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イアン 23
「フェリウス。そのままそいつ押さえといて。強い子でもこれはきついから」
そこに冷静な静かな声。緩慢な動きではない足音。
首から手を放し、バサッと音がする方を見るとスーランがシュナに掛布をかけていた。
近くでどさりと何かが落ちる音が聞こえる。
イアンの視線が掛布に覆われた唯一の存在を認識する。
「…イアン。ゆっくりナイフを下ろせ」
「…」
イアンはシュナから視線を外せない。
筋肉が固まったように動かないナイフを持つ腕にゆっくりと親友の手がかけられ、ゆっくりと下ろされてそのままがちりと腕を捕まえられる。
「っ…すー、ら、…?」
愛しいシュナのか細い声が激情と狂乱でおかしくなっていたイアンの心にすっと沁みてくる。
スーランが敢えて淡々とした口調でもう大丈夫だと治療魔術をかけることを説明していく。
イアンは媚薬漬けにされているだろうシュナが、カタコトで何とか話す言葉を一語一句も聞き逃したくないのに、ぎりぎりと骨が合わさるような不快な音が耳の近くから聞こえてきて邪魔をする。
「…っ、ふふ…動…、た、くて、…でき、な」
「…だね。その辺から鍵探して」
スーランの言葉に「探す」と端的に聞こえたのは恐らくデュークだ。イアンは身体の機能が停止したように動かずシュナだけを見ていた。
そして治療中にシュナがスーランに溢した愚痴という名の過去の話。
小さい頃から耳を塞ぎたいくらいの母の喘ぎ声を聞く日々。
それが原因で自分は絶対に啼かないのだと言うシュナ。
十三歳から二年間という長い間、媚薬を使われてアーロから陵辱を受けていた。
それによる母親からの妬みの罵倒。
二年も必死に戦い続けたからこそ悪夢として定着してしまったのだろう。
シュナにとっては悍ましい『リア』の名前を敢えて使用し続けた。
元はシュリアナという美しい名前だったのに『リア』を穢した元凶。
正面から覆われ固定されることと鬱血痕は外道から受ける恐怖の象徴となった。
「そんな薄汚れた私にも…奇特な人が居て、ね」
シュナの声が少し震える。
イアンに出逢えたことでシュナは変われたのだと言う。イアンは身勝手に自分が幸せになれればと言葉を重ねてきたが、それがシュナにとってはとても救われたのだと。
もっとちゃんとシュナの声が聞きたいのに、ぎりぎりという耳障りの音が激しくなる。耳元で「顎の骨が砕ける。彼女が悲しむ」と親友の呟きが聞こえ、イアンはようやく自分が歯を食いしばっていたことに気づく。
するとここでシュナの声が途切れ途切れになり始め、嗚咽を耐えるように振り絞る声が聞こえてきた。
「っ…でっ、でも、ほら、ね?私は、また、糞、野郎に捕まって、っ、…っ―――だから、もう、それも、ぜ、んぶ、や、約、束…消えちゃ、うかも、しれない」
約束。
イアンと番縁を繋ぎ。
イアンと共に一緒に眠り。
イアンと共にずっと生き。
イアンと小さな家に二人で住むのだ。
何故シュナは約束が消えるなんて言うのだろう。
「それでも、あいつが、ずっと、毒のある、言葉を流し込んで、きても、か、彼、との―――イア、ン、との約束が、何とか私が、お、おかしく、なる前に、留めて、くれた。何とか、踏ん張れた。お、おかしく、なら、な、…ように、なんとか、踏ん張って…ま、まえ、前を、向い、てっ…っ」
シュナは絶望に晒されても、イアンとの約束を必死に掲げて害悪な汚物の言葉と蹂躙から踏ん張って立ち向かい続けた。
おかしい。
シュナの声はちゃんと聞こえるのにシュナの姿が見えなくなってくる。
「―――イ…アンが、知っ…たら、汚い…って、去っちゃう、かな…?…暫く、…ちょっと、だけ、離れて、また、穢れ、が少、し、少しだけでも、薄れて、また頑張っ、…て、さ?持ち、堪えたら、もしかしたら、少しは望み、あるかな?一年…、…す、数ヶ月、な、ら、待って、くれな、い、かな?も、もう、一、回、だけ、が、がん、頑張っ、…て、みて、も、だめ、かな…?」
何故イアンがシュナから去らなければならないのだ。
イアンにはそんな選択肢は未来永劫無い。
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