二度目の初恋

なつき はる。

文字の大きさ
4 / 6

4話

しおりを挟む
 昼休みに自分のデスクで弁当を広げていたら、突然背中にずっしりとした重みがかかった。美味そうなもん食ってるなあ、とにやつく声音にむっとすると、傍にいたパラリーガルがハラスメントですよと注意してくれる。それを鼻で笑い飛ばした先輩が卵焼きをひとつ掻っ攫っていった。長い指で摘ままれた黄色いそれが先輩の口に運ばれていくのを唖然として見る。
「勝手に食べないでくださいよ!」
「いいじゃねえか、ひとつくらい。お前が弁当食ってるのなんて珍しいんだから。それにしても美味いな」
「倉多さんの奥さん、お料理上手なんですね」
「最近凝っているみたいで」
 同僚たちはみな、羽澄の指環がカモフラージュのための偽物だとは思ってもいない。曖昧に笑って誤魔化しながら、これ以上食べられないようにさり気なく先輩から弁当を遠ざけた。先輩である伊井田は羽澄の反応を面白がるようにまた弁当へと指を伸ばそうとしてから、揶揄するように冗談だよと笑った。今日は業務が比較的落ち着いているので機嫌がよさそうだ。ついパラリーガルの方へ目線を向けてしまうのは、この男の気まぐれに悩まされる同士だからだ。
「伊井田さんもお昼食べてきたらどうですか?」
「ん?ああ、そうするか。今日中に次の訴訟の資料まとめとけよ」
 そう言い残して伊井田が出ていってくれてほっとした。入社以来彼には同じチームの先輩として世話になっているが少々人との距離が近すぎる。特に同性に対しては遠慮がないので、羽澄はあえて自分から距離を取るようにしていた。優秀だが気分野で、期待している成果を出せない者にはかなり厳しい彼に、羽澄は気に入られている方だと思うが、その割に結構な確率で怒られてもいた。今日は穏便に済ませられるよう、昼食のあとは言いつけられた資料を時間内に作成しなければいけない。
 まぁ、それはこの弁当を楽しんだあとに考えればいい。羽澄はいただきますと手を合わせて、光稀が詰めてくれた弁当のおかずをひとつひとつじっくりと味わった。すっかり光稀に胃袋を掴まれている羽澄に、彼は時々弁当を詰めてくれるようになった。それがたまらなくうれしいのに、その気持ちを押し殺さなければいけないのがつらい。羽澄の気持ちが光稀にいくら傾いても、彼は羽澄の“奥さん”ではないし、ましてや恋人同士ですらない。身体だけの関係というには割り切れない、それでいて恋人にもなれない曖昧な状態が今もずるずると続いている。
 連絡先を交換してから、光稀は毎日のように連絡を寄越した。誰かに抱かれたくなったら連絡して、と言われたものの、羽澄から誘いをかけたことは一度もない。これ以上は駄目だと自分に言い聞かせながら、事務所で顔を合わせるたびに予定を聞かれるようになり、彼が求めてくれるうちはと流される。そのうちに部屋の片付けや食事の世話まで焼かれるようになって、いつの間にか羽澄の部屋には光稀の私物が増えていった。自分のテリトリーを侵されるのはいやだったはずなのに、光稀なら平気であることが不思議でならなかった。
「伊井田さん、機嫌よかったですねえ」
「今日いっぱい持ってくれるといいけど。あとは急な依頼がないことを願うよ」
「そうですね。あ、倉多さん、電話鳴っていますよ」
 パラリーガルに指摘されて、資料の上に放置していたスマートフォンが震えていることに気づいた。幼馴染の名前が表示されたそれを持って席を立って廊下に出る。休憩スペースへ向かいながら電話に出ると、第一声に元気かと問われた。そういえば最近、彼のことを想う時間が減っていた。今だって、表示された名前が光稀ではなかったことに少し落胆している。
しかしそれをおくびにも出さずに、羽澄は努めて明るい声を出した。
『羽澄、久しぶりだな。元気にしてたか?』
「元気だよ。そっちは?」
『ようやく忙しいのが落ち着いたんだ。それで今日の夜暇なら久々に逢わないかと思って。忙しそうか?』
「いや、どうだろう。僕の方も落ち着いているけど、今日中に仕上げなきゃいけない資料があって、」
