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第10話 ささやかな日常と胸の痛み
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あの嵐の夜から数日が過ぎた。
吹雪は去り、王都へつながる街道は少しずつ穏やかさを取り戻していた。
けれど、リリアーナの心はまだ静けさと揺らぎの狭間にいた。
小屋で交わされたアランの言葉――「君は陽だまりのような存在だ」――それが耳の奥に残って離れない。
それは決して甘い告白ではなかったはずなのに、思い出すたび胸の奥が疼いた。
旅の再開は快晴の朝だった。
馬車の窓から見える景色は、雪解けの丘と澄み渡る青空。
アランは道中の書類を整理していたが、リリアーナの視線に気づいたのか、顔を上げて問いかけた。
「どうした。まだ疲れているか。」
「いいえ。ただ……こんなに空が綺麗だなんて思って。」
「久しく空を見上げる余裕がなかったのだろう。」
「そうですね。王都にいた頃は、空を見上げることさえ怖かった気がします。」
「王都の空は、時に人の嘘よりも濁っている。」
アランの淡々とした言葉に苦笑がこぼれる。
「それでも、私はもうそこへ行くんですね。」
「ああ。だが今度は、逃げる必要のない場所として行く。」
昼過ぎ、道沿いの宿場町に立ち寄った。小さな商人街に花屋が並び、鮮やかな色が雪景色の中でひときわ目を惹く。
リリアーナはふと足を止め、ガラス越しに見えた白い花に目を奪われた。
「スノードロップです。」
「冬の終わりを告げる花だな。」アランが横で言う。
「はい。『希望』という花言葉があるんです。」
そう言いながら、リリアーナはその花を一輪買い求め、馬車の中で小さな瓶に挿した。
「これで少しは旅の疲れも癒やせるかもしれません。」
「花一輪に癒やされるとは……」
「癒やされるんです。生きているものを見ると、自分もきっと生きていていいんだと思えるから。」
アランの横顔がわずかに和らいだ。
「君のような考え方、私は好きだ。」
たったそれだけの言葉なのに、胸が跳ねた。
その夜、宿屋に泊まることになった。
リリアーナは暖炉の前で紅茶を飲みながら、窓に映る外の景色を見つめていた。
外では雪の名残が風に流され、灯籠の明かりがゆらゆらと揺れている。
まるで遠い夢の中を見ているようだった。
アランは少し離れた机で書簡を認めていた。筆先の動きは早く、手慣れたものだ。
「宰相閣下は、寝る間も惜しんで働かれるのですね。」
「やるべきことがある限り、止まるわけにはいかぬ。」
「でも人も機械ではありません。休むことも仕事のうちですよ。」
「君は私の侍医か?」
「ふふ……いえ、ただの同道者です。」
そんな軽口を交わすうちに、彼の口元にかすかな笑みが灯った。
静かな時間のなかで、リリアーナは一つの問いを抱えていた。
――アランは、いつも誰のために生きてきたのだろう。
王、国、理。そのどれをも大切にする彼だが、彼自身の幸せを考えたことがあるのだろうか。
「アラン様。」
「なんだ。」
「もし王の命と、自分の命、そして誰か愛する人の命が同時に危険に晒されたら、どれを選びますか?」
ペンの音が止まった。沈黙がひとつ、ふたつ過ぎる。
「……難しい問いだ。」
「答えはありません。ただ、どう考えるのか、知りたくて。」
アランは少し顎に手を当てた。
「昔の私なら、迷わず王を選んでいた。だが今は――そうとも言い切れない。」
「どうしてですか。」
「君が、理の外に温もりを置いてくれたからだ。」
その言葉に、リリアーナは心が震えた。顔を上げると、アランがまっすぐ見つめている。
「アラン様……」
「君の存在が、私の中の均衡を少しずつ壊している。だが、嫌ではない。」
「壊れてもいいと思いますか。」
「どうやら、そうらしい。」
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
ただ、炎の明かりが静かに二人の影を寄せ合うように揺れていた。
その夜、リリアーナは夢を見た。
雪の王都の中で、一面の白に包まれた舞踏会。誰もが仮面をつけ、自分だけが素顔のまま立ち尽くしている。
