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第1話 婚約破棄は夜会のベルとともに
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王都の夜会には、いつだって甘い香水の匂いと偽りの笑みが満ちている。
その夜、リリアナ・アーデン伯爵令嬢は、絹のドレスの裾を少しだけ握りしめながら、微笑みを作っていた。
心臓が静かに高鳴っている。これが彼の家との正式な婚約発表の夜。長年の恋が“公に”認められる、はずだった。
「リリアナ、よく来てくれたね」
声をかけてきたのは、婚約者である第一王子アルベルト。
端整な顔立ちは相変わらず完璧で、煌びやかなシャンデリアの光を受けて、王子らしい輝きを放っている。
だが、その瞳がどこか泳いでいるのを、リリアナは見逃さなかった。
「もちろんよ、アルベルト様。この日を楽しみにしていましたもの」
そう答えた声は震えていなかった。だが胸の奥に、言いようのない不安が巣を作る。
何かがおかしい。彼の隣にいるべきは自分のはずなのに、その席には別の娘――
淡い金の髪をゆるやかに巻いた侯爵令嬢セシリアの姿がある。
アルベルトは一歩前に出て、会場全体に視線を向けた。
そして、ゆっくりと、けれどまっすぐな声で告げた。
「本日――私は、セシリア・ルーヴェンス嬢を、新たな婚約者とすることを宣言する!」
ざわめきが波のように広がる。
視界の隅で、グラスの中のシャンパンが細かく揺れた。
リリアナは瞬きを一つだけした。その後の記憶が、すべて霞んでいく。
「アルベルト様……今、なんと?」
訊ねた声は震えていた。
けれど、彼は目を合わせない。まるで、彼女の存在など最初から無かったかのように。
「すまない、リリアナ。君とは……もう続けられないんだ。愛しているのは、セシリアなんだ」
悲劇の舞台は、あまりにも一方的に幕を開けた。
彼の言葉が終わるやいなや、セシリアが涙ぐむ。
まわりの貴族たちは、同情とも興味ともつかぬ視線を向けてくる。
リリアナはその中心で、まるで時間が止まったように立ち尽くした。
笑わなければならない。伯爵家の令嬢として、取り乱してはならない。
そう頭で理解しているのに、頬を伝う熱いものは止まらなかった。
「……わかりました。どうかお幸せに、殿下」
震える声でそう言って、軽く一礼した。
それだけで、まわりの貴族たちは彼女を“惨めな女”として見下ろした。
セシリアの小さな笑みだけが、はっきりと目に焼き付いた。
会場を出てからの記憶は曖昧だ。
人々の視線、ざわめき、誰かの嘲笑。
夜の冷気が肌を刺し、ドレスの裾に積もった露を感じるころ、リリアナは馬車の前で立ち止まっていた。
「お嬢様!」
従者のフリードが慌てて駆け寄る。
その手を制して、リリアナは首を横に振った。
「少し……一人にしてくれない?」
声が掠れていた。
彼は何か言いたげに口を開いたが、結局深く頭を下げ、背を向けた。
馬車は去り、静寂だけが残る。
リリアナは庭園の奥に歩いていった。
夜会場の裏手は、ほとんど人が来ない。咲き残った冬薔薇が月下に光っている。
ふと足を止め、ぽつりと呟いた。
「何がいけなかったのかしら……私の何が、足りなかったの?」
愛の証だと思っていた指輪を外した。宝石が、月の光を受けて鈍く輝く。
指先が震える。こんなにも軽いものだったのかと、ひどく空しくなる。
そのときだった。
背後から、鋭くも低い声がした。
「こんな夜に令嬢がひとりで歩くとは、肝が据わっているな」
リリアナが振り返ると、そこに立っていたのは黒の礼服に身を包んだ男。
永らく冷気を纏うような雰囲気――その名を聞けば、誰もが身をすくめる。