 ふと何気なく上げた目線が、丁度エレベーターから降りてくる光稀を捉えた。彼が事務所の植物の世話に訪れるのは夕方頃のはずだ。逢いたいと願う羽澄の見間違えかと思ったが、こちらに気づいた光稀が柔らかな笑みで手を振ってくれる。それに応えるように手を上げたところで、聞いているのかと悠に怪訝そうな声を出された。それで、羽澄はずっと恋焦がれていたはずの悠よりも、目の前の光稀の方がずっと大切なのだと気づいてしまう。
「ごめん、ちょっと同僚に呼ばれて」
『そうか。忙しいようならまたにするか?』
「そうだな、今日はやめておくよ。また誘ってくれ」
『そうするよ。そうだ、羽澄。近々親父が再婚するんだ。俺が結婚する前にちゃんとしておきたいらしい。それでお前の家族も呼んで簡単な顔合わせするって言っていたから、そのうち話があると思う』
「よかったじゃないか。おじさんにおめでとうと伝えておいてくれ」
『ああ。どうやら俺に義弟ができるらしいんだ。そのときに紹介するよ』
「ああ、楽しみにしている。じゃあ、また」
 電話を終えてひと息吐くと、律義に待っていた光稀が羽澄さん!と声を弾ませた。それがかわいくて、胸の奥を鷲掴みにされた。とっくに身体は溺れているというのに、気持ちまで持っていかれてどうする。そうわかってはいても、一度許してしまった心を再び引き締めることは難しい。
「こんな時間に珍しいな」
「下の階で植物の搬入があったんだよ。それでついでにこっちの手入れもやってしまおうって話になって。羽澄さんに逢えてラッキーだな。お昼休憩中?」
「ああ。弁当美味しかった。ありがとう」
「俺が勝手にやっていることだから。お口に合ってなによりです」
 ふふっとお道化るように笑う光稀に、羽澄の頬も自然と弛んでしまった。一緒に来ていた光稀の同僚が、そろそろ始めようと声をかけてくる。それに返事をした彼が名残惜しそうに溜息を吐いた。せっかく羽澄さんに逢えたのにと唇を尖らせるのが、羽澄の笑みを深くする。
 散々羽澄を翻弄するような言動をしていた光稀は、気心が知れてくるうちに年相応の子供らしさを見せるようになった。それがまた羽澄の心を揺さぶっていることなど露知らず、甘えるような仕種をされるとなんだって許してしまいたくなる。ああ駄目だなと思いながら関係を断ち切ることができないのは、光稀がさり気なく次の約束を口にしてくれるからだった。
恋人がいて、女の子と当たり前のしあわせを築ける彼を、羽澄と同じ側へ引きずり込んでいるのがうしろめたい。それでもこれは羽澄が初めて自分から望んだ関係だった。身体だけの関係でも、都合のいい相手として扱われてもいい。光稀に飽きて捨てられるまでは傍にいることを許してほしい。
そう、願ってしまう。
「ほら、仕事しに来たんだろ」
「そうですけど、」
「今日、少し早めに仕事が終わりそうなんだ。川原くんさえよかったら、」
「羽澄さん、名前で呼んでって言いましたよね?」
 わざとらしい拗ねた声音に心をくすぐられた。不埒な関係を続けていくうちに、光稀からは名前で呼んでくれと何度か強請られていた。抱かれているどさくさに紛れてどうにか呼べるようにはなったが、素面の状態で名前を呼ぶのはまだハードルが高い。だから極力名前を呼ばないように気をつけていたのに、つい逢えたうれしさでうっかりしてしまった。
「ここは公衆の面前だし」
「誰もいませんけど?」
「慣れるように努力はするから、」
「この前もそう言っていたじゃないですか。まぁいいや。羽澄さんから誘ってくれたの、初めてだし」
 先ほどまでの無邪気さを潜めた顔が、羽澄にしか見せない顔で笑う。それにどきりとしたのはおくびにも出さずに、日頃食事を作ってくれる礼にごちそうするよと申し出た。
「そのあとは羽澄さんちにお邪魔してもいい?」
「別にいいけど」
「やった!じゃあ、楽しみにしているね」
 するりと伸びてきた手がさり気なく羽澄の手に触れた。またあとでねとその手が離れてしまうのが惜しくて、仕事へと戻る光稀の背から目が離せなかった。同僚に遅いと怒られて、苦笑いながら謝っているのが見える。じっと見つめていることに気づかれたのか、こちら見た彼が小さく手を振ってくれた。そういう些細なことが積み重なって、羽澄の心を虜にしていく。