その中にアランがいて、仮面を外す。その瞳の奥に映ったのは、自分自身の笑顔だった。
――夢だと気づきながらも、醒めるのが惜しい。目覚めたとき、頬を伝う一筋の涙が冷たく光っていた。
翌朝。宿屋を出るとき、リリアーナは昨日買ったスノードロップを胸に挿した。
馬車が動き出し、朝日が差し込む。光の粒が髪に触れて瞬いた。
「その花、よく似合っている。」
「ありがとうございます。幸せの象徴だそうです。」
「ならば、その幸福は王都に着く前に散らすな。」
「散らしません。私がこの手で守ります。」
その自信のある言葉に、アランの目が細められた。
「強くなったな。」
「あなたが教えてくださったからです。」
道すがら、彼らの馬車すれ違う兵の列があった。
王国の紋章の旗が揺れ、町へ向かっていた。
その背に吹く風の冷たさに、リリアーナはふと口を引き結んだ。
「明日には、王都が見える。」
アランがそう言う。
それは、長い旅の終わりの合図。けれど――リリアーナは妙なざわめきを胸に感じていた。
変化の予感。それは不吉ではなく、ただ切実なもの。
車内の静けさに、ふとアランの声が落ちた。
「君がもしこの先、再び王族の前に立つことになったとしても、何も怯えることはない。」
「あなたがいるから怖くありません。」
「……君は本当に、そう信じているのか。」
「ええ。」
その笑顔を見て、アランは小さく息をついた。
「では、約束しよう。君が再びあの輝く場所に立つとき、私がその隣にいる。」
その言葉が、馬車の中に静かに沈む。
窓の外では、雪解けの水がきらきらと光り、春の風が頬を撫でた。
けれどリリアーナの胸の奥では、ほのかな痛みと温もりが共に生まれていた。
アランの言葉は優しすぎて、希望と切なさを同時に残す。
振り返れば、王都まではあと一日。
すべてを奪われた場所へ、今度は自分の意志で帰る。
それは恐怖ではなく、胸を張って歩くための試練のように思えた。
――王都で何が待っていようとも、もう逃げない。
そう心に誓い、リリアーナは小さく拳を握った。
その手の中で、スノードロップの花弁がかすかに揺れた。
(続く)
吹雪は去り、王都へつながる街道は少しずつ穏やかさを取り戻していた。
けれど、リリアーナの心はまだ静けさと揺らぎの狭間にいた。
小屋で交わされたアランの言葉――「君は陽だまりのような存在だ」――それが耳の奥に残って離れない。
それは決して甘い告白ではなかったはずなのに、思い出すたび胸の奥が疼いた。
旅の再開は快晴の朝だった。
馬車の窓から見える景色は、雪解けの丘と澄み渡る青空。
アランは道中の書類を整理していたが、リリアーナの視線に気づいたのか、顔を上げて問いかけた。
「どうした。まだ疲れているか。」
「いいえ。ただ……こんなに空が綺麗だなんて思って。」
「久しく空を見上げる余裕がなかったのだろう。」
「そうですね。王都にいた頃は、空を見上げることさえ怖かった気がします。」
「王都の空は、時に人の嘘よりも濁っている。」
アランの淡々とした言葉に苦笑がこぼれる。
「それでも、私はもうそこへ行くんですね。」
「ああ。だが今度は、逃げる必要のない場所として行く。」
昼過ぎ、道沿いの宿場町に立ち寄った。小さな商人街に花屋が並び、鮮やかな色が雪景色の中でひときわ目を惹く。
リリアーナはふと足を止め、ガラス越しに見えた白い花に目を奪われた。
「スノードロップです。」
「冬の終わりを告げる花だな。」アランが横で言う。
「はい。『希望』という花言葉があるんです。」
そう言いながら、リリアーナはその花を一輪買い求め、馬車の中で小さな瓶に挿した。
「これで少しは旅の疲れも癒やせるかもしれません。」
「花一輪に癒やされるとは……」
「癒やされるんです。生きているものを見ると、自分もきっと生きていていいんだと思えるから。」
アランの横顔がわずかに和らいだ。
「君のような考え方、私は好きだ。」
たったそれだけの言葉なのに、胸が跳ねた。
その夜、宿屋に泊まることになった。
リリアーナは暖炉の前で紅茶を飲みながら、窓に映る外の景色を見つめていた。
