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第2話 嘲笑う令嬢たち
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翌朝、クラリスは王城の客室で目を覚ました。厚手のカーテン越しに朝日が射し込み、微かな埃が光の粒になって舞っている。昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じるたびに、王子の声と拍手の音が耳に蘇ってくる。けれど、涙はもう出なかった。泣くより、考えなければならないことが山ほどあった。
静かに身体を起こし、鏡台の前に座る。乱れた金髪を整える手つきはいつも通り丁寧だった。鏡に映る自分の瞳を見つめたとき、ふと昨夜のオルフェンの言葉が胸をよぎる。
──君は『悪役令嬢』ではなく、『悪を断罪される役を押し付けられた令嬢』だ。
その一言が、凍りついていた心にひびを入れた。信じられないほど静かに、しかし確かに。
ドアの外からノックの音がした。
「リヴィエール様、朝食をお持ちしました」
控えめな声が響く。
「ありがとう。そこに置いてください」
侍女が運んできた盆には、軽く焼かれたパンと紅茶、フルーツが並んでいる。王城の食事とは思えないほど質素だったが、昨夜の騒ぎを考えれば、むしろ待遇が良い方かもしれなかった。
紅茶を一口含む。ほんの少しの渋みが、心を落ち着かせた。
(落ち着け。これからどう動くべきか……)
考えていると、再び扉が叩かれた。
「クラリス様、オルフェン副団長がお見えです」
「どうぞ」
入ってきたオルフェンは、昨日と同じように整然とした軍装姿だった。だがその眼差しは夜とは違い、少しだけ柔らかい。
「食事中にすまない。体調はどうだ」
「問題ありません。騎士団の方にご迷惑をかけていないでしょうか」
「君の行動で迷惑などあるものか。王子の不始末で彼が騒がしいだけだ」
「……不始末、ですか」
「公の場で婚約を破棄するなど前代未聞だ。君に落ち度があればまだしも、証拠のない噂では王族の品位を損なうだけだ。陛下も不快に思っておられる」
クラリスは小さく息を呑んだ。国王がこの件を知っているということは、すでに王族内で問題視されているということだ。
(ユリウス殿下……これで、少しは目を覚ましてくださればいいのですが)
「君は今日のうちに王都を離れるのか?」
「はい。父に事情を話し、しばらく伯爵領に戻るつもりでおります」
「そうか。だが途中で誰が何を言おうと、無視することだ。きっと社交界の令嬢たちは餌を見つけた猛禽のように騒ぐだろうからな」
皮肉を含んだ言葉に、クラリスは苦く笑った。
「彼女たちの噂話の種になったのは、これが初めてではありませんから。慣れております」
「それでも、慣れる必要のない痛みだ」
静かな声が、思いがけず温かく胸に響いた。
昼過ぎ、クラリスは馬車で城門を出た。荷物は最小限、身につけるのは昨日と同じドレスだけ。
その姿を見た門番が一瞬困惑したが、オルフェンが護衛として同行することを告げると誰も何も言わなかった。
「さて、城を出れば自由だ」
「ええ、ただし“社交界の目”という鎖から逃れられればの話ですが」
「それなら、少しくらい見せつけてやろう。王都の大通りをまっすぐ行く」
王城を離れる馬車の窓から、街の喧噪が見える。人々は商売に忙しく、誰も二人に注意を払わない。けれど、すれ違う一部の令嬢たちの目には明らかな敵意と好奇の光が宿っていた。
(始まりましたね……)クラリスは心の中で冷ややかに微笑んだ。
馬車が止まったのは王都中央区、由緒あるサロン「ベル・ルミエール」。貴族令嬢たちが午後の茶会で噂を交換し合う、いわば情報の巣窟だった。