 光稀との約束に俄然やる気が出て、午後の仕事は随分と捗った。伊井田や他の先輩から追加の仕事を言いつけられることもなく、予定通りあまり残業せずに業務を終える。仕事の合間のやり取りで、待ち合わせは駅前に十九時半、食事の店は羽澄が考えることになった。
 少し遅れて到着した羽澄を光稀が笑顔で迎えてくれた。どこに行くんですか?と問われて、駅から少し離れたイタリアンバルに入る。そこはいつだかクライアントとの食事会で利用した店で、なにを食べても美味しかったことを覚えていた。
 光稀と向かい合って外で食事をするのは初めてだった。すきなものを頼んでいいと言うと、メニューを見ながらあれこれ羽澄の意見を聞いてくれるのがうれしかった。食事をしながら他愛なく笑い合っていると、随分と打ち解けた気安い関係になったものだと思う。光稀に勧められるがまま少し酒を飲んだ羽澄は、彼と過ごす時間の楽しさも相まって店を出る頃には程よく酔っていた。
 明日が休みでよかったなと思ったのは、マンションに帰りついて光稀と散々抱き合ったあとだった。動く気力もなくベッドに突っ伏していると、シャワーから戻ってきた光稀がベッドに腰かけて大丈夫かと申し訳なさそうな声を出す。温かな布に身体を拭われながら、こうして甘やかされるのが当たり前になったなぁとほくそ笑んだ。光稀に抱かれた充足感に浸るこの時間が永遠に続けばいい。
「身体つらくないですか?」
「大丈夫。強請った僕にも責任はあるし」
「羽澄さん、俺を煽る天才ですもんね」
 ふふっと柔らかな笑みを零した光稀が羽澄の肩口に唇で触れてくれた。くすぐるように背筋を辿られると、散々抱かれたあとだというのに身体が微かに疼いてしまう。振り向いてもう駄目だと言えば、はぁいととぼけた返事をされる。光稀のお陰でさっぱりした身体をシーツへと横たえると、光稀が圧しかかるように隣へと寝ころんだ。
「明日も仕事?」
「いや、明日は休みだ。だからきみを誘ったんだし」
「そうなんだ。じゃあ、明日はゆっくり朝寝坊して、そのあとデートしませんか?」
 にこやかにそう誘われて、羽澄は思わず面食らってしまった。身体だけの関係であると割り切らなければいけないのに、見つめてくる光稀の視線に心が焦がれる。デートという言葉に、つい光稀が女の子といた場面が頭に浮かんでしまった。この男は恋人がいながら、他の男をデートに誘ったりするのだ。
「僕たちには似つかわしくないな」
「ええ?そうかな。一緒に遊ぶのもいいと思いません?」
「今どきの若者ってなにするの?」
「羽澄さんも今どきの若者でしょ?それは明日、朝ご飯食べながら考えようよ。ね?」
 羽澄が弱い、強請るような表情を浮かべられてしまうと、溜息と共にわかったと答えるしかなかった。ここで彼女に時間を割いてやれと言うこともできた。けれどそれを口にするのは、この甘い時間を台無しにしてしまいそうで怖い。
「明日も泊まっていく?」
「いえ、次の日に予定があるので帰ります。それから、しばらく逢えなくなりそうです。レポートとバイトで忙しくなりそうで」
「そう」
「羽澄さん、もしかして寂しい?」
 そう指摘されて、顔が見えないように寝返りを打った。逢えないと言われたことが思ったよりもずっと鋭く胸を刺して、そこから寂しさが滲み出ていく。背中から抱き締められて連絡するからと言われても、逢えない間に光稀の熱が冷めるかもしれないと考えてしまった。いくら光稀に優しくされようが、彼の心は羽澄の気持とは違うのだ。
「そんな顔しないでください。またすぐ逢いにきますから」
「まだ僕と逢ってくれるのか」
「当たり前じゃないですか。だから俺と逢えない間、変な男に引っ掛からないでくださいね?羽澄さん、危なっかしいから」
 そう言う光稀の腕に力が籠ったものだから、羽澄はつい本音を零してしまいそうになる。そんなことを言われなくても、光稀以外に抱かれることを考えられなくなっていた。だって誰かに抱かれてしまったら、光稀に抱かれた事実が上書きされて消えてしまう。そんなことになるくらいなら、もう誰とも寝たくない。
「わかったから、苦しいって」
 そう苦笑った自分の声が、彼の耳にどう届いていたのかわからない。少し震えて泣きそうな、そんな声に聞こえた。


