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第9話 甘い罠とイミテーションのキス
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水曜日の夕方、オフィスの空気は一層張り詰めていた。
外では雨が降り出し、窓に散らばる水滴が街の灯をぼやけさせる。
紗耶は一日中、内部調査の資料と向き合っていた。怜司が命じたのは、「情報流出者の特定」。
通信記録、プロジェクトの共有履歴、メールログ。どのデータを見ても決定的な証拠はない。
だが、不自然な動きのあるアカウントが一件見つかった。
アクセス履歴には、営業統括部――佐伯のチームのサーバー名があった。
「まさか……」
隣の席にいた事務補佐の女性が覗き込む。
「水城さん、大丈夫?顔色悪いよ」
「ううん、平気。ただ少し疲れただけ」
モニターを閉じ、軽く笑ってごまかした。
けれど心がざわつく。佐伯なら、怜司の信頼も厚い。あの穏やかさの裏にそんなことをする理由が思い当たらない。
夜、オフィスの照明が少なくなり始めたころ、怜司からメッセージが届いた。
「今夜21時、ホテル・ノヴェルラウンジに来い。スーツで。外部には知られるな」
指先がかすかに震えた。まるで何かに巻き込まれる予感のようなものが、静かに胸の奥で鳴っていた。
指定された時間。
ホテルのラウンジに入ると、怜司はすでに奥の席にいた。
ライトの柔らかな光の中で、彼はいつもより深い色のスーツを着こなし、グラスの氷をゆっくりと回していた。
「遅かったな」
「タクシーが少し混んでいて……」
「いい。今日は少し、君に芝居をしてもらう」
「芝居……?」
「親会社の人間がこのホテルに来ている。俺の婚約話を仕切っている専務の側近が、俺を監視しているらしい」
「監視?」
「ああ。奴らはこの“噂”を利用して、俺の動きを縛りたい。だから逆に見せてやる」
「見せるって……何を」
怜司はグラスを置き、低く囁いた。
「俺がまだ“誰かに夢中だ”という証拠を、な」
何を言われているのか理解する前に、怜司が立ち上がった。
その視線が合うより早く、腕を取られる。
次の瞬間、頬に柔らかな感覚。
唇が触れた。
一瞬の、しかし否定できない確かな温もり。
「……っ…社長」
「イミテーションだ。演技だよ」
耳元で囁く声があまりに現実的で、余計に心臓が跳ねた。
周囲を見渡せば、確かに数席向こうに見知らぬ男の姿がある。怜司はその男を一瞥し、ゆるやかに微笑んだ。
「これで十分だ。奴らにとって、この絵だけでおなかいっぱいだろう」
「そんなことのために……」
「そんなこと? 違う。俺にとっては、“誰にもお前を渡せない”という宣言でもある」
言葉が出なかった。
頭ではわかっている。これは策略、彼の完璧な計算の一部。
でも、唇の熱がその理性をすべてかき消す。
ラウンジを出ると、廊下の片隅で怜司がふと立ち止まった。
「……君、佐伯の端末ログを見たか?」
「どうしてそれを」
「やっぱり、もう気づいてたか」
怜司はネクタイを緩めてため息をついた。
「表面上は佐伯が怪しいように見せかけてる。だが、おそらく違う」
「違う?」
「他に裏で動いている奴がいる。お前が調査していることも知られているかもしれない。……つまり、狙われてるのはお前のほうだ」
「そんな……誰が」
「まだわからない。だが、君がこれ以上踏み込めば危険だ。だから――」
怜司の手が無意識のように紗耶の頬に触れた。
冷たい指先に、微かな震え。
「これ以上は、俺の指示なしで動くな」
「でも、このままじゃ」
「頼む」
その一言が、驚くほど柔らかかった。
命令ではなく、懇願のように響いた。
エントランスで解散する前、怜司がもう一度口を開いた。
「もし不審な連絡があったら、すぐに俺に転送しろ。誰であってもだ。信じるな」
「わかりました」
その瞬間、スマートフォンが震えた。未知の番号。
怜司とほぼ同時に画面を覗き込む。
内容は一行だけ。
“あなたの上司、裏切ってますね。”
紗耶の指が止まる。怜司が瞬時に画面を奪い取り、顔をしかめた。
「……来たか」
「これ、誰から」
「動かしてるのは内部じゃない。外部の情報屋だ。これでもう、向こうは完全に仕掛けてきた」
冷たい空気が二人の間を抜ける。
「社長……どうするんですか」
怜司はしばらく沈黙した後、低く答えた。
「罠を張り返す。奴らの欲しい“証拠”を逆に差し出してやる」
「証拠?」
「明日、記者とのオフレコ会談を設定してある。そこで俺が悪役を演じればいい。お前はその間、裏を取れ。必ず誰が動いてるか、突き止めるんだ」
「でも、社長が危険に――」
「心配するな。君がいる限り、俺は潰れない」
短く微笑んだその表情に、初めて人としての弱さが覗いた。
それが一番危うい。
紗耶はその笑みを胸に刻みながら、彼の背中を見送った。
ホテルの出口で振り返ると、さっきのラウンジの光がまだ遠くで揺れている。
冷たい雨が細く降り続けた。
手の甲に残る温もりを、何度拭っても消せなかった。
イミテーション。演技。