「あの……オルフェン様?」
「ここで降りる。護衛の名目で俺も中に入る。君が侮辱されるなら、俺が止める」
「そんな、わざわざ火の中に飛び込むようなものでは」
「怖い顔で黙らせてやるさ」
いたずらめいた瞳に、クラリスはわずかに言葉を失った。氷の騎士と呼ばれる男が、こんな表情をするとは。
店内に足を踏み入れると、空気が変わった。
レースのカーテン、香水の香り、そして甘ったるい笑声。クラリスが姿を現した瞬間、そこにいた令嬢たちの会話が止まり、ざわりと揺れた。
「……あら、クラリス様ではありませんの?」
白い扇子を口元にあて、笑みを浮かべるのは侯爵家の令嬢セリーヌ。王子妃候補としてクラリスと何度も比較された女だ。
「まあまあ、昨日の夜のこと、拝見しておりましたわ。とても勇敢なご様子で」
「ご覧いただけたのなら光栄ですわ」
「ふふ、まさか婚約破棄があんな形で行われるなんて。王子殿下も随分と情熱的で……それに引き換え、リヴィエール様はずいぶんと淡々としていらしたのね。お心は痛まなかったのかしら?」
クラリスは穏やかに微笑む。
「痛む心があればこそ、静かにお別れを告げましたの。取り乱すのは、愛が残る者のすることですもの」
その一言に、サロンの中の空気が一瞬緊張した。嘲笑っていた令嬢たちが目を見合わせる。セリーヌの頬がかすかに引きつった。
「まあ……ご立派ですこと。でも、新しい婚約者のリリアーヌ様はとても可愛らしかったそうよ? 平民出身でも殿下のお気に召すのは当然ね」
「ええ。殿下がそうお決めになったのなら、国のために何よりでしょう。私の役目はそこで終わりましたから」
クラリスは紅茶を優雅に口にする。その落ち着きが、むしろ令嬢たちの焦燥を煽った。
誰かが囁く。「あれが一晩で捨てられた令嬢の顔……?」
「嘘よ、負け惜しみに決まってるわ」
オルフェンは壁際に立ちながら彼女たちの視線を一つひとつ睨み返した。冷たい青の眼に射抜かれ、令嬢たちは思わず黙り込む。
「……彼女に対する侮辱は、王家への侮辱でもある。発言にはお気をつけ願いたい」
静かな声に、サロン内が凍りついた。セリーヌは青ざめて扇を握り締めた。
「そ、そんなつもりでは……」
「なら良い」
短く告げると、オルフェンはクラリスの方を向いた。「もういいだろう」
「ええ。お茶もおいしくいただけましたし、十分です」
外に出ると、冬の風が頬を打った。
「全く、驚かされましたよ。まさか貴方があのような場で剣も抜かずに令嬢集団を鎮めるとは」
クラリスが笑うと、オルフェンは肩をすくめた。
「剣よりも、目のほうが効く場面もある」
「確かに。わたくしは少しだけ、すっきりしました」
「君の勝ちだ。あの令嬢たちは二度と軽々しく口にできまい」
馬車に戻りながら、クラリスは窓の向こうに広がる王都を見た。遠くの屋根に白い雀が止まっている。どこかで鐘の音が響いた。
(もう恐れるものはない。失ったのは約束だけ。でも、誇りはまだここにある)
「これからどうする?」とオルフェンが問う。
「父のもとへ戻ります。家を立て直し、いずれ社交界に戻れるように」
「戻ってどうする? また王子の前に立つつもりか?」
クラリスは静かに微笑んだ。
「そのときは、“私を捨てた殿下が何を失ったのか”見せて差し上げるつもりです」
オルフェンの唇がわずかに弧を描く。
「面白い。なら、俺はその見届け人になろう」
「そのような役を引き受けては、退屈いたしますよ」
「退屈は嫌いじゃない。君のように変化をもたらす退屈なら、な」
その言葉に、クラリスは笑みを漏らした。心の底から湧き上がるものを抑えきれず、ふっと息がこぼれる。
