

 それでも私の顔はきっと緊張していたのだろう、維澄さんは怪訝な顔をして聞き返して来た。

「何かあったの?」




「ええ……上條社長と会ってました」


 維澄さんの顔が……


 みるみる凍りつくのが分かった。
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