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第20話 嘲笑を返す微笑み
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翌朝、エルシャルトの屋敷には薄い霧が立ちこめていた。
雪は止んだものの、冷たい空気が地面に張りついたように重い。
リリアナは窓辺に立ち、淡い光に包まれた庭を見つめていた。
夜明けの静けさが、妙に胸を締めつける。
昨夜から、セドリックの様子がどこかおかしかった。
表情には出さずとも、目の奥に何かを押し殺したような光が宿っていた。
(まるで何かを見た人のようだった)
そう思いながら、彼女はこぼれた髪を整える。
「お嬢様、朝食のご用意ができております。」
エミリアが声をかけた。
「ありがとう。……セドリック様は?」
「閣下なら、夜明け前に外へ出られました。」
「また、ですか?」
「はい。“少し用がある”とだけ。」
リリアナは軽く頷き、戸惑いを隠せないまま食堂へ向かった。
食事の間じゅう、彼のいない席だけが冷えているように感じられ、胸の内では得体のしれぬ不安が広がっていった。
***
その頃、屋敷の奥ではセドリックが机に座し、封筒を見つめていた。
深紅の王家の印章が押されたそれは、夜明け前にアルベルトが残していったもの。
封を切ると、わずか数行の文が現れた。
――リリアナ・アーデルハイトに会えぬこと、了承した。
ただし伝えてほしい。王太子の名誉のもとに、改めて謝罪と感謝の意を示す。
彼女がいま笑っているのなら、それでいい。
「……あの男らしくない手紙だ。」
セドリックは苦笑しながら机に置く。
だが、その握った拳から感じられるのはわずかな緊張だった。
この国の中枢が動いた。
エルシャルトの領土と王家の関係はすでに綱渡りのような状態だ。
それでも、彼にとって最も重要なのは政治ではなかった。
――彼女の心を、誰にも触れさせないこと。
それだけが、唯一の戦いだった。
***
昼過ぎ、遠征から戻った近衛兵たちが屋敷に入る。
リリアナの名が彼女らの会話に上るのに気づいた侍女が驚き、すぐに彼女のもとへ報告に来た。
「お嬢様、今朝、王都の使者団が引き返す際に、小さな騒ぎがあったそうです。」
「騒ぎ?」
「はい。王太子殿下と口論になったのは……閣下と。門の外で、おふたりのお声が少し上がったとか。」
リリアナは思わず息を呑んだ。
「何を話されたの……?」
侍女は首を振る。詳しいことまでは分からないという。
それでも悪い予感は拭えなかった。
王都の権力者がそう簡単に引き下がるとは思えない。
胸の奥のざらつきを抱えたまま、リリアナは午後の庭を歩いた。
雪に覆われた道に足跡をつけながら、空を見上げる。
太陽は薄い雲の向こうにぼやけて輝き、まるで何かを隠しているようだった。
「貴女がここまで変わるとは思わなかったわ。」
その声に足が止まる。
振り向けば、そこにいたのは――フェリシア・ラインベルク。
狩猟用のマントをまとい、目元にはかつてと同じ甘い笑みを貼りつけていた。
「どうして……」
「わざわざ、いらしたの。」
「殿下のお供で。けれど、殿下はもうお帰りになりました。」
リリアナは警戒し、わずかに背筋を伸ばした。
フェリシアはゆっくりと歩み寄り、雪を踏みしめながら微笑を深める。
「相変わらずね、あなた。何も言わずに、見下ろすようなその目。」
「見下してなんていません。」
「ふふ、嘘が上手になったわ。どうせ、心の中ではこう思ってるのでしょう?
