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第2話 冷たい笑顔の人事通達
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翌朝。
出社のエレベーターに乗り込んだ瞬間、ざわめきが耳に届いた。
ビルの中はまだ始業前の静けさが残っているのに、妙な緊張が漂っている。
社員たちの視線が、一方向に集まっていた。
その先にあるのは、掲示板。
新しい人事通達の貼り出しが行われていた。
「また異動?この前統合したばかりじゃん」
「社長の直轄プロジェクトだって」
「誰が選ばれたんだろう」
低い声が交錯する。
紗耶はバッグを肩に掛けたまま、その紙を見上げた。
そこには新設部署の人員名が並び――そして、最後の行に見 familiar な名前が載っていた。
“秘書課所属 水城紗耶 新規プロジェクト補佐に任命”
一瞬、呼吸が止まった。
配属されたばかりなのに、もう異動。
しかも「社長直轄プロジェクト」。
昨日、彼が言っていた「逃げるなよ」の意味が、じわりと理解できた。
「おめでとうございます、水城さん」
同じ課の先輩が声をかけてきた。
けれど、その口調には驚きと探りが混ざっている。
「入ってすぐに抜擢されるなんて、さすがですね」
「い、いえ。私も今、初めて知りました」
「そう……そうですよね」
先輩は微笑みながらも、視線の奥にわずかな棘を光らせた。
社長直属。
それは名誉と同時に、注目の的になることを意味していた。
特に、社内で怜司がどれほどのカリスマとして扱われているかを知る人々にとって、その立場は特別だ。
紗耶はデスクに戻り、通達文のコピーをもう一度見つめた。
同じ欄の上には別の名前が並んでいた。
「営業統括部長 佐伯涼真」。
彼とはまだ面識がないが、半年前に中途で入ったばかりの有能な人材だと噂に聞く。
彼と怜司、そして自分。
なぜ、この三人が同じプロジェクトなのか。
昼過ぎ。
内線が鳴った。
ディスプレイには「社長室」の文字。
心臓が痛いほど脈打つ。
受話器を取ると、低い声が短く告げた。
「五分後、来い」
それだけ。
形式ばったやりとりも、感情も、何もない。
電話が切れる音が、やけに冷たく響いた。
社長室の前で一呼吸置き、ノックをした。
「どうぞ」
中から返る声は穏やかだが、どこか鋭い。
ドアを開けると、怜司は窓際で腕を組んでいた。
広いオフィス、磨かれた床、眩しいほどの昼の光。
それでも彼の周囲だけ、冷たい空気が滞っているように感じる。
「昨日の仕事、確認した。問題ない」
「ありがとうございます」
「……だが、それだけでは終わらない」
怜司は机の上から一枚の資料を手に取った。
題名には「新製品ブランド統合企画書」と記されている。
多額の予算が動く重要案件だ。
「このプロジェクトの補佐に君を指名した。表向きは実力評価だが、実際のところは君の『過去』も含めての選考だ」
「過去……?」
「大学時代、俺と共に企画したコンペ、覚えてるな」
「覚えてます。でも、それがこの仕事と何の関係が……」
怜司はわずかに笑みを浮かべた。
冷たく、計算された笑み。
「企業合併によるブランド価値の再構築――まさにあのとき君が語っていた“夢”の続きだろう」
「……だから、私を」
「君の理想が現実でどんな結果になるのか、見せてやる。逃げずに、最後までな」
どこまでも試すような眼差しだった。
まるで彼女を仕事に縛り付け、その中で何かを証明させようとしているかのように。
「わかりました。やらせてください」
気付いたらそう答えていた。
引き下がりたくなかった。
あの日、自分の夢を優先して彼を傷つけたこと。
そのことをまだ許せていなかったのかもしれない。
だからこそ、目の前で挑発されると、抗うことができなかった。
「良い返事だ。午後一で営業統括の佐伯にも同席してもらう。打ち合わせに備えて資料を整理しろ」
短く言い終えると、怜司は再び窓の外を見た。
空は快晴。
ビルの隙間から差し込む光が、彼の横顔を淡く照らす。
どこか遠い場所を見ているようで、紗耶は目を逸らせなかった。
その午後。
会議室に入ると、すでに佐伯涼真が席にいた。
三十代前半、整った顔立ちに控えめな笑み。
