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第1話 婚約破棄の宴
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王都最大の舞踏会場「アーデルホール」は、今宵も華やかな光と音に満ちていた。貴族たちが練り上げた笑顔を貼りつけ、煌めくシャンデリアの下で優雅にステップを踏む。甘い香水とワインの匂いが混じり合い、祝福のざわめきが流れていた。
その中心に立つのは、第一王子ユリウス=フォン=ベルネシア。そして彼の傍らには、長らく婚約者として寄り添ってきたクラリス=リヴィエールがいた。
流れるような金髪をまとめ上げ、薄桃色のドレスに身を包んだ令嬢。多くの視線が彼女の美しさに見惚れていた――そう見えたのは、ほんの数分前までだった。
「クラリス=リヴィエール! お前との婚約を、ここに破棄する!」
突如響き渡った王子の声に、音楽が止んだ。ざわめきが一拍遅れて広がり、空気が一瞬にして凍りつく。
クラリスは瞬きを一つ。心臓が小さく跳ねた。しかし表情は崩さず、感情を悟られぬよう深く一礼した。
「……理由を、お聞かせ願えますか、殿下」
ユリウスは冷たい眼差しで彼女を見下ろす。その視線には愛情の欠片もなく、ただ優越と軽蔑の色が滲んでいた。
「お前は嫉妬に狂い、新しく私の心を射止めたリリアーヌ嬢に数々の嫌がらせを行った。王子妃としてそのような行いは許されない!」
どよめきが起こる。貴族たちの視線が一斉にクラリスに突き刺さった。
「まあ、やっぱりね」「あの冷たい微笑の裏で、何を考えているか分からなかったもの」
ささやきが波のように広がる。中にはくすくすと笑う者もいた。
だが、クラリスの胸の内では違う感情が渦巻いていた。
――リリアーヌ。そう、王立魔術院の奨学生として最近社交界に現れた平民上がりの少女。
彼女がユリウスに近づいて以来、徐々にクラリスの立場は揺らぎ始めていた。それでも、彼女を責めたことなど一度もない。証拠もない噂だけが、まるで炎のように真実を焼き尽くしていたのだ。
「殿下、私はそんなことを――」
否定の言葉を紡ごうとした瞬間、リリアーヌが涙ぐみながらユリウスの腕にすがった。
「もういいのです、殿下……クラリス様は、本当はお優しい方です。でもきっと、私が殿下とご一緒しているのが……お辛かったのですわ」
儚げな声で呟くその姿に、彼女を知らぬ貴族たちは一斉に心を動かす。
「なんて慈悲深い方……」
「庶民出とは思えぬ品格だ」
ユリウスは満足げにうなずいた。
「ほら見ろ。クラリス、お前の陰湿な行いに比べて、彼女の心の清らかさが分かるだろう? 私はこれから、リリアーヌを新たな婚約者として迎える」
会場が拍手に包まれる。まるで芝居のように出来すぎた光景だった。
クラリスはその場に立ち尽くし、静かに微笑んだ。だがその微笑みは、薄氷のように冷たく美しい。
――ああ、ここまで堕ちたのですか。
彼女は胸の奥で呟いた。
「畏まりました、殿下。貴方のご意志であるならば、異存はございません」
「ほう……潔いではないか。だが、これでお前の家の後ろ盾を失ったリヴィエール伯爵家はどうなるのだろうな?」
「それは家族の問題、私がどうこう申すことではございません」
淡々と答えるその姿は、むしろ周囲の人々の良心を刺激した。しかし、その声は嘲笑に掻き消される。
王子の近衛たちが次々と話題を向け、会場はすぐに「新婚約者お披露目の宴」と化した。クラリスだけが、ひとり騒めきの輪から遠ざかるように会場を後にした。
広間を出ると、途端に音が遠のいた。冷たい夜風が頬を撫でる。
庭園の噴水が月明かりを受けてきらめき、その傍らでクラリスはようやく呼吸を整えた。
――泣く暇などない。涙は、相手が反省に値するときにだけ流すもの。
「随分と静かだな。王子の寵愛を失った令嬢にしては」
低く、澄んだ声が背後から響いた。