(この人となら、きっと何かが変わる)
馬車の車輪が音を立て、王都の石畳を遠ざかっていく。夕陽が街の塔を赤く染めた。クラリスはカーテンを閉じると、そっと目を閉じた。胸の内には不思議な力が満ちていた。絶望から立ち上がる力。誰にも奪えない強さ。
(続く)
静かに身体を起こし、鏡台の前に座る。乱れた金髪を整える手つきはいつも通り丁寧だった。鏡に映る自分の瞳を見つめたとき、ふと昨夜のオルフェンの言葉が胸をよぎる。
──君は『悪役令嬢』ではなく、『悪を断罪される役を押し付けられた令嬢』だ。
その一言が、凍りついていた心にひびを入れた。信じられないほど静かに、しかし確かに。
ドアの外からノックの音がした。
「リヴィエール様、朝食をお持ちしました」
控えめな声が響く。
「ありがとう。そこに置いてください」
侍女が運んできた盆には、軽く焼かれたパンと紅茶、フルーツが並んでいる。王城の食事とは思えないほど質素だったが、昨夜の騒ぎを考えれば、むしろ待遇が良い方かもしれなかった。
紅茶を一口含む。ほんの少しの渋みが、心を落ち着かせた。
(落ち着け。これからどう動くべきか……)
考えていると、再び扉が叩かれた。
「クラリス様、オルフェン副団長がお見えです」
「どうぞ」
入ってきたオルフェンは、昨日と同じように整然とした軍装姿だった。だがその眼差しは夜とは違い、少しだけ柔らかい。
「食事中にすまない。体調はどうだ」
「問題ありません。騎士団の方にご迷惑をかけていないでしょうか」
「君の行動で迷惑などあるものか。王子の不始末で彼が騒がしいだけだ」
「……不始末、ですか」
「公の場で婚約を破棄するなど前代未聞だ。君に落ち度があればまだしも、証拠のない噂では王族の品位を損なうだけだ。陛下も不快に思っておられる」
クラリスは小さく息を呑んだ。国王がこの件を知っているということは、すでに王族内で問題視されているということだ。
(ユリウス殿下……これで、少しは目を覚ましてくださればいいのですが)
「君は今日のうちに王都を離れるのか?」
「はい。父に事情を話し、しばらく伯爵領に戻るつもりでおります」
「そうか。だが途中で誰が何を言おうと、無視することだ。きっと社交界の令嬢たちは餌を見つけた猛禽のように騒ぐだろうからな」
皮肉を含んだ言葉に、クラリスは苦く笑った。
「彼女たちの噂話の種になったのは、これが初めてではありませんから。慣れております」
「それでも、慣れる必要のない痛みだ」
静かな声が、思いがけず温かく胸に響いた。
昼過ぎ、クラリスは馬車で城門を出た。荷物は最小限、身につけるのは昨日と同じドレスだけ。
その姿を見た門番が一瞬困惑したが、オルフェンが護衛として同行することを告げると誰も何も言わなかった。
「さて、城を出れば自由だ」
「ええ、ただし“社交界の目”という鎖から逃れられればの話ですが」
「それなら、少しくらい見せつけてやろう。王都の大通りをまっすぐ行く」
王城を離れる馬車の窓から、街の喧噪が見える。人々は商売に忙しく、誰も二人に注意を払わない。けれど、すれ違う一部の令嬢たちの目には明らかな敵意と好奇の光が宿っていた。
(始まりましたね……)クラリスは心の中で冷ややかに微笑んだ。
馬車が止まったのは王都中央区、由緒あるサロン「ベル・ルミエール」。貴族令嬢たちが午後の茶会で噂を交換し合う、いわば情報の巣窟だった。
「あの……オルフェン様?」
「ここで降りる。護衛の名目で俺も中に入る。君が侮辱されるなら、俺が止める」
「そんな、わざわざ火の中に飛び込むようなものでは」
「怖い顔で黙らせてやるさ」
いたずらめいた瞳に、クラリスはわずかに言葉を失った。氷の騎士と呼ばれる男が、こんな表情をするとは。