怜司の冷たさとは対照的に、柔らかい空気をまとっている。
「初めまして、水城さん。佐伯です。あなたの噂は聞いてます」
「噂……ですか?」
「社長が直々に引き抜いた有能デザイナーだと。すごいですね」
その言葉に思わず戸惑う。
怜司の前で“引き抜き”という言葉を使われたことが妙に気まずい。
彼はそんな二人を見て、くすりと笑った。
「噂は当てにならない。水城は俺がよく知っている。仕事はできるが、感情で動く癖がある」
「そうなんですか?」
佐伯が穏やかに目を向ける。
「なら、お互いバランスは取れそうですね。僕は数字でしか動けませんから」
皮肉とも受け取れる会話に、会議室の空気がぴたりと張りつめた。
怜司が指先でテーブルを叩く。
そのリズムがまるで時計の秒針のように、冷たく響く。
「このプロジェクトには時間も予算もない。失敗すれば全責任はこのメンバーが負う」
「了解しました」
紗耶と佐伯が同時に頷く。
その瞬間、怜司はふと視線を落とし、淡々と告げた。
「それと――プレス発表は三週間後だ。準備期間に余裕はない。遅れれば、即異動だ」
それは、明確な脅しだった。
だが紗耶は目を逸らさなかった。
会議が終わり、廊下に出ると、佐伯が小声で話しかけてきた。
「社長、随分厳しいですね。前からあんな感じですか?」
「……ええ。昔から、ああいう人です」
「ふうん。けど、あなたを選んだ理由が少しわかる気がします」
「え?」
「どんなに冷たくしても、動じない。社長、そこを試してるんじゃないですか」
思いもよらぬ言葉に、瞼の裏が少し熱くなった。
けれど紗耶は笑ってごまかすしかなかった。
「そんな強くないですよ。まだ必死なだけです」
その夜。
帰宅の電車の中、ガラス窓に映る自分の顔を見た。
昼間の会議の光景が何度も頭をよぎる。
怜司の横顔、冷たい言葉、そしてあの時の視線。
あれは、本当に憎しみだけなのだろうか。
それとも――。
スマートフォンの画面が震えた。
メール通知。
差出人は「持田怜司」。
件名は短く、「明日、朝一で来い」。
本文は一行。
“君の提案、見せてもらおう”
紗耶は息を飲んだ。
どういうつもりなのかも分からないのに、心臓は高鳴っていた。
冷たいはずの再会が、次第に熱を帯びていく。
それが罠か、それとも始まりなのか――
まだ、誰にも分からなかった。
出社のエレベーターに乗り込んだ瞬間、ざわめきが耳に届いた。
ビルの中はまだ始業前の静けさが残っているのに、妙な緊張が漂っている。
社員たちの視線が、一方向に集まっていた。
その先にあるのは、掲示板。
新しい人事通達の貼り出しが行われていた。
「また異動?この前統合したばかりじゃん」
「社長の直轄プロジェクトだって」
「誰が選ばれたんだろう」
低い声が交錯する。
紗耶はバッグを肩に掛けたまま、その紙を見上げた。
そこには新設部署の人員名が並び――そして、最後の行に見 familiar な名前が載っていた。
“秘書課所属 水城紗耶 新規プロジェクト補佐に任命”
一瞬、呼吸が止まった。
配属されたばかりなのに、もう異動。
しかも「社長直轄プロジェクト」。
昨日、彼が言っていた「逃げるなよ」の意味が、じわりと理解できた。
「おめでとうございます、水城さん」
同じ課の先輩が声をかけてきた。
けれど、その口調には驚きと探りが混ざっている。
「入ってすぐに抜擢されるなんて、さすがですね」
「い、いえ。私も今、初めて知りました」
「そう……そうですよね」
先輩は微笑みながらも、視線の奥にわずかな棘を光らせた。
社長直属。
それは名誉と同時に、注目の的になることを意味していた。
特に、社内で怜司がどれほどのカリスマとして扱われているかを知る人々にとって、その立場は特別だ。
紗耶はデスクに戻り、通達文のコピーをもう一度見つめた。
同じ欄の上には別の名前が並んでいた。
「営業統括部長 佐伯涼真」。
彼とはまだ面識がないが、半年前に中途で入ったばかりの有能な人材だと噂に聞く。
彼と怜司、そして自分。
なぜ、この三人が同じプロジェクトなのか。
昼過ぎ。
内線が鳴った。
ディスプレイには「社長室」の文字。
心臓が痛いほど脈打つ。
受話器を取ると、低い声が短く告げた。
「五分後、来い」
それだけ。
形式ばったやりとりも、感情も、何もない。
電話が切れる音が、やけに冷たく響いた。