アレクシス・ヴァルネスト公爵。王国軍を統べる軍務卿であり、“氷の公爵”と呼ばれる男だ。
「……お初にお目にかかります、ヴァルネスト公爵」
リリアナは立ち直るように姿勢を正した。
しかし、アレクシスは高貴な挨拶など受ける様子もなく、ただ鋭く彼女の顔を見つめた。
「婚約破棄の噂は耳に届いている。まさか、このまま一人で帰るつもりか?」
「……ええ。それが、私に残された最も穏やかな選択ですもの」
「穏やか、か。人に笑われたまま沈黙するのが君の“穏やか”なら、随分と勿体ない」
冷たく聞こえる声なのに、どこかに微かな熱がある。
リリアナは答えられず、ただ唇を噛みしめた。
アレクシスは少しだけ近づいて言った。
「君を拾ってもよいな。面白い駒になりそうだ」
「……拾う、とは?」
「誤解するな。哀れみではない。利用価値があるというだけの話だ」
リリアナはその言葉に、ほんの一瞬だけかすかな怒りを覚えた。
しかしそれは、涙の底を乾かすような熱でもあった。
「私を……利用してくださるのですか、閣下」
「そうだ。その代わり、今の君が見返したいすべての者を跪かせてやる」
静まり返った夜気の中で、彼の言葉だけが確かな重みを持って響いた。
その瞬間、リリアナは微かに息を吐く。
燃え尽きた灰の中に、また炎が灯るのを感じた。
「でしたら、公爵。どうかその取引、受けさせてください」
「選択は早いな。後悔しないことだ」
「もう、後悔するほどのものは残っていませんもの」
アレクシスがわずかに口角を上げた。
それが本当に笑みだったのか、皮肉だったのかはわからない。
ただその眼差しだけが、どこまでも冷たく、そしてどこまでも深くリリアナを捉えていた。
月明かりの下、ふたりの影が寄り添うように長く伸びた。
それは、“捨てられた令嬢”と“氷の公爵”が出会った夜。
持たざる者と全てを持つ者――その境界で、運命が静かに回り始めた。
リリアナは心の奥底で、確かに誓った。
二度と誰にも侮らないし、踏みにじられない。
この手で、自分の誇りを取り戻すのだと。
(第1話 終)
その夜、リリアナ・アーデン伯爵令嬢は、絹のドレスの裾を少しだけ握りしめながら、微笑みを作っていた。
心臓が静かに高鳴っている。これが彼の家との正式な婚約発表の夜。長年の恋が“公に”認められる、はずだった。
「リリアナ、よく来てくれたね」
声をかけてきたのは、婚約者である第一王子アルベルト。
端整な顔立ちは相変わらず完璧で、煌びやかなシャンデリアの光を受けて、王子らしい輝きを放っている。
だが、その瞳がどこか泳いでいるのを、リリアナは見逃さなかった。
「もちろんよ、アルベルト様。この日を楽しみにしていましたもの」
そう答えた声は震えていなかった。だが胸の奥に、言いようのない不安が巣を作る。
何かがおかしい。彼の隣にいるべきは自分のはずなのに、その席には別の娘――
淡い金の髪をゆるやかに巻いた侯爵令嬢セシリアの姿がある。
アルベルトは一歩前に出て、会場全体に視線を向けた。
そして、ゆっくりと、けれどまっすぐな声で告げた。
「本日――私は、セシリア・ルーヴェンス嬢を、新たな婚約者とすることを宣言する!」
ざわめきが波のように広がる。
視界の隅で、グラスの中のシャンパンが細かく揺れた。
リリアナは瞬きを一つだけした。その後の記憶が、すべて霞んでいく。
「アルベルト様……今、なんと?」
訊ねた声は震えていた。
けれど、彼は目を合わせない。まるで、彼女の存在など最初から無かったかのように。
「すまない、リリアナ。君とは……もう続けられないんだ。愛しているのは、セシリアなんだ」
悲劇の舞台は、あまりにも一方的に幕を開けた。
彼の言葉が終わるやいなや、セシリアが涙ぐむ。
まわりの貴族たちは、同情とも興味ともつかぬ視線を向けてくる。
リリアナはその中心で、まるで時間が止まったように立ち尽くした。