“王都を追われた私でも、愛されている”って。」
リリアナの息が止まった。
フェリシアは唇を歪めて続ける。
「噂は王都まで届いているの。でも女っておかしいわね、どんなに見栄を張っても本質は隠せない。あなたの“庇護”がどんな意味を持つのかくらい、皆がわかってるのよ。」
挑発的な声に、胸の奥が静かに冷えていく。
「もうやめてください。あなたの言葉で誰も救われはしない。」
「何を偉そうに!」
フェリシアの瞳に怒りが灯る。
「あなたが殿下を翻弄したくせに、今度は公爵様を誘惑したの!? 何を狙っているの!? まさか復讐?」
「違います。」
静かな声だった。
「私は、もう誰も憎んでいません。」
その言葉に、フェリシアが一瞬たじろぐ。
「何を……?」
「あなたがどんなに私を貶めても、私はあなたを恨み続けるより、前を向きたかった。
あなたは、ずっと私を敵にしていないと自分を保てないのね。」
フェリシアの頬がかすかに震えた。
「黙りなさい……!」
「いいえ。」
リリアナはまっすぐにその瞳を見つめた。
全く怯える様子がない。
「あなたが本当は苦しんでいること、わかります。」
「な……!」
「殿下は貴女を選んだ。でも、その心の中に私はもういません。
なのに、あなたはまだ私と競い続けている。――もう、やめて。」
その瞬間、フェリシアの瞳から大粒の涙がこぼれた。
彼女自身がそれに気づいたのは、頬を伝う冷たさを感じたときだった。
「何よ……何をわかった顔で……」
「わたしも同じだったから。」
リリアナは穏やかに微笑む。
「愛されることばかりを願って、本当の自分を見失った。
でも今は、ただ“生きたい”と思える場所を見つけたの。」
沈黙。
フェリシアは小さく息を呑み、雪の上に視線を落とした。
「……ねえ、あなた、幸せなの?」
「はい。」
即答だった。嘘偽りのない、静かな声。
そして、リリアナはかつて見せたことのない微笑を浮かべた。
それは“勝利”でも“憐れみ”でもなく、心の底からの穏やかさを宿した笑み。
光が差したように、雪原が一瞬まぶしく見えた。
フェリシアはその笑顔に耐え切れず、踵を返した。
「そんな顔……ずるいわ……!」
その背中が遠ざかり、やがて雪の霧に消える。
リリアナは静かに息を吐いた。
風が頬を撫でる。
その冷たさが、どこか優しく感じられた。
***
夕刻、セドリックが屋敷に戻ると、玄関に彼女が立っていた。
「ああ……出迎えなくてもいいと言ったのに。」
「いいえ。おかえりなさいを言いたかったのです。」
微笑むリリアナの頬に、ほんのりと赤みが差していた。
セドリックは立ち止まり、眉をひそめる。
「泣いたか?」
「泣いてません。」
「嘘だな。」
「ええ、少し……。でも、心は軽くなりました。」
「何があった?」
問いに、リリアナは小さく首を振った。
「ただ、過去と決別できた気がしただけです。」
セドリックはしばらく彼女を見つめ、それから深く息を吐いた。
「そうか。なら良い。」
そして、小さく笑う。
「前よりずっと、いい顔をしている。」
「そうでしょうか?」
「まるで、春の光みたいだ。」
その言葉に、リリアナの胸が温かくなった。
***
その夜。
窓の外には再び雪が降り始めたが、屋敷の中だけは穏やかだった。
二人の間には、もう過去の影はない。
彼女の微笑みが、すべての嘲笑を静かに打ち砕いた夜だった。
続く
雪は止んだものの、冷たい空気が地面に張りついたように重い。
リリアナは窓辺に立ち、淡い光に包まれた庭を見つめていた。
夜明けの静けさが、妙に胸を締めつける。
昨夜から、セドリックの様子がどこかおかしかった。
表情には出さずとも、目の奥に何かを押し殺したような光が宿っていた。
(まるで何かを見た人のようだった)
そう思いながら、彼女はこぼれた髪を整える。
「お嬢様、朝食のご用意ができております。」
エミリアが声をかけた。
「ありがとう。……セドリック様は?」
「閣下なら、夜明け前に外へ出られました。」
「また、ですか?」
「はい。“少し用がある”とだけ。」
リリアナは軽く頷き、戸惑いを隠せないまま食堂へ向かった。
食事の間じゅう、彼のいない席だけが冷えているように感じられ、胸の内では得体のしれぬ不安が広がっていった。
***
その頃、屋敷の奥ではセドリックが机に座し、封筒を見つめていた。
深紅の王家の印章が押されたそれは、夜明け前にアルベルトが残していったもの。
封を切ると、わずか数行の文が現れた。
――リリアナ・アーデルハイトに会えぬこと、了承した。
ただし伝えてほしい。王太子の名誉のもとに、改めて謝罪と感謝の意を示す。
彼女がいま笑っているのなら、それでいい。
「……あの男らしくない手紙だ。」
セドリックは苦笑しながら机に置く。
だが、その握った拳から感じられるのはわずかな緊張だった。
この国の中枢が動いた。
エルシャルトの領土と王家の関係はすでに綱渡りのような状態だ。
それでも、彼にとって最も重要なのは政治ではなかった。
――彼女の心を、誰にも触れさせないこと。
それだけが、唯一の戦いだった。
***
昼過ぎ、遠征から戻った近衛兵たちが屋敷に入る。
リリアナの名が彼女らの会話に上るのに気づいた侍女が驚き、すぐに彼女のもとへ報告に来た。
「お嬢様、今朝、王都の使者団が引き返す際に、小さな騒ぎがあったそうです。」
「騒ぎ?」
「はい。王太子殿下と口論になったのは……閣下と。門の外で、おふたりのお声が少し上がったとか。」
リリアナは思わず息を呑んだ。
「何を話されたの……?」
侍女は首を振る。詳しいことまでは分からないという。
それでも悪い予感は拭えなかった。
王都の権力者がそう簡単に引き下がるとは思えない。
胸の奥のざらつきを抱えたまま、リリアナは午後の庭を歩いた。
雪に覆われた道に足跡をつけながら、空を見上げる。
太陽は薄い雲の向こうにぼやけて輝き、まるで何かを隠しているようだった。
「貴女がここまで変わるとは思わなかったわ。」
その声に足が止まる。
振り向けば、そこにいたのは――フェリシア・ラインベルク。
狩猟用のマントをまとい、目元にはかつてと同じ甘い笑みを貼りつけていた。
「どうして……」
「わざわざ、いらしたの。」
「殿下のお供で。けれど、殿下はもうお帰りになりました。」
リリアナは警戒し、わずかに背筋を伸ばした。
フェリシアはゆっくりと歩み寄り、雪を踏みしめながら微笑を深める。
「相変わらずね、あなた。何も言わずに、見下ろすようなその目。」
「見下してなんていません。」
「ふふ、嘘が上手になったわ。どうせ、心の中ではこう思ってるのでしょう?