店内に足を踏み入れると、空気が変わった。
レースのカーテン、香水の香り、そして甘ったるい笑声。クラリスが姿を現した瞬間、そこにいた令嬢たちの会話が止まり、ざわりと揺れた。
「……あら、クラリス様ではありませんの?」
白い扇子を口元にあて、笑みを浮かべるのは侯爵家の令嬢セリーヌ。王子妃候補としてクラリスと何度も比較された女だ。
「まあまあ、昨日の夜のこと、拝見しておりましたわ。とても勇敢なご様子で」
「ご覧いただけたのなら光栄ですわ」
「ふふ、まさか婚約破棄があんな形で行われるなんて。王子殿下も随分と情熱的で……それに引き換え、リヴィエール様はずいぶんと淡々としていらしたのね。お心は痛まなかったのかしら?」
クラリスは穏やかに微笑む。
「痛む心があればこそ、静かにお別れを告げましたの。取り乱すのは、愛が残る者のすることですもの」
その一言に、サロンの中の空気が一瞬緊張した。嘲笑っていた令嬢たちが目を見合わせる。セリーヌの頬がかすかに引きつった。
「まあ……ご立派ですこと。でも、新しい婚約者のリリアーヌ様はとても可愛らしかったそうよ? 平民出身でも殿下のお気に召すのは当然ね」
「ええ。殿下がそうお決めになったのなら、国のために何よりでしょう。私の役目はそこで終わりましたから」
クラリスは紅茶を優雅に口にする。その落ち着きが、むしろ令嬢たちの焦燥を煽った。
誰かが囁く。「あれが一晩で捨てられた令嬢の顔……?」
「嘘よ、負け惜しみに決まってるわ」
オルフェンは壁際に立ちながら彼女たちの視線を一つひとつ睨み返した。冷たい青の眼に射抜かれ、令嬢たちは思わず黙り込む。
「……彼女に対する侮辱は、王家への侮辱でもある。発言にはお気をつけ願いたい」
静かな声に、サロン内が凍りついた。セリーヌは青ざめて扇を握り締めた。
「そ、そんなつもりでは……」
「なら良い」
短く告げると、オルフェンはクラリスの方を向いた。「もういいだろう」
「ええ。お茶もおいしくいただけましたし、十分です」
外に出ると、冬の風が頬を打った。
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クラリスが笑うと、オルフェンは肩をすくめた。
「剣よりも、目のほうが効く場面もある」
「確かに。わたくしは少しだけ、すっきりしました」
「君の勝ちだ。あの令嬢たちは二度と軽々しく口にできまい」
馬車に戻りながら、クラリスは窓の向こうに広がる王都を見た。遠くの屋根に白い雀が止まっている。どこかで鐘の音が響いた。
(もう恐れるものはない。失ったのは約束だけ。でも、誇りはまだここにある)
「これからどうする?」とオルフェンが問う。
「父のもとへ戻ります。家を立て直し、いずれ社交界に戻れるように」
「戻ってどうする? また王子の前に立つつもりか?」
クラリスは静かに微笑んだ。
「そのときは、“私を捨てた殿下が何を失ったのか”見せて差し上げるつもりです」
オルフェンの唇がわずかに弧を描く。
「面白い。なら、俺はその見届け人になろう」
「そのような役を引き受けては、退屈いたしますよ」
「退屈は嫌いじゃない。君のように変化をもたらす退屈なら、な」
その言葉に、クラリスは笑みを漏らした。心の底から湧き上がるものを抑えきれず、ふっと息がこぼれる。
(この人となら、きっと何かが変わる)
馬車の車輪が音を立て、王都の石畳を遠ざかっていく。夕陽が街の塔を赤く染めた。クラリスはカーテンを閉じると、そっと目を閉じた。胸の内には不思議な力が満ちていた。絶望から立ち上がる力。誰にも奪えない強さ。
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