君を手放した罰は、永遠の溺愛で償う〜冷徹社長の元カノ復讐劇〜

nacat

文字の大きさ
9 / 30

第9話 甘い罠とイミテーションのキス

しおりを挟む
水曜日の夕方、オフィスの空気は一層張り詰めていた。  
外では雨が降り出し、窓に散らばる水滴が街の灯をぼやけさせる。  
紗耶は一日中、内部調査の資料と向き合っていた。怜司が命じたのは、「情報流出者の特定」。  
通信記録、プロジェクトの共有履歴、メールログ。どのデータを見ても決定的な証拠はない。  
だが、不自然な動きのあるアカウントが一件見つかった。  
アクセス履歴には、営業統括部――佐伯のチームのサーバー名があった。  

「まさか……」  
隣の席にいた事務補佐の女性が覗き込む。  
「水城さん、大丈夫?顔色悪いよ」  
「ううん、平気。ただ少し疲れただけ」  
モニターを閉じ、軽く笑ってごまかした。  
けれど心がざわつく。佐伯なら、怜司の信頼も厚い。あの穏やかさの裏にそんなことをする理由が思い当たらない。  

夜、オフィスの照明が少なくなり始めたころ、怜司からメッセージが届いた。  
「今夜21時、ホテル・ノヴェルラウンジに来い。スーツで。外部には知られるな」  
指先がかすかに震えた。まるで何かに巻き込まれる予感のようなものが、静かに胸の奥で鳴っていた。  

指定された時間。  
ホテルのラウンジに入ると、怜司はすでに奥の席にいた。  
ライトの柔らかな光の中で、彼はいつもより深い色のスーツを着こなし、グラスの氷をゆっくりと回していた。  
「遅かったな」  
「タクシーが少し混んでいて……」  
「いい。今日は少し、君に芝居をしてもらう」  
「芝居……?」  
「親会社の人間がこのホテルに来ている。俺の婚約話を仕切っている専務の側近が、俺を監視しているらしい」  
「監視?」  
「ああ。奴らはこの“噂”を利用して、俺の動きを縛りたい。だから逆に見せてやる」  
「見せるって……何を」  
怜司はグラスを置き、低く囁いた。  
「俺がまだ“誰かに夢中だ”という証拠を、な」  

何を言われているのか理解する前に、怜司が立ち上がった。  
その視線が合うより早く、腕を取られる。  
次の瞬間、頬に柔らかな感覚。  
唇が触れた。  
一瞬の、しかし否定できない確かな温もり。  

「……っ…社長」  
「イミテーションだ。演技だよ」  
耳元で囁く声があまりに現実的で、余計に心臓が跳ねた。  
周囲を見渡せば、確かに数席向こうに見知らぬ男の姿がある。怜司はその男を一瞥し、ゆるやかに微笑んだ。  
「これで十分だ。奴らにとって、この絵だけでおなかいっぱいだろう」  
「そんなことのために……」  
「そんなこと? 違う。俺にとっては、“誰にもお前を渡せない”という宣言でもある」  

言葉が出なかった。  
頭ではわかっている。これは策略、彼の完璧な計算の一部。  
でも、唇の熱がその理性をすべてかき消す。  

ラウンジを出ると、廊下の片隅で怜司がふと立ち止まった。  
「……君、佐伯の端末ログを見たか?」  
「どうしてそれを」  
「やっぱり、もう気づいてたか」  
怜司はネクタイを緩めてため息をついた。  
「表面上は佐伯が怪しいように見せかけてる。だが、おそらく違う」  
「違う?」  
「他に裏で動いている奴がいる。お前が調査していることも知られているかもしれない。……つまり、狙われてるのはお前のほうだ」  
「そんな……誰が」  
「まだわからない。だが、君がこれ以上踏み込めば危険だ。だから――」  

怜司の手が無意識のように紗耶の頬に触れた。  
冷たい指先に、微かな震え。  
「これ以上は、俺の指示なしで動くな」  
「でも、このままじゃ」  
「頼む」  
その一言が、驚くほど柔らかかった。  
命令ではなく、懇願のように響いた。  

エントランスで解散する前、怜司がもう一度口を開いた。  
「もし不審な連絡があったら、すぐに俺に転送しろ。誰であってもだ。信じるな」  
「わかりました」  
その瞬間、スマートフォンが震えた。未知の番号。  
怜司とほぼ同時に画面を覗き込む。  
内容は一行だけ。  