笑わなければならない。伯爵家の令嬢として、取り乱してはならない。
そう頭で理解しているのに、頬を伝う熱いものは止まらなかった。
「……わかりました。どうかお幸せに、殿下」
震える声でそう言って、軽く一礼した。
それだけで、まわりの貴族たちは彼女を“惨めな女”として見下ろした。
セシリアの小さな笑みだけが、はっきりと目に焼き付いた。
会場を出てからの記憶は曖昧だ。
人々の視線、ざわめき、誰かの嘲笑。
夜の冷気が肌を刺し、ドレスの裾に積もった露を感じるころ、リリアナは馬車の前で立ち止まっていた。
「お嬢様!」
従者のフリードが慌てて駆け寄る。
その手を制して、リリアナは首を横に振った。
「少し……一人にしてくれない?」
声が掠れていた。
彼は何か言いたげに口を開いたが、結局深く頭を下げ、背を向けた。
馬車は去り、静寂だけが残る。
リリアナは庭園の奥に歩いていった。
夜会場の裏手は、ほとんど人が来ない。咲き残った冬薔薇が月下に光っている。
ふと足を止め、ぽつりと呟いた。
「何がいけなかったのかしら……私の何が、足りなかったの?」
愛の証だと思っていた指輪を外した。宝石が、月の光を受けて鈍く輝く。
指先が震える。こんなにも軽いものだったのかと、ひどく空しくなる。
そのときだった。
背後から、鋭くも低い声がした。
「こんな夜に令嬢がひとりで歩くとは、肝が据わっているな」
リリアナが振り返ると、そこに立っていたのは黒の礼服に身を包んだ男。
永らく冷気を纏うような雰囲気――その名を聞けば、誰もが身をすくめる。
アレクシス・ヴァルネスト公爵。王国軍を統べる軍務卿であり、“氷の公爵”と呼ばれる男だ。
「……お初にお目にかかります、ヴァルネスト公爵」
リリアナは立ち直るように姿勢を正した。
しかし、アレクシスは高貴な挨拶など受ける様子もなく、ただ鋭く彼女の顔を見つめた。
「婚約破棄の噂は耳に届いている。まさか、このまま一人で帰るつもりか?」
「……ええ。それが、私に残された最も穏やかな選択ですもの」
「穏やか、か。人に笑われたまま沈黙するのが君の“穏やか”なら、随分と勿体ない」
冷たく聞こえる声なのに、どこかに微かな熱がある。
リリアナは答えられず、ただ唇を噛みしめた。
アレクシスは少しだけ近づいて言った。
「君を拾ってもよいな。面白い駒になりそうだ」
「……拾う、とは?」
「誤解するな。哀れみではない。利用価値があるというだけの話だ」
リリアナはその言葉に、ほんの一瞬だけかすかな怒りを覚えた。
しかしそれは、涙の底を乾かすような熱でもあった。
「私を……利用してくださるのですか、閣下」
「そうだ。その代わり、今の君が見返したいすべての者を跪かせてやる」
静まり返った夜気の中で、彼の言葉だけが確かな重みを持って響いた。
その瞬間、リリアナは微かに息を吐く。
燃え尽きた灰の中に、また炎が灯るのを感じた。
「でしたら、公爵。どうかその取引、受けさせてください」
「選択は早いな。後悔しないことだ」
「もう、後悔するほどのものは残っていませんもの」
アレクシスがわずかに口角を上げた。
それが本当に笑みだったのか、皮肉だったのかはわからない。
ただその眼差しだけが、どこまでも冷たく、そしてどこまでも深くリリアナを捉えていた。
月明かりの下、ふたりの影が寄り添うように長く伸びた。
それは、“捨てられた令嬢”と“氷の公爵”が出会った夜。
持たざる者と全てを持つ者――その境界で、運命が静かに回り始めた。
リリアナは心の奥底で、確かに誓った。
二度と誰にも侮らないし、踏みにじられない。
この手で、自分の誇りを取り戻すのだと。
(第1話 終)
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