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第2話 婚約破棄と偽りの罪
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雪がちらちらと降り始めていた。王都の外れにある小さな門の前で、セレナは護衛兵に腕を掴まれたまま、寒風に晒されていた。門の外は広がる荒野。貴族の令嬢として生まれた彼女が、これほどまでに冷たい世界を感じたのは初めてだった。
「ここまでだ。罪人の身で王都に足を踏み入れることは、二度と許されぬ。」
そう言い放った衛兵の男は、忠誠心に満ちた顔で彼女を突き放す。その仕草はまるで不潔なものでも払うかのように容赦がなかった。足元に転がるのは、荷物と呼ぶにはあまりに小さな包みひとつ。衣替えすら許されず、セレナは薄いドレスのまま、震える息を吐いた。
「罪人……私が……」
荒れた風の音だけが返事をする。護衛は振り向くこともなく門を閉め、その鉄の音が世界との決別を告げた。王都の灯が遠くに滲み、そこにあった幸せな記憶も同じように霞んでいく。
歩かねば、と思った。
このまま立ち尽くせば命すら失う。
けれど、どこへ?
雪の降る荒野を、靴が沈みながら進む。見上げた空は灰色で、太陽の光すら薄く覆われていた。冷たさで指がかじかみ、頬の感覚が失われていく。伯爵令嬢として育った彼女には、長旅の術などひとつもない。だが、戻る場所もない。誰も信じてくれなかったあの大広間を、もう二度と振り返るつもりはなかった。
(なぜ、こうなったの……?)
足を進めるたびに、胸の奥の疑問が繰り返される。罪など犯していない。ただ薬草を調合していただけ。それが、どういう経緯で毒にすり替わり、証拠にされたのか。ルシア。その名が頭に浮かぶと、冷たさとは別の震えが背筋を這った。
思い返せば、彼女が殿下に近づき始めたのは二ヶ月ほど前からだった。上品で控えめな態度で、周囲からはすぐに好感を得た。貴族社会の中で、平民出身という立場は珍しさと同時に清純さを象徴する。けれど、セレナは知っていた。彼女が人一倍、嘘をつくことがうまいと。
——あの涙も、計算だったのか。
凍えた唇がひとりでに苦笑をつくる。
真実を語るより、誰かの都合の良い物語が優先される世界。
その理不尽さに、初めて心底うんざりした。
ふと、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。振り向くと、茂みの影が不規則に動く。恐怖が一気に喉にこみ上げる。貴族の娘として保護されてきた彼女にとって、荒野の夜は未知の世界だ。身を守る術など持ち合わせていない。
「……だめ、立ち止まらないで。」
息を荒げながら歩を進めるが、足元の雪がいつの間にか膝まで積もっていた。重たさに足を取られ、何度も転びそうになる。指先の感覚が完全に失われた頃、視界の端にぼんやりとした灯が見えた。
(……焚き火?)
希望のように、その小さな光を目指して歩く。限界を超えた体が勝手に動いた。寒さも痛みももう感じなかった。ただ、その光にすがりたかった。
数分後、セレナは雪に埋もれた馬車の残骸を見つけた。荷台の隣に、焚き火と人影が二つ見える。ひとりは屈強そうな男、もうひとりは若い兵士のようだった。旅の途中なのか、彼らは分厚い外套を着て焚き火の傍らで休んでいる。
「おい、誰かいるぞ。」
若い兵士が立ち上がった。警戒するように腰の剣に手をかける。その視線の先に、よろよろと歩み寄るセレナの姿が映った。服は破れ、髪は雪で乱れている。普段の彼女を知る者がいれば、到底令嬢とは思えない姿だった。
「ま、待って……敵ではありません……」
声を出そうとした途端、足がもつれ、前のめりに倒れた。雪の冷たさが頬に刺さり、意識が遠のいていく。
「女!? こんなところで何を——」
兵士の声が聞こえたが、もう耳に届かない。最後に目に映ったのは、焚き火の向こう側で何かを指示する黒衣の男。その眼差しだけが妙に鋭く、闇の中でもはっきりと印象を残した。
次に目を覚ましたのは、暖かい天幕の中だった。
毛布に包まれ、しっとりとした湯気の匂いが鼻をくすぐる。
「気がついたか。」
低く落ち着いた声に、セレナは目を開けた。目の前には焚き火の男——黒髪の青年が座っていた。年齢は二十代半ばほどか。粗野な雰囲気を漂わせながらも、その眼差しは冷静で、ひとつひとつの動作に無駄がない。鎧の装飾から、ただの兵士ではないことがうかがえた。