“王都を追われた私でも、愛されている”って。」
リリアナの息が止まった。
フェリシアは唇を歪めて続ける。
「噂は王都まで届いているの。でも女っておかしいわね、どんなに見栄を張っても本質は隠せない。あなたの“庇護”がどんな意味を持つのかくらい、皆がわかってるのよ。」
挑発的な声に、胸の奥が静かに冷えていく。
「もうやめてください。あなたの言葉で誰も救われはしない。」
「何を偉そうに!」
フェリシアの瞳に怒りが灯る。
「あなたが殿下を翻弄したくせに、今度は公爵様を誘惑したの!? 何を狙っているの!? まさか復讐?」
「違います。」
静かな声だった。
「私は、もう誰も憎んでいません。」
その言葉に、フェリシアが一瞬たじろぐ。
「何を……?」
「あなたがどんなに私を貶めても、私はあなたを恨み続けるより、前を向きたかった。
あなたは、ずっと私を敵にしていないと自分を保てないのね。」
フェリシアの頬がかすかに震えた。
「黙りなさい……!」
「いいえ。」
リリアナはまっすぐにその瞳を見つめた。
全く怯える様子がない。
「あなたが本当は苦しんでいること、わかります。」
「な……!」
「殿下は貴女を選んだ。でも、その心の中に私はもういません。
なのに、あなたはまだ私と競い続けている。――もう、やめて。」
その瞬間、フェリシアの瞳から大粒の涙がこぼれた。
彼女自身がそれに気づいたのは、頬を伝う冷たさを感じたときだった。
「何よ……何をわかった顔で……」
「わたしも同じだったから。」
リリアナは穏やかに微笑む。
「愛されることばかりを願って、本当の自分を見失った。
でも今は、ただ“生きたい”と思える場所を見つけたの。」
沈黙。
フェリシアは小さく息を呑み、雪の上に視線を落とした。
「……ねえ、あなた、幸せなの?」
「はい。」
即答だった。嘘偽りのない、静かな声。
そして、リリアナはかつて見せたことのない微笑を浮かべた。
それは“勝利”でも“憐れみ”でもなく、心の底からの穏やかさを宿した笑み。
光が差したように、雪原が一瞬まぶしく見えた。
フェリシアはその笑顔に耐え切れず、踵を返した。
「そんな顔……ずるいわ……!」
その背中が遠ざかり、やがて雪の霧に消える。
リリアナは静かに息を吐いた。
風が頬を撫でる。
その冷たさが、どこか優しく感じられた。
***
夕刻、セドリックが屋敷に戻ると、玄関に彼女が立っていた。
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「いいえ。おかえりなさいを言いたかったのです。」
微笑むリリアナの頬に、ほんのりと赤みが差していた。
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「泣いたか?」
「泣いてません。」
「嘘だな。」
「ええ、少し……。でも、心は軽くなりました。」
「何があった?」
問いに、リリアナは小さく首を振った。
「ただ、過去と決別できた気がしただけです。」
セドリックはしばらく彼女を見つめ、それから深く息を吐いた。
「そうか。なら良い。」
そして、小さく笑う。
「前よりずっと、いい顔をしている。」
「そうでしょうか?」
「まるで、春の光みたいだ。」
その言葉に、リリアナの胸が温かくなった。
***
その夜。
窓の外には再び雪が降り始めたが、屋敷の中だけは穏やかだった。
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続く
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