悪役令嬢に婚約破棄された令嬢は、隣国の氷の公爵に拾われて溺愛される〜婚約者のざまぁは後日ゆっくりと〜

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第1話 婚約破棄の宣告

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冬の陽光が淡く差し込む大広間の空気は、どこか乾いていた。壁に並ぶ鏡が磨き上げられ、晶石のシャンデリアが虹のような光を床に落としている。その真ん中で、エレナ・シュトラールはただ立ち尽くしていた。沈黙の中心にいるのが自分だと理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

「君との婚約は、今日をもって白紙に戻す」  
澄んだ声が、無遠慮に空気を裂いた。  
声の主――エドモンド・ランベルク侯爵家の嫡男であり、エレナの婚約者である青年は、冷笑を浮かべて立っていた。彼の隣には、一人の女が寄り添っている。艶やかな栗髪をゆるく巻いたネリー・ミュラー嬢。かつてエレナが「親友」と呼んだ女性だった。

「……理由をお聞かせください、エドモンド様」  
つとめて平静に保とうとした声が、わずかに震えた。広間の周囲には、好奇と退屈の入り混じった視線が何十と注がれている。貴族たちがこの劇的な瞬間を見逃すまいと息を潜めているのが分かった。

「理由など、言うまでもないだろ?」と彼は肩をすくめた。  
「君は、退屈なんだよ。気取ってばかりで、感情の色も見せない。貴族の令嬢らしく整ってはいるが、温かみがない。そんな君と一生を共にするのは、想像するだに窮屈だ」

心臓がひとつ、強く鳴った。  
エレナは唇をかすかに開いたが、言葉が出なかった。長く続いた婚約期間のあいだ、自分なりに彼に寄り添おうとしてきた。彼の好みに合わせた装い、彼が話した政治の話題に耳を傾け、たまに見せる笑顔に安堵しながら、静かに未来を信じていた。  
そのすべてが、いま一言で切り捨てられた。

「エドモンド様っ、それはあまりにも……!」  
叫んだのは、第三者ではなく、隣にいたネリーだった。  
彼女はわざとらしく青ざめてエドモンドの腕にすがり、震える声を出した。  
「彼女にそんな言い方をなさっては、あまりにもお気の毒ですわ……!」

貴族たちの間にざわめきが広がる。  
これで劇は完成だと、エレナは悟った。  
「慈悲深い新しい恋人と、冷たい元婚約者」という構図。すべて仕組まれた筋書きに、自分はただ舞台装置のひとつとして立っているだけなのだ。

息を吸い込む。喉が焼けるように乾く。  
けれど彼女はうつむかなかった。視界の端で、近衛の兵が何事かと視線をやり、重そうな扉の向こうには庭園の光が見えている。  
逃げだしたい衝動をかみ殺し、エレナは凛とした声で言った。  

「承知いたしました、エドモンド様。婚約は破棄ということで。おめでとうございます、ネリー様。お二人のお幸せをお祈りいたします」

広間の空気が一瞬止まった。  
そして次の瞬間、ざわり、と人々が息を吐く。冷たい嘲笑にも似た笑い声が散ったが、エレナは一歩も引かなかった。  
彼女の涼やかな声色が、かえって貴族たちに「つまらない女」という印象を深めたのだとしても、もうどうでもよかった。

ゆっくりと後ろを向き、退場のための歩を進める。  
その背に、かつての婚約者が楽しげに嘲る声をかけた。  
「エレナ、次に会ったときはせいぜい笑顔のひとつでも覚えたほうがいいな。そうしないと、また誰にも愛されないぞ」

笑顔――。  
その単語が耳に刺さる。心の奥底で、何かがきしむような音を立てた。  
愛されない? それなら、いったいこれまでの七年の婚約期間は何だったのだろう。  
だが振り返らなかった。振り返ってしまえば、涙が落ちてしまうから。

重い扉を押し開けると、外の空気は一層冷たかった。冬の風が頬を刺し、雪片がほろほろと降ってきていた。  
息を吐くたびに白い霧が揺れる。彼女は馬車の方向へ歩こうとしたが、途中で足が止まった。  
石畳の上に白く積もる雪が、まるで過去の自分を覆い隠すようで、歩くのが怖くなったのだ。  