 光稀からひと段落つきそうだと連絡があったのは、逢えないと言われてから二週間ほど経ったころだった。その間に羽澄は新たな訴訟に関わることになり、伊井田の下で忙しくしていたため、思ったよりも逢えない寂しさに苛まれることはなかったが、相変わらず毎日のように光稀が寄越すメッセージを見るたびに顔が見たくてたまらなくなった。そんな折にこの日に逢いたいと言われたら、二つ返事でオーケーする以外の選択肢などない。
 自分でも驚くほど浮足立っているのがわかった。なにかいいことがあったのかとパラリーガルから聞かれる始末だったので、逢うときはそれが駄々洩れないように気をつけねばと思っていた。
 だから、不意打ちのような再会に上手い反応ができなかった。光稀の方も驚いていたと思うが、羽澄よりも余程上手く取り繕っていた。挨拶に夢中になっている同席者たちにはふたりの様子には気づいていない。
 今日は羽澄の家族と悠の家族とで、悠の父親の再婚相手との顔合わせの日だった。幼い頃からあらゆる行事を家族ぐるみで過ごしてきたこともあって、悠の父親がどうしても羽澄たちを新しいお嫁さんと息子に引き合わせたかったらしい。新しい奥さんは人当たりがよい人で、さっそく羽澄の両親とも打ち解けていた。まさかその息子が光稀だったなんて夢にも思うまい。
「羽澄、こちらひかりさんと息子の光稀くん。ひかりさん、幼馴染の羽澄です」
 悠に紹介されてどうにかぎこちない笑みを取り繕った。傍から見れば緊張しているようには見えるだろう。よろしくと差し出されたひかりの手をおずおずと握る。彼女のすぐ傍に立つ光稀の方はどうしても見ることができなかった。
「羽澄くんは弁護士なんでしょう?うちの会社で困ったことがあったら是非お願いしたいわ」
「まだまだ下っ端ですけど、お力になれるようかんばりますね」
「悠くんと幼馴染なのよね?仲良しだって聞いたわよ。うちの光稀とも是非仲良くして欲しいわ」
「是非よろしくお願いします、羽澄さん」
 光稀からそう言われて心臓が冷えた。少し他人行儀な響きを持った声が、思った以上に羽澄の心に突き刺さる。どうやら彼は羽澄と初対面の体を取ることに決めたようだった。
もし恋人同士だったとしても、男同士で付き合っているだなんて口が裂けても言えまい。その上羽澄と光稀は身体だけの関係でしかないのだ。
 今すぐにこの場から逃げ出したい羽澄を置き去りにして、食事会は和やかに進んでいった。ひかりは気配り上手な上に話術も達者で、どんな話題にも楽しそうに興じている。光稀も悠と打ち解けていて、羽澄から見てもよい家族になれそうだった。
楽しそうな光景に愛想笑いで興じながら、羽澄はいつだったか、光稀から母親に女手一つで育ててもらったのだと聞いたことを思い出していた。そのときはぼんやりとしていたその事実が、今羽澄の目の前ではっきりと輪郭を持つ。
 うしろめたさと罪悪感で胸の内が気持ち悪い。羽澄の両親は羽澄が同性をすきだということに薄々気づいていた。お互いにはっきりと口にしたりはしないけれど、羽澄が恋人だと言って同性を紹介したとしても受け入れてくれるだろう。けれどひかりは息子が男に誑かされて身体だけの関係を続けていると知ったら、きっと羽澄を軽蔑するに違いない。自分の気持ちに溺れて光稀に縋りついていることを酷く後悔した。こんな関係は光稀にとって後ろ暗い若気の至りにしかならない。
 そう、わかっていたのに。
 ふと、スマートフォンが内ポケットで震えた。確認するとディスプレイには伊井田の名前が出ている。断りを入れてから席を立って、店の外に出てから電話を取った。開口第一、努めて冷静を装おうとしているのがわかる声音で、大変申し訳ないがと言われたのにぞっとした。