社長室の前で一呼吸置き、ノックをした。
「どうぞ」
中から返る声は穏やかだが、どこか鋭い。
ドアを開けると、怜司は窓際で腕を組んでいた。
広いオフィス、磨かれた床、眩しいほどの昼の光。
それでも彼の周囲だけ、冷たい空気が滞っているように感じる。
「昨日の仕事、確認した。問題ない」
「ありがとうございます」
「……だが、それだけでは終わらない」
怜司は机の上から一枚の資料を手に取った。
題名には「新製品ブランド統合企画書」と記されている。
多額の予算が動く重要案件だ。
「このプロジェクトの補佐に君を指名した。表向きは実力評価だが、実際のところは君の『過去』も含めての選考だ」
「過去……?」
「大学時代、俺と共に企画したコンペ、覚えてるな」
「覚えてます。でも、それがこの仕事と何の関係が……」
怜司はわずかに笑みを浮かべた。
冷たく、計算された笑み。
「企業合併によるブランド価値の再構築――まさにあのとき君が語っていた“夢”の続きだろう」
「……だから、私を」
「君の理想が現実でどんな結果になるのか、見せてやる。逃げずに、最後までな」
どこまでも試すような眼差しだった。
まるで彼女を仕事に縛り付け、その中で何かを証明させようとしているかのように。
「わかりました。やらせてください」
気付いたらそう答えていた。
引き下がりたくなかった。
あの日、自分の夢を優先して彼を傷つけたこと。
そのことをまだ許せていなかったのかもしれない。
だからこそ、目の前で挑発されると、抗うことができなかった。
「良い返事だ。午後一で営業統括の佐伯にも同席してもらう。打ち合わせに備えて資料を整理しろ」
短く言い終えると、怜司は再び窓の外を見た。
空は快晴。
ビルの隙間から差し込む光が、彼の横顔を淡く照らす。
どこか遠い場所を見ているようで、紗耶は目を逸らせなかった。
その午後。
会議室に入ると、すでに佐伯涼真が席にいた。
三十代前半、整った顔立ちに控えめな笑み。
怜司の冷たさとは対照的に、柔らかい空気をまとっている。
「初めまして、水城さん。佐伯です。あなたの噂は聞いてます」
「噂……ですか?」
「社長が直々に引き抜いた有能デザイナーだと。すごいですね」
その言葉に思わず戸惑う。
怜司の前で“引き抜き”という言葉を使われたことが妙に気まずい。
彼はそんな二人を見て、くすりと笑った。
「噂は当てにならない。水城は俺がよく知っている。仕事はできるが、感情で動く癖がある」
「そうなんですか?」
佐伯が穏やかに目を向ける。
「なら、お互いバランスは取れそうですね。僕は数字でしか動けませんから」
皮肉とも受け取れる会話に、会議室の空気がぴたりと張りつめた。
怜司が指先でテーブルを叩く。
そのリズムがまるで時計の秒針のように、冷たく響く。
「このプロジェクトには時間も予算もない。失敗すれば全責任はこのメンバーが負う」
「了解しました」
紗耶と佐伯が同時に頷く。
その瞬間、怜司はふと視線を落とし、淡々と告げた。
「それと――プレス発表は三週間後だ。準備期間に余裕はない。遅れれば、即異動だ」
それは、明確な脅しだった。
だが紗耶は目を逸らさなかった。
会議が終わり、廊下に出ると、佐伯が小声で話しかけてきた。
「社長、随分厳しいですね。前からあんな感じですか?」
「……ええ。昔から、ああいう人です」
「ふうん。けど、あなたを選んだ理由が少しわかる気がします」
「え?」
「どんなに冷たくしても、動じない。社長、そこを試してるんじゃないですか」
思いもよらぬ言葉に、瞼の裏が少し熱くなった。
けれど紗耶は笑ってごまかすしかなかった。
「そんな強くないですよ。まだ必死なだけです」
その夜。
帰宅の電車の中、ガラス窓に映る自分の顔を見た。
昼間の会議の光景が何度も頭をよぎる。
怜司の横顔、冷たい言葉、そしてあの時の視線。
あれは、本当に憎しみだけなのだろうか。
それとも――。
スマートフォンの画面が震えた。
メール通知。
差出人は「持田怜司」。
件名は短く、「明日、朝一で来い」。
本文は一行。
“君の提案、見せてもらおう”
紗耶は息を飲んだ。
どういうつもりなのかも分からないのに、心臓は高鳴っていた。
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