「……ここは?」
「国境近くの宿営地だ。倒れていたお前を部下が見つけた。放っておけば凍死していたぞ。」
まっすぐな言葉に言い返せず、セレナは唇を噛んだ。
もう何も言い訳する気力もなかった。
「助けていただいて……ありがとうございます。」
かすれた声に、彼はわずかに眉を寄せた。
「名前は?」
少し迷ってから、セレナは答えた。
「……セレナ、です。」
「フルネームは?」
一瞬、呼吸が詰まる。伯爵家の名を名乗れば、追放された罪人として扱われるだろう。恐らく、彼もその名を聞けば態度を変える。
——もう、そんな思いはしたくなかった。
「……ただの、セレナ。旅の途中で迷いました。」
男はしばし彼女を見つめたまま黙した。やがて、興味を失ったように視線を外す。
「そうか。なら明日、国境を越える商隊にでも預けよう。ここに長く滞在するのは危険だ。」
セレナは小さく頭を下げた。助けてくれただけでも、奇跡のようなことだった。
けれど、胸の奥のどこかで不思議な違和感が広がっていた。
——この人、どこかで見たことがある。
それは疲れのせいかもしれないし、単なる錯覚だったのかもしれない。それでも、その横顔の厳しさと静かな炎のような瞳が、妙に記憶の底を刺激した。
「あなたは……どなたですか?」
素直に尋ねた言葉に、男は一言だけを返した。
「アレクシス。」
「……」
名前だけ。だがその名を聞いた瞬間、なぜか彼女の背筋が粟立った。
隣国の将軍と、同じ名前。
まさか——そんな偶然があるはずもない。
そう思いかけたが、彼の身のこなし方、彼に向けられる周囲の兵士の態度がそれを否定する。
(もしかして……)
「休め。体が温まるまでは動くな。」
アレクシスは短く言葉を残し、天幕の外に出ていった。残されたセレナは震える手で毛布を掴んだまま、ぼんやりと焚き火の炎を見つめた。
偽りの罪で全てを失った一人の令嬢と、冷たくも寡黙な将軍。
その二人の道が、今、わずかに交わった。
(続く)
「ここまでだ。罪人の身で王都に足を踏み入れることは、二度と許されぬ。」
そう言い放った衛兵の男は、忠誠心に満ちた顔で彼女を突き放す。その仕草はまるで不潔なものでも払うかのように容赦がなかった。足元に転がるのは、荷物と呼ぶにはあまりに小さな包みひとつ。衣替えすら許されず、セレナは薄いドレスのまま、震える息を吐いた。
「罪人……私が……」
荒れた風の音だけが返事をする。護衛は振り向くこともなく門を閉め、その鉄の音が世界との決別を告げた。王都の灯が遠くに滲み、そこにあった幸せな記憶も同じように霞んでいく。
歩かねば、と思った。
このまま立ち尽くせば命すら失う。
けれど、どこへ?
雪の降る荒野を、靴が沈みながら進む。見上げた空は灰色で、太陽の光すら薄く覆われていた。冷たさで指がかじかみ、頬の感覚が失われていく。伯爵令嬢として育った彼女には、長旅の術などひとつもない。だが、戻る場所もない。誰も信じてくれなかったあの大広間を、もう二度と振り返るつもりはなかった。
(なぜ、こうなったの……?)
足を進めるたびに、胸の奥の疑問が繰り返される。罪など犯していない。ただ薬草を調合していただけ。それが、どういう経緯で毒にすり替わり、証拠にされたのか。ルシア。その名が頭に浮かぶと、冷たさとは別の震えが背筋を這った。
思い返せば、彼女が殿下に近づき始めたのは二ヶ月ほど前からだった。上品で控えめな態度で、周囲からはすぐに好感を得た。貴族社会の中で、平民出身という立場は珍しさと同時に清純さを象徴する。けれど、セレナは知っていた。彼女が人一倍、嘘をつくことがうまいと。
——あの涙も、計算だったのか。
凍えた唇がひとりでに苦笑をつくる。
真実を語るより、誰かの都合の良い物語が優先される世界。
その理不尽さに、初めて心底うんざりした。
ふと、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。振り向くと、茂みの影が不規則に動く。恐怖が一気に喉にこみ上げる。貴族の娘として保護されてきた彼女にとって、荒野の夜は未知の世界だ。身を守る術など持ち合わせていない。
「……だめ、立ち止まらないで。」
息を荒げながら歩を進めるが、足元の雪がいつの間にか膝まで積もっていた。重たさに足を取られ、何度も転びそうになる。指先の感覚が完全に失われた頃、視界の端にぼんやりとした灯が見えた。
(……焚き火?)