外では雪の名残が風に流され、灯籠の明かりがゆらゆらと揺れている。
まるで遠い夢の中を見ているようだった。
アランは少し離れた机で書簡を認めていた。筆先の動きは早く、手慣れたものだ。
「宰相閣下は、寝る間も惜しんで働かれるのですね。」
「やるべきことがある限り、止まるわけにはいかぬ。」
「でも人も機械ではありません。休むことも仕事のうちですよ。」
「君は私の侍医か?」
「ふふ……いえ、ただの同道者です。」
そんな軽口を交わすうちに、彼の口元にかすかな笑みが灯った。
静かな時間のなかで、リリアーナは一つの問いを抱えていた。
――アランは、いつも誰のために生きてきたのだろう。
王、国、理。そのどれをも大切にする彼だが、彼自身の幸せを考えたことがあるのだろうか。
「アラン様。」
「なんだ。」
「もし王の命と、自分の命、そして誰か愛する人の命が同時に危険に晒されたら、どれを選びますか?」
ペンの音が止まった。沈黙がひとつ、ふたつ過ぎる。
「……難しい問いだ。」
「答えはありません。ただ、どう考えるのか、知りたくて。」
アランは少し顎に手を当てた。
「昔の私なら、迷わず王を選んでいた。だが今は――そうとも言い切れない。」
「どうしてですか。」
「君が、理の外に温もりを置いてくれたからだ。」
その言葉に、リリアーナは心が震えた。顔を上げると、アランがまっすぐ見つめている。
「アラン様……」
「君の存在が、私の中の均衡を少しずつ壊している。だが、嫌ではない。」
「壊れてもいいと思いますか。」
「どうやら、そうらしい。」
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
ただ、炎の明かりが静かに二人の影を寄せ合うように揺れていた。
その夜、リリアーナは夢を見た。
雪の王都の中で、一面の白に包まれた舞踏会。誰もが仮面をつけ、自分だけが素顔のまま立ち尽くしている。
その中にアランがいて、仮面を外す。その瞳の奥に映ったのは、自分自身の笑顔だった。
――夢だと気づきながらも、醒めるのが惜しい。目覚めたとき、頬を伝う一筋の涙が冷たく光っていた。
翌朝。宿屋を出るとき、リリアーナは昨日買ったスノードロップを胸に挿した。
馬車が動き出し、朝日が差し込む。光の粒が髪に触れて瞬いた。
「その花、よく似合っている。」
「ありがとうございます。幸せの象徴だそうです。」
「ならば、その幸福は王都に着く前に散らすな。」
「散らしません。私がこの手で守ります。」
その自信のある言葉に、アランの目が細められた。
「強くなったな。」
「あなたが教えてくださったからです。」
道すがら、彼らの馬車すれ違う兵の列があった。
王国の紋章の旗が揺れ、町へ向かっていた。
その背に吹く風の冷たさに、リリアーナはふと口を引き結んだ。
「明日には、王都が見える。」
アランがそう言う。
それは、長い旅の終わりの合図。けれど――リリアーナは妙なざわめきを胸に感じていた。
変化の予感。それは不吉ではなく、ただ切実なもの。
車内の静けさに、ふとアランの声が落ちた。
「君がもしこの先、再び王族の前に立つことになったとしても、何も怯えることはない。」
「あなたがいるから怖くありません。」
「……君は本当に、そう信じているのか。」
「ええ。」
その笑顔を見て、アランは小さく息をついた。
「では、約束しよう。君が再びあの輝く場所に立つとき、私がその隣にいる。」
その言葉が、馬車の中に静かに沈む。
窓の外では、雪解けの水がきらきらと光り、春の風が頬を撫でた。
けれどリリアーナの胸の奥では、ほのかな痛みと温もりが共に生まれていた。
アランの言葉は優しすぎて、希望と切なさを同時に残す。
振り返れば、王都まではあと一日。
すべてを奪われた場所へ、今度は自分の意志で帰る。
それは恐怖ではなく、胸を張って歩くための試練のように思えた。
――王都で何が待っていようとも、もう逃げない。
そう心に誓い、リリアーナは小さく拳を握った。
その手の中で、スノードロップの花弁がかすかに揺れた。
(続く)
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