――もう婚約者でもない。  
――家族は、これをどう受け止めるだろうか。  

考えるほどに胸が締めつけられた。屋敷に戻れば、父母や兄たちが「家の恥」として対応を話し合うだろう。相手が侯爵家となれば、抗議も難しい。政治的な均衡の前では、個人の感情など砂粒だ。

だがそれでも、涙は流したくなかった。  
袖で目元を押さえ、歩き出したその瞬間だった。  

「……大丈夫か」  
低く響く男性の声が背後からした。冬の空気を切り裂くような冷たい響きなのに、なぜか深みのある優しさがあった。  
エレナは驚き、振り返る。  

そこには、一人の男が立っていた。  
長身で、黒に近い銀髪を後ろで束ねている。鋭い氷色の瞳は、遠くの雪原よりも冷たく澄んでいた。上質な外套の肩には雪が積もっているのに、男はまるでそれを気にしない。  
見上げた瞬間、心の奥が静かに震えた。彼の孤高な雰囲気に、息を呑んだのだ。

「……あなたは?」  
「通りすがりだ」  
短い答えだった。だがその一言の中に、凍るような無関心と、同時にかすかな興味が混じっている気がした。

男は一歩、彼女の前まで進んだ。  
「顔色が悪い。倒れる前に、誰か呼べる者はいるのか?」  
「……いません」  
まるで自分の口から出た声ではないようだった。空っぽの胸から、掠れた言葉が零れる。

男は眉をひそめ、無言のまま懐から手袋を外した。白い手が伸び、彼女の手を取る。冷たいと思った瞬間、その掌の温もりに驚いた。氷のような瞳に似合わぬ、確かな体温だった。  

雪がふたりの間に舞い落ちる。  
その沈黙は、奇妙に穏やかだった。

「少し歩けるか」  
「……ええ、大丈夫です」  
「なら、馬車まで付き添おう」  
断ろうとしたが、すでに彼の視線には逆らえない厳しさがあった。彼女の息は白く伸び、心臓が妙に速く打つのを感じる。

並んで歩くあいだ、互いに言葉はなかった。  
ただ、男の外套をかすめる雪の匂いと、靴音だけが響いた。エレナは思った。誰かに優しくされるのが、こんなに怖いものなのか、と。  
そしてこの邂逅が、彼女の運命を大きく変えることを、まだ知らない。

馬車の前にたどり着くと、男は静かに手を離した。  
「名を、聞いても?」  
礼を言うべきか、迷いながらエレナは口を開いた。  
「エレナ・シュトラールと申します」  
「……そうか」  
男はわずかに目を細める。その瞳に雪明かりが映る。  
「アーヴィン・ベルガード。隣国フィオーレの公爵だ」

その名を聞いた瞬間、エレナは息を止めた。  
誰もが怖れる隣国の「氷の公爵」。戦乱の時代を終わらせた英雄でありながら、人を寄せ付けない冷徹な男として知られている人物。その本人が目の前に立っている。

「氷の……公爵、様」  
戸惑う彼女に、アーヴィンはほんの僅かに口角を上げた。  
「氷が悪いか?」  
「い、いえ……! ただ、その……」  
「そうか。では、気をつけて帰れ。雪道は滑る」  

風がふたりの間を通り抜けた。  
エレナが何か言いかけたとき、彼はすでに背を向けていた。長い外套が翻り、雪の中へ溶けていく。冷たいはずの冬空の下で、その背中だけがやけに温かく見えた。

扉が閉まると、馬車がゆっくりと動き出す。  
エレナは座席に沈み、震える手を握りしめた。婚約破棄の痛みはまだ生々しく胸を刺している。だが、氷の公爵の声と手の感触が、不思議とその痛みを和らげていた。  

彼女はふと窓の外に目をやる。  
雪の舞う街並みが遠ざかる中、凛とした背中がかすかに見えた気がした。  

(……もう、誰かに愛されなくてもいい)  
心のどこかで、そう思っていたはずなのに。  
その夜、彼女の胸の奥で小さな光が、確かに灯り始めた。

(続く)
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