 それなのに、急に必要な資料が増えたので戻って手伝ってほしいという申し出に、救われたような気持になった。わかりましたと答えて電話を切ると、丁度出てきた光稀と鉢合わせる。仕事の電話かと問われて頷いた。しおらしく眉を下げるその顔を上手く見ることができない。
「他人のふりしてごめん。でも、そっちの方がいいかと思って」
「その方が僕もよかったと思う。急な呼び出しで戻らなきゃいけなくなったから、今日は帰るよ。このことはまたゆっくり話そう」
「そう言って、逢わないつもりでしょ」
 その言葉にはっと息を呑んだ。咎めるような声の響きに、引き留められているような気になった。そんなことはないと答えながら、本当にそうだろうかと自分に問う。あんなにうれしかった、逢おうという誘いをすっぽかそうとしているんじゃないのか。
「あの人が羽澄さんのすきなひとでしょ?」
「え?」
「だから俺のこと切るんですか?」
「そういうわけじゃあ、」
 じゃあどういうわけなのだろうと、自分でもわからなくなってしまった。傷ついたような顔をされると、光稀の中にも羽澄と終わりたくない気持ちがあるのだと思いたくなってしまう。
 違うと言いたかった。光稀との関係を清算したいのは、彼の母親に紹介してもらえるような相手ではないと思い知ったからで、悠のことは関係なかった。たしかに彼のことはすきだ。けれどその気持ちはもう、羽澄が光稀に感じている気持ちとは違う。
悠への恋は関係性を壊すのが怖かった。それに対して光稀には、身体だけでもいいからとみっともなく縋りついてしまいたくなる。それでいてそうできないのは、傷つくのが怖いからだ。
 光稀にそんなつもりがないと言われるのが怖い。彼に恋人がいるとわかっていてずるずると続けてしまった関係に、この先の光があるとは思えなかった。いつか人並のしあわせを望んだとき、羽澄にはそれを与えてやることはできないのだ。だから、終わりにしなければと思っている。思っているのに、もしここでこの想いを口にしたらどうなるのだろうと考えてもいた。
「ここでする話じゃないですね。わかりました」
「わかったって、なにが」
「終わりにしたいんでしょう?いいですよ、そろそろ彼女にも気づかれそうだったし」
 自嘲するように笑う、そんな顔をさせたいわけではなかった。先に戻ると言う光稀を引き留めなければと思うのに身体が動かない。傷つく資格などないのに、心が抉られて息をするたびに痛んだ。どうしようもなくすきであることに気づいた、絶望に叩き落される。
 そのまま戻る気になれず、ポケットに電子定期が入っていることを確認して駅に向かった。事務所へと戻る電車に揺られながら、後悔の念に苛まれる。思わず前屈みになって、込み上げてくる嗚咽を怺えた。
光稀があえて傷つく言葉を選んだのだとわかっていた。彼は羽澄が終わりにできる理由を作ってくれたのだ。それがまたやるせなくて、羽澄の胸を痛ませる。これでいいのだと思い込もうとした。終わらせなければと思ったのは羽澄の方なのに、いざそうなってしまうとなくしてしまうのが惜しい。
 ようやく名前を呼べるようになったのに、と笑った。羽澄が光稀の名前を呼ぶたび、ちょっとうれしそうにするのをかわいいと想っていた。それがもう、あっという間に届かない場所へと遠ざかっていく。
羽澄は気持ちを落ち着かせるように深呼吸を繰り返しながら、足下から迫り上がる絶望をどうにかやり過ごすしかなかった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ヤンデレ王子と哀れなおっさん辺境伯 恋も人生も二度目なら