だけど、それが現実よりずっと甘くて苦しかった。
(続く)
外では雨が降り出し、窓に散らばる水滴が街の灯をぼやけさせる。
紗耶は一日中、内部調査の資料と向き合っていた。怜司が命じたのは、「情報流出者の特定」。
通信記録、プロジェクトの共有履歴、メールログ。どのデータを見ても決定的な証拠はない。
だが、不自然な動きのあるアカウントが一件見つかった。
アクセス履歴には、営業統括部――佐伯のチームのサーバー名があった。
「まさか……」
隣の席にいた事務補佐の女性が覗き込む。
「水城さん、大丈夫?顔色悪いよ」
「ううん、平気。ただ少し疲れただけ」
モニターを閉じ、軽く笑ってごまかした。
けれど心がざわつく。佐伯なら、怜司の信頼も厚い。あの穏やかさの裏にそんなことをする理由が思い当たらない。
夜、オフィスの照明が少なくなり始めたころ、怜司からメッセージが届いた。
「今夜21時、ホテル・ノヴェルラウンジに来い。スーツで。外部には知られるな」
指先がかすかに震えた。まるで何かに巻き込まれる予感のようなものが、静かに胸の奥で鳴っていた。
指定された時間。
ホテルのラウンジに入ると、怜司はすでに奥の席にいた。
ライトの柔らかな光の中で、彼はいつもより深い色のスーツを着こなし、グラスの氷をゆっくりと回していた。
「遅かったな」
「タクシーが少し混んでいて……」
「いい。今日は少し、君に芝居をしてもらう」
「芝居……?」
「親会社の人間がこのホテルに来ている。俺の婚約話を仕切っている専務の側近が、俺を監視しているらしい」
「監視?」
「ああ。奴らはこの“噂”を利用して、俺の動きを縛りたい。だから逆に見せてやる」
「見せるって……何を」
怜司はグラスを置き、低く囁いた。
「俺がまだ“誰かに夢中だ”という証拠を、な」
何を言われているのか理解する前に、怜司が立ち上がった。
その視線が合うより早く、腕を取られる。
次の瞬間、頬に柔らかな感覚。
唇が触れた。
一瞬の、しかし否定できない確かな温もり。
「……っ…社長」
「イミテーションだ。演技だよ」
耳元で囁く声があまりに現実的で、余計に心臓が跳ねた。
周囲を見渡せば、確かに数席向こうに見知らぬ男の姿がある。怜司はその男を一瞥し、ゆるやかに微笑んだ。
「これで十分だ。奴らにとって、この絵だけでおなかいっぱいだろう」
「そんなことのために……」
「そんなこと? 違う。俺にとっては、“誰にもお前を渡せない”という宣言でもある」
言葉が出なかった。
頭ではわかっている。これは策略、彼の完璧な計算の一部。
でも、唇の熱がその理性をすべてかき消す。
ラウンジを出ると、廊下の片隅で怜司がふと立ち止まった。
「……君、佐伯の端末ログを見たか?」
「どうしてそれを」
「やっぱり、もう気づいてたか」
怜司はネクタイを緩めてため息をついた。
「表面上は佐伯が怪しいように見せかけてる。だが、おそらく違う」
「違う?」
「他に裏で動いている奴がいる。お前が調査していることも知られているかもしれない。……つまり、狙われてるのはお前のほうだ」
「そんな……誰が」
「まだわからない。だが、君がこれ以上踏み込めば危険だ。だから――」
怜司の手が無意識のように紗耶の頬に触れた。
冷たい指先に、微かな震え。
「これ以上は、俺の指示なしで動くな」
「でも、このままじゃ」
「頼む」
その一言が、驚くほど柔らかかった。
命令ではなく、懇願のように響いた。
エントランスで解散する前、怜司がもう一度口を開いた。
「もし不審な連絡があったら、すぐに俺に転送しろ。誰であってもだ。信じるな」
「わかりました」
その瞬間、スマートフォンが震えた。未知の番号。
怜司とほぼ同時に画面を覗き込む。
内容は一行だけ。
“あなたの上司、裏切ってますね。”
紗耶の指が止まる。怜司が瞬時に画面を奪い取り、顔をしかめた。
「……来たか」
「これ、誰から」
「動かしてるのは内部じゃない。外部の情報屋だ。これでもう、向こうは完全に仕掛けてきた」
冷たい空気が二人の間を抜ける。
「社長……どうするんですか」
怜司はしばらく沈黙した後、低く答えた。
「罠を張り返す。奴らの欲しい“証拠”を逆に差し出してやる」
「証拠?」
「明日、記者とのオフレコ会談を設定してある。そこで俺が悪役を演じればいい。お前はその間、裏を取れ。必ず誰が動いてるか、突き止めるんだ」
「でも、社長が危険に――」
「心配するな。君がいる限り、俺は潰れない」
短く微笑んだその表情に、初めて人としての弱さが覗いた。
それが一番危うい。
紗耶はその笑みを胸に刻みながら、彼の背中を見送った。
ホテルの出口で振り返ると、さっきのラウンジの光がまだ遠くで揺れている。
冷たい雨が細く降り続けた。
手の甲に残る温もりを、何度拭っても消せなかった。
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だけど、それが現実よりずっと甘くて苦しかった。
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