振り向けば、夜闇に溶けるような黒髪をもつ男が佇んでいた。銀糸の軍服をまとい、青い瞳が月光を受けて輝く。
「……オルフェン殿下、いえ、近衛騎士団副団長。宴には出席されていたのですね」
彼は軽く眉を上げ、肩をすくめた。
「王子の護衛としてな。一部始終、見させてもらった」
「見苦しいものをお見せしました」
「そう思うか? あれだけの侮辱を受けてなお、顔色ひとつ変えなかった。見苦しいというなら、それは王子のほうだ」
クラリスの目がわずかに見開かれた。
「……お戯れを」
「本気だ。俺は王家に仕える身だが、人間として恥ずかしく思う。君は『悪役令嬢』ではなく、『悪を断罪される役を押し付けられた令嬢』だ」
胸の奥に何かが灯る。まるで氷の下に小さな火が生まれたような感覚。
クラリスはゆっくりと息をついた。
「そう言ってくださるのは、貴方だけです。けれど……ありがとうございます」
「礼は要らない。だが、これからどうする?」
「しばらくは実家に戻り、身の振り方を考えます」
「今の状態でか? リヴィエール伯爵はすでに王家との縁を失い、派閥は揺らいでいる」
クラリスは一瞬だけ目を伏せた。
(やはり、そこまで見抜かれている……)
「それでも、家を見捨てるわけにはまいりません」
「頑固だな」
「昔からの取り柄です」
オルフェンは小さく笑った。それは噂の“氷の騎士”と呼ばれる男に似つかわしくない、柔らかな微笑だった。
「なら、せめて今夜はここに留まれ。城の客間を使えばいい。外に出れば、好奇の目に晒されるだろう」
「お気遣いは嬉しく思いますが……」
「俺の命令と受け取れ。護衛として君を安全に送り出す責任がある」
冷静な声音だが、その瞳は薄く揺れていた。
クラリスはわずかに唇を噛み、やがて頷いた。
「……承知いたしました。ご迷惑をおかけします」
「迷惑とは思わない」
短いやり取りのあと、二人は並んで歩き出した。静かな廊下を抜け、遠くからまだ音楽と笑い声が響いてくる。
――あの場にいる人々は、誰一人として私を信じなかった。でも、この人だけは。
胸の奥で、微かな希望が音を立てた。
(変わらなければならない。今日という日を、私の人生の転換点にする)
そう決意した瞬間、クラリスは初めて、夜風の冷たさが心地よいと感じた。
(続く)
その中心に立つのは、第一王子ユリウス=フォン=ベルネシア。そして彼の傍らには、長らく婚約者として寄り添ってきたクラリス=リヴィエールがいた。
流れるような金髪をまとめ上げ、薄桃色のドレスに身を包んだ令嬢。多くの視線が彼女の美しさに見惚れていた――そう見えたのは、ほんの数分前までだった。
「クラリス=リヴィエール! お前との婚約を、ここに破棄する!」
突如響き渡った王子の声に、音楽が止んだ。ざわめきが一拍遅れて広がり、空気が一瞬にして凍りつく。
クラリスは瞬きを一つ。心臓が小さく跳ねた。しかし表情は崩さず、感情を悟られぬよう深く一礼した。
「……理由を、お聞かせ願えますか、殿下」
ユリウスは冷たい眼差しで彼女を見下ろす。その視線には愛情の欠片もなく、ただ優越と軽蔑の色が滲んでいた。
「お前は嫉妬に狂い、新しく私の心を射止めたリリアーヌ嬢に数々の嫌がらせを行った。王子妃としてそのような行いは許されない!」
どよめきが起こる。貴族たちの視線が一斉にクラリスに突き刺さった。
「まあ、やっぱりね」「あの冷たい微笑の裏で、何を考えているか分からなかったもの」
ささやきが波のように広がる。中にはくすくすと笑う者もいた。
だが、クラリスの胸の内では違う感情が渦巻いていた。
――リリアーヌ。そう、王立魔術院の奨学生として最近社交界に現れた平民上がりの少女。
彼女がユリウスに近づいて以来、徐々にクラリスの立場は揺らぎ始めていた。それでも、彼女を責めたことなど一度もない。証拠もない噂だけが、まるで炎のように真実を焼き尽くしていたのだ。
「殿下、私はそんなことを――」
否定の言葉を紡ごうとした瞬間、リリアーヌが涙ぐみながらユリウスの腕にすがった。