“あなたの上司、裏切ってますね。”  

紗耶の指が止まる。怜司が瞬時に画面を奪い取り、顔をしかめた。  
「……来たか」  
「これ、誰から」  
「動かしてるのは内部じゃない。外部の情報屋だ。これでもう、向こうは完全に仕掛けてきた」  

冷たい空気が二人の間を抜ける。  
「社長……どうするんですか」  
怜司はしばらく沈黙した後、低く答えた。  
「罠を張り返す。奴らの欲しい“証拠”を逆に差し出してやる」  
「証拠?」  
「明日、記者とのオフレコ会談を設定してある。そこで俺が悪役を演じればいい。お前はその間、裏を取れ。必ず誰が動いてるか、突き止めるんだ」  

「でも、社長が危険に――」  
「心配するな。君がいる限り、俺は潰れない」  

短く微笑んだその表情に、初めて人としての弱さが覗いた。  
それが一番危うい。  
紗耶はその笑みを胸に刻みながら、彼の背中を見送った。  

ホテルの出口で振り返ると、さっきのラウンジの光がまだ遠くで揺れている。  
冷たい雨が細く降り続けた。  
手の甲に残る温もりを、何度拭っても消せなかった。  

イミテーション。演技。  
だけど、それが現実よりずっと甘くて苦しかった。  

(続く)
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

没落貴族とバカにしますが、実は私、王族の者でして。

亜綺羅もも
恋愛
ティファ・レーベルリンは没落貴族と学園の友人たちから毎日イジメられていた。 しかし皆は知らないのだ ティファが、ロードサファルの王女だとは。 そんなティファはキラ・ファンタムに惹かれていき、そして自分の正体をキラに明かすのであったが……

【完結】番としか子供が産まれない世界で

さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。 何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。 そんなニーナが番に出会うまで 4話完結 出会えたところで話は終わってます。

狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します

ちより
恋愛
 侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。  愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。  頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。  公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。

十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。

er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——

何年も相手にしてくれなかったのに…今更迫られても困ります

Karamimi
恋愛
侯爵令嬢のアンジュは、子供の頃から大好きだった幼馴染のデイビッドに5度目の婚約を申し込むものの、断られてしまう。さすがに5度目という事もあり、父親からも諦める様言われてしまった。 自分でも分かっている、もう潮時なのだと。そんな中父親から、留学の話を持ち掛けられた。環境を変えれば、気持ちも落ち着くのではないかと。 彼のいない場所に行けば、彼を忘れられるかもしれない。でも、王都から出た事のない自分が、誰も知らない異国でうまくやっていけるのか…そんな不安から、返事をする事が出来なかった。 そんな中、侯爵令嬢のラミネスから、自分とデイビッドは愛し合っている。彼が騎士団長になる事が決まった暁には、自分と婚約をする事が決まっていると聞かされたのだ。 大きなショックを受けたアンジュは、ついに留学をする事を決意。専属メイドのカリアを連れ、1人留学の先のミラージュ王国に向かったのだが…

十八歳で必ず死ぬ令嬢ですが、今日もまた目を覚ましました【完結】

藤原遊
恋愛
十八歳で、私はいつも死ぬ。 そしてなぜか、また目を覚ましてしまう。 記憶を抱えたまま、幼い頃に――。 どれほど愛されても、どれほど誰かを愛しても、 結末は変わらない。 何度生きても、十八歳のその日が、私の最後になる。 それでも私は今日も微笑む。 過去を知るのは、私だけ。 もう一度、大切な人たちと過ごすために。 もう一度、恋をするために。 「どうせ死ぬのなら、あなたにまた、恋をしたいの」 十一度目の人生。 これは、記憶を繰り返す令嬢が紡ぐ、優しくて、少しだけ残酷な物語。

ヤンデレ旦那さまに溺愛されてるけど思い出せない

斧名田マニマニ
恋愛
待って待って、どういうこと。 襲い掛かってきた超絶美形が、これから僕たち新婚初夜だよとかいうけれど、全く覚えてない……! この人本当に旦那さま? って疑ってたら、なんか病みはじめちゃった……!

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

処理中です...