青空の彼方にて

鈴原りんと

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第ニ章:暴け真実、取り戻せ記憶

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 南校舎二階の一番奥。そこに音楽室はあった。
 無駄に広い学校のくせに、音楽室は一つしかない。普通は第二、第三と複数の音楽室があるものじゃないのか。けれどそれは俺の中での常識なだけで、世間では常識じゃないのかもしれない。
 それでも、生徒数に対して音楽室が一つとはなかなかに厳しいだろう。
 そうくだらないことを考えながら歩いていれば、ふとピアノの音が聞こえた。軽やかな音だった。何の曲かは分からないが、聞いたことはある気がする。
 たぶんクラシックだ。
 俺が歩いている廊下の先から聞こえてくる旋律は、羽のように軽くて、煌びやかな色を放っている。耳触りが良く、心を落ち着かせてくれる綺麗なメロディだった。
 これを弾いている人物は、きっとかなりの腕前だろう。素人の俺でもなんとなく分かる気がする。
 半ばその音に惹かれるかのように足を速め、俺は音楽室の前までやってきた。穏やかな旋律はこの奥から聞こえる。
 その音をかき消さないようにそっと扉を開けば、そこには立ったままピアノを弾く一人の女子生徒がいた。
 その生徒にはもちろん見覚えがある。
 地毛だと言い張る赤茶の髪に、短めのスカート。腕まくりされた制服。
 ピアノを弾いていたのは、北原だった。

「……繋?」

 ぷつりと音が止み、宙を揺蕩っていた温かい音色が床に転がった。振り返った北原は、いつものスポーツ女子ではなく、大人の雰囲気を纏った違う世界の人間のように見えた。

「ごめん、邪魔しちゃったかな」
「いや、そろそろ集中力切れてきたところだしいいよ」

 北原はゆっくりと鍵盤蓋を閉じながら答えた。ピアノの前に用意された椅子に腰かけると、北原は艶やかな黒色のピアノを見つめた。

「音楽室の鍵、北原が持ってたんだ」
「あぁ。ちょっくら拝借させてもらったよ」
「一吹と同じことするんだね」
「はぁ? アイツと一緒にすんな」
「ごめんごめん。でも、みんな調べたい気持ちは一緒なんだね」

 急に睨みを利かせてきた北原に謝罪しながら、音楽室内を見回した。
 音楽室には、何かを調べた形跡があった。楽譜がしまわれている棚は開けっ放しだし、準備室に繋がる扉も開いている。極めつけは、棚の前に散らばった楽譜と教科書だ。大量の音符が書かれたそれは、乱雑に放置されている。

「北原って、ピアノ弾けたんだ」

 一番気になっていたことを呟いた。彼女は、スポーツにステータスを全て振り分けたような人だ。勉強嫌いで、運動以外にはさほど興味もないといった様子でいるし、ピアノを弾けるだなんて聞いたことがない。これまで一度も、彼女の口からピアノの話を聞いたこともなかった。

「あぁ、不思議だよな」
「不思議って、自分のことなのに?」
「だってさ、アタシ、今初めてピアノ弾いたんだよ?」

 複雑そうな顔で笑う北原の言葉に、俺は目を丸くする。
 初めて弾いた?
 そんなわけないだろう。
 だって、あんなに完璧な旋律だったんだ。一度に限らず、幼少期からピアノを弾いているレベルだろう。
 初めて弾いてあの実力ならば、彼女はピアニストの才能がある。

「なんとなく音楽に触れたくなってさ、この部屋に来たんだ。んで、楽譜見たらピアノ弾きたくなって……そしたら、手が勝手にピアノ弾いてた」
「無意識ってこと?」
「うん。なんか頭の中にメロディが浮かんできてさ、指が勝手に動くんだよ。可笑しいよな、アタシは楽譜すら読めないのに」