「もういいのです、殿下……クラリス様は、本当はお優しい方です。でもきっと、私が殿下とご一緒しているのが……お辛かったのですわ」
儚げな声で呟くその姿に、彼女を知らぬ貴族たちは一斉に心を動かす。
「なんて慈悲深い方……」
「庶民出とは思えぬ品格だ」
ユリウスは満足げにうなずいた。
「ほら見ろ。クラリス、お前の陰湿な行いに比べて、彼女の心の清らかさが分かるだろう? 私はこれから、リリアーヌを新たな婚約者として迎える」
会場が拍手に包まれる。まるで芝居のように出来すぎた光景だった。
クラリスはその場に立ち尽くし、静かに微笑んだ。だがその微笑みは、薄氷のように冷たく美しい。
――ああ、ここまで堕ちたのですか。
彼女は胸の奥で呟いた。
「畏まりました、殿下。貴方のご意志であるならば、異存はございません」
「ほう……潔いではないか。だが、これでお前の家の後ろ盾を失ったリヴィエール伯爵家はどうなるのだろうな?」
「それは家族の問題、私がどうこう申すことではございません」
淡々と答えるその姿は、むしろ周囲の人々の良心を刺激した。しかし、その声は嘲笑に掻き消される。
王子の近衛たちが次々と話題を向け、会場はすぐに「新婚約者お披露目の宴」と化した。クラリスだけが、ひとり騒めきの輪から遠ざかるように会場を後にした。
広間を出ると、途端に音が遠のいた。冷たい夜風が頬を撫でる。
庭園の噴水が月明かりを受けてきらめき、その傍らでクラリスはようやく呼吸を整えた。
――泣く暇などない。涙は、相手が反省に値するときにだけ流すもの。
「随分と静かだな。王子の寵愛を失った令嬢にしては」
低く、澄んだ声が背後から響いた。
振り向けば、夜闇に溶けるような黒髪をもつ男が佇んでいた。銀糸の軍服をまとい、青い瞳が月光を受けて輝く。
「……オルフェン殿下、いえ、近衛騎士団副団長。宴には出席されていたのですね」
彼は軽く眉を上げ、肩をすくめた。
「王子の護衛としてな。一部始終、見させてもらった」
「見苦しいものをお見せしました」
「そう思うか? あれだけの侮辱を受けてなお、顔色ひとつ変えなかった。見苦しいというなら、それは王子のほうだ」
クラリスの目がわずかに見開かれた。
「……お戯れを」
「本気だ。俺は王家に仕える身だが、人間として恥ずかしく思う。君は『悪役令嬢』ではなく、『悪を断罪される役を押し付けられた令嬢』だ」
胸の奥に何かが灯る。まるで氷の下に小さな火が生まれたような感覚。
クラリスはゆっくりと息をついた。
「そう言ってくださるのは、貴方だけです。けれど……ありがとうございます」
「礼は要らない。だが、これからどうする?」
「しばらくは実家に戻り、身の振り方を考えます」
「今の状態でか? リヴィエール伯爵はすでに王家との縁を失い、派閥は揺らいでいる」
クラリスは一瞬だけ目を伏せた。
(やはり、そこまで見抜かれている……)
「それでも、家を見捨てるわけにはまいりません」
「頑固だな」
「昔からの取り柄です」
オルフェンは小さく笑った。それは噂の“氷の騎士”と呼ばれる男に似つかわしくない、柔らかな微笑だった。
「なら、せめて今夜はここに留まれ。城の客間を使えばいい。外に出れば、好奇の目に晒されるだろう」
「お気遣いは嬉しく思いますが……」
「俺の命令と受け取れ。護衛として君を安全に送り出す責任がある」
冷静な声音だが、その瞳は薄く揺れていた。
クラリスはわずかに唇を噛み、やがて頷いた。
「……承知いたしました。ご迷惑をおかけします」
「迷惑とは思わない」
短いやり取りのあと、二人は並んで歩き出した。静かな廊下を抜け、遠くからまだ音楽と笑い声が響いてくる。
――あの場にいる人々は、誰一人として私を信じなかった。でも、この人だけは。
胸の奥で、微かな希望が音を立てた。
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