音無野ウサギ
BL
ある日おっさん辺境伯ゲオハルトは美貌の第三王子リヒトにぺろりと食べられてしまいました。 しかも貴族たちに濡れ場を聞かれてしまい…… ところが権力者による性的搾取かと思われた出来事には実はもう少し深いわけが…… だって第三王子には前世の記憶があったから! といった感じの話です。おっさんがグチョグチョにされていても許してくださる方どうぞ。 濡れ場回にはタイトルに※をいれています おっさん企画を知ってから自分なりのおっさん受けってどんな形かなって考えていて生まれた話です。 この作品はムーンライトノベルズでも公開しています。

かわいい王子の残像

芽吹鹿
BL
 王子の家庭教師を務めるアリア・マキュベリー男爵の思い出語り。天使のようにかわいい幼い王子が成長するにつれて立派な男になっていく。その育成に10年間を尽くして貢献した家庭教師が、最終的に主に押し倒されちゃう話。

【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。

きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。 自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。 食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。

惚れ薬をもらったけど使う相手がいない

おもちDX
BL
シュエは仕事帰り、自称魔女から惚れ薬を貰う。しかしシュエには恋人も、惚れさせたい相手もいなかった。魔女に脅されたので仕方なく惚れ薬を一夜の相手に使おうとしたが、誤って天敵のグラースに魔法がかかってしまった! グラースはいつもシュエの行動に文句をつけてくる嫌味な男だ。そんな男に家まで連れて帰られ、シュエは枷で手足を拘束された。想像の斜め上の行くグラースの行動は、誰を想ったものなのか?なんとか魔法が解ける前に逃げようとするシュエだが…… いけすかない騎士 × 口の悪い遊び人の薬師 魔法のない世界で唯一の魔法(惚れ薬)を手に入れ、振り回された二人がすったもんだするお話。短編です。 拙作『惚れ薬の魔法が狼騎士にかかってしまったら』と同じ世界観ですが、読んでいなくても全く問題ありません。独立したお話です。

【BL】正統派イケメンな幼馴染が僕だけに見せる顔が可愛いすぎる!

ひつじのめい
BL
αとΩの同性の両親を持つ相模 楓(さがみ かえで)は母似の容姿の為にΩと思われる事が多々あるが、説明するのが面倒くさいと放置した事でクラスメイトにはΩと認識されていたが楓のバース性はαである。  そんな楓が初恋を拗らせている相手はαの両親を持つ2つ年上の小野寺 翠(おのでら すい)だった。  翠に恋人が出来た時に気持ちも告げずに、接触を一切絶ちながらも、好みのタイプを観察しながら自分磨きに勤しんでいたが、実際は好みのタイプとは正反対の風貌へと自ら進んでいた。  実は翠も幼い頃の女の子の様な可愛い楓に心を惹かれていたのだった。  楓がΩだと信じていた翠は、自分の本当のバース性がβだと気づかれるのを恐れ、楓とは正反対の相手と付き合っていたのだった。  楓がその事を知った時に、翠に対して粘着系の溺愛が始まるとは、この頃の翠は微塵も考えてはいなかった。 ※作者の個人的な解釈が含まれています。 ※Rシーンがある回はタイトルに☆が付きます。

【完結】エデンの住処

社菘
BL
親の再婚で義兄弟になった弟と、ある日二人で過ちを犯した。 それ以来逃げるように実家を出た椿由利は実家や弟との接触を避けて8年が経ち、モデルとして自立した道を進んでいた。 ある雑誌の専属モデルに抜擢された由利は今をときめく若手の売れっ子カメラマン・YURIと出会い、最悪な過去が蘇る。 『彼』と出会ったことで由利の楽園は脅かされ、地獄へと変わると思ったのだが……。 「兄さん、僕のオメガになって」 由利とYURI、義兄と義弟。 重すぎる義弟の愛に振り回される由利の運命の行く末は―― 執着系義弟α×不憫系義兄α 義弟の愛は、楽園にも似た俺の住処になるのだろうか? ◎表紙は装丁cafe様より︎︎𓂃⟡.·

塔の上のカミーユ~幽囚の王子は亜人の国で愛される~【本編完結】

蕾白
BL
国境近くにあるその白い石の塔には一人の美しい姫君が幽閉されている。 けれど、幽閉されていたのはある事情から王女として育てられたカミーユ王子だった。彼は父王の罪によって十三年間を塔の中で過ごしてきた。 そんな彼の前に一人の男、冒険者のアレクが現れる。 自分の世界を変えてくれるアレクにカミーユは心惹かれていくけれど、彼の不安定な立場を危うくする事態が近づいてきていた……というお話になります。 2024/4/22 完結しました。ありがとうございました。 

処理中です...