希望のように、その小さな光を目指して歩く。限界を超えた体が勝手に動いた。寒さも痛みももう感じなかった。ただ、その光にすがりたかった。
数分後、セレナは雪に埋もれた馬車の残骸を見つけた。荷台の隣に、焚き火と人影が二つ見える。ひとりは屈強そうな男、もうひとりは若い兵士のようだった。旅の途中なのか、彼らは分厚い外套を着て焚き火の傍らで休んでいる。
「おい、誰かいるぞ。」
若い兵士が立ち上がった。警戒するように腰の剣に手をかける。その視線の先に、よろよろと歩み寄るセレナの姿が映った。服は破れ、髪は雪で乱れている。普段の彼女を知る者がいれば、到底令嬢とは思えない姿だった。
「ま、待って……敵ではありません……」
声を出そうとした途端、足がもつれ、前のめりに倒れた。雪の冷たさが頬に刺さり、意識が遠のいていく。
「女!? こんなところで何を——」
兵士の声が聞こえたが、もう耳に届かない。最後に目に映ったのは、焚き火の向こう側で何かを指示する黒衣の男。その眼差しだけが妙に鋭く、闇の中でもはっきりと印象を残した。
次に目を覚ましたのは、暖かい天幕の中だった。
毛布に包まれ、しっとりとした湯気の匂いが鼻をくすぐる。
「気がついたか。」
低く落ち着いた声に、セレナは目を開けた。目の前には焚き火の男——黒髪の青年が座っていた。年齢は二十代半ばほどか。粗野な雰囲気を漂わせながらも、その眼差しは冷静で、ひとつひとつの動作に無駄がない。鎧の装飾から、ただの兵士ではないことがうかがえた。
「……ここは?」
「国境近くの宿営地だ。倒れていたお前を部下が見つけた。放っておけば凍死していたぞ。」
まっすぐな言葉に言い返せず、セレナは唇を噛んだ。
もう何も言い訳する気力もなかった。
「助けていただいて……ありがとうございます。」
かすれた声に、彼はわずかに眉を寄せた。
「名前は?」
少し迷ってから、セレナは答えた。
「……セレナ、です。」
「フルネームは?」
一瞬、呼吸が詰まる。伯爵家の名を名乗れば、追放された罪人として扱われるだろう。恐らく、彼もその名を聞けば態度を変える。
——もう、そんな思いはしたくなかった。
「……ただの、セレナ。旅の途中で迷いました。」
男はしばし彼女を見つめたまま黙した。やがて、興味を失ったように視線を外す。
「そうか。なら明日、国境を越える商隊にでも預けよう。ここに長く滞在するのは危険だ。」
セレナは小さく頭を下げた。助けてくれただけでも、奇跡のようなことだった。
けれど、胸の奥のどこかで不思議な違和感が広がっていた。
——この人、どこかで見たことがある。
それは疲れのせいかもしれないし、単なる錯覚だったのかもしれない。それでも、その横顔の厳しさと静かな炎のような瞳が、妙に記憶の底を刺激した。
「あなたは……どなたですか?」
素直に尋ねた言葉に、男は一言だけを返した。
「アレクシス。」
「……」
名前だけ。だがその名を聞いた瞬間、なぜか彼女の背筋が粟立った。
隣国の将軍と、同じ名前。
まさか——そんな偶然があるはずもない。
そう思いかけたが、彼の身のこなし方、彼に向けられる周囲の兵士の態度がそれを否定する。
(もしかして……)
「休め。体が温まるまでは動くな。」
アレクシスは短く言葉を残し、天幕の外に出ていった。残されたセレナは震える手で毛布を掴んだまま、ぼんやりと焚き火の炎を見つめた。
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