 北原が額に手を当ててどこか自分を追い詰めているみたいな顔をする。苦しそうな顔をしているように見える彼女に、何て声をかけていいか分からなかった。

「これが大切な記憶ってヤツに関係してるのかな?」

 北原が閃いたみたいに言った。

「その可能性はあると思うよ。あの紙に書かれていた大切な記憶って、取り戻せって書いてあったからそもそも俺たちが失ったものだろうしね。覚えてないけど心のどこかで違和感を覚えたり、気になることがあったりしたら、それは大切な記憶っていうのに繋がっているかもしれない」
「だよなぁ。んー……ピアノかぁ」

 北原は腕を組んで目を閉じた。唸りながら何やら思考している様子だが、これといって何かを思いつくことはないらしい。

「アタシってピアノ弾いてそうに見える?」
「……正直見えない」
「分かる」
「分かるんだ」
「だってピアノとアタシって全然接点なさそうでしょ。どう見てもピアノ弾ける顔じゃないじゃん」
「楽器弾けなさそうだもんね」
「……ちょっとムカつくけど否定できないや」

 一瞬北原のこめかみに青筋が浮かんだように見えたのはきっと気のせいだ。北原は自分で納得したような顔をすると、足をブラブラさせて先程弾いていたメロディを鼻歌で奏で始めた。
 俺には音楽の知識がないから分からないけれど、たぶんさっきのメロディと全く同じだ。音もズレていない。
 やっぱり、北原は音楽の才能がある。
 それはきっと、大切な記憶に直結しているに違いない。
 だが、記憶を失うと技術まで忘れてしまうものなのだろうか。
 仮に彼女が以前かなりのピアノの腕前を持っていたとして、彼女からピアノに関する記憶を奪い取ったらどうなるのだろう。今みたいに、楽譜が読めなくても手が勝手にピアノを弾く現象に陥るのだろうか。これまで弾けなかったのに、こんな突然弾けるようになるだなんて。
 それもこれも、世界に対して疑問を覚えたからだろうか?

「ねぇ、北原。もう一曲何か弾いてくれない?」
 北原の奏でる音が気に入った俺は、ダメ元でそうお願いしてみた。北原は不思議そうな顔をすると、「うーん……」
と微妙な顔で悩んだ素振りを見せる。
 しかし、その末に「いいよ」と承諾してくれた。

「何がいい?」
「あ、えっと……ごめん、曲とか全然わかんなくて……」
「あははっ、アタシもそうだから気にすんなって。適当に弾いてみてもいいか?」
「もちろん。無茶ぶりでごめんね」
「いいって。何か思い出せそうだし、こっちとしても嬉しいよ」

 北原は鍵盤蓋を開けて、白鍵を一つ叩く。ポロン、と優しい一音が鳴る。北原は目を閉じて、脳内で曲の検索をかけているように見える。長い睫毛の奥から瞳がゆっくりと覗くと、彼女は一度深呼吸をしてピアノに指を滑らせ始めた。

 穏やかな午後のような始まりだった。滑らかな出だし、そっと隣に寄り添うな旋律。どこか切なさを帯びたそのメロディは、何かにとりつかれてしまったかのようにピアノを奏でる北原が紡いでいく。
 俺はただただそのメロディに聞き惚れていた。心の奥にスッと入り込んでくるそれは、遠い昔を懐古するかのような淡い温もりを与えていく。
 俺が見ているのは、ピアノを弾いている北原なのに、段々と視界が別の映像に切り替わっていく。そんなはずはないのに、俺には何か他のものが見えていた。
 どこか色のない部屋で、二人の男女が話している。顔も見えなければ、声も聞こえない。シルエットだけでかろうじて性別が判断できるくらいだ。優しい音楽も相まってか、何故だかその映像に胸がギュっと締め付けられた。思わず胸に手を置き、ブレザーを握りしめる。皺が寄っていくのも気にせず、俺はこの不思議な感覚にしがみ付いていた。
 俺の記憶にはない映像。もしかしたら、これが俺の失った記憶――つまりは、大切な記憶なのだろうか……?
 その正体を知る間もなく、演奏が終盤へと近づいていく。ゆったりと、蝋燭の火がそっと消えていくみたいに、その音は空気に溶けていく。
 最後の一音が余韻を心に残し、僅かな間の夢を連れ去った。
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