2 / 11
熱く燃える緑
しおりを挟む
ピピピピピピ――……
朝を告げる目覚ましの音は、どうしてこんなにも頭に響くのだろう。あと5分を続けて、最初のアラームからもう30分も経った。そろそろ本気で起きなければ……。
重たい体を持ち上げて、あくびをしながら洗面台の歯ブラシを手に取る。
規則的に動かしながらクローゼットからワイシャツを取り出して、スエットから着替えた。
なんとなく目に入った、朝の白い光に照らされる桜の木を見下ろす。
「私は――魔女だよ――」
今でも桜を見る度に思い出す。
つややかな黒い髪、青い目、陶器のような肌、内臓色の唇。
アルコールの臭いや、唐揚げ弁当の味、土の肌触りや、木に持たれた時の硬さ、その時の少し暑いくらいの気温まで、体があの時間に戻ったかのように鮮明に刻まれている。
あれから、もう半年は経っている。あの時からずっと、桜の木は葉桜のままだ。肌寒くなって、周りの木は枯葉を落としているというのに、つやつやとした新緑の葉や、可憐に咲き誇る花弁は時が止まったように存在している。
最初こそ世間は騒いだものの、今となっては静かだ。テレビもすっかり日常の平穏を取り戻している。
かぶりを振って頭を叩き起す。
半年経って、仕事にもこの生活にも慣れた。
ワイシャツを着て、スーツパンツに足やベルトを通す。口をすすいだあとは、トースターにパンをセットして、焼いている間に目玉焼きなどを焼いてしまう手際の良さ。コーヒーの粉を入れたマグカップに、ケトルでさっさと沸かしたお湯を淹れる。
パンが焼けたら皿に乗せて、その上に出来立ての目玉焼きを乗せ塩胡椒。
「いただきます」
片手でリモコン操作してテレビをつけたら、そのままニュースを見ながら、キッチンで朝食を済ませるのが僕の朝だ。
誰もいない部屋に「いってきます」と声をかけて、真っ暗な部屋に「ただいま」と言って明かりをつける。
玄関のオレンジ色の明かりを浴びると、憑き物が落ちたかのように倦怠感に支配される。
あー……だるい。
頭は寝ることしか考えてないけれど、腹は減っている。こんな日が多いため、カレールーやお茶漬けの素、あえるだけのパスタソースなどは常備している。
(今日はパスタにしよう)
鍋に水をはってコンロにかける。その間に朝使ったコップと皿を洗って、適当な部屋着に着替えた。
ワイシャツは洗濯機へ放りこんで、スーツ上下はハンガーにかけて除菌・消臭剤をふってクローゼットにかけたら完成。
部屋着として愛用しているジャージとTシャツは、ソファーの背もたれにかけていて、今日もそれらを手に取る。
それでもまだ水は湧かない。パスタ麺とあえるだけソースを準備して、鍋の外側にふつふつと泡がたってるいるのを、ぼんやりと見つめる。
「ようやく見つけたわよ……」
不意にそんな声がして、疑問に思った次の瞬間。
はきだし窓が粉々に割れ、けたたましい音が部屋の中に響いた。
「のんきに食事の準備なんて、いいご身分ね」
窓が割れると共に部屋の中に入ってくる少女。浮遊するアンティーク調の椅子の上で、足を組んでふんぞり返っていた。
中世ヨーロッパを思い出させるフリルが過剰に多く赤い服装、ふんわりとカールした白銀の髪の毛、緑の目、白い肌、ぷっくりと膨れた桜色の頬や唇。
まるで、フランス人形のようだ。
「……」
「……」
不思議と僕の心に驚きはなく、特別慌てることは無かった。
湯が沸いたので、パスタ麺を入れて、水に浸かってない部分を押し込む。
ちらり、と見たフランス人形の少女に目をやる。
「なによ」
「あのー……修理費請求しますね」
「はぁ? あんた最初に言うことそれなの」
フンッ、と鼻で笑われる。
他に言うことあっただろうか。どうして椅子が浮いているのか、なぜ窓から入ってきたのか、怪我はしていないのか。気になることはたくさんあるが、全てを聞いて、僕はそれに納得するのだろうか。
よくわからないけれど、理不尽なことが起ころうとしていることだけは、ひしひしと感じる。
(あと4分もかかるのかー……)
ぐつぐつと煮える音だけが部屋の中に響いた。
「色々と聞きたいことはあるんですけど、それは食べながらでもかまいませんか? 疲れているので、矢継ぎ早に話されても理解できるか不明ですが……」
ぐぅぅ、と盛大にお腹の鳴る音が聞こえた。
お腹は減っているが、僕の腹の虫ではない。少女に目をやると、大きな目で睨まれる。緑色の瞳が綺麗だ。
「少し多めに茹でているので、半分食べますか?」
「そうね。いただくわ」
「あと2分ほどかかるので、その間に魔法でもなんでも使って窓を直してもらえると助かるんですけど」
そう言うと、少女の目が丸く大きく見開かれる。
何か驚くことを言っただろうか。はきだし窓は直してもらえるのだろうか。
心配は必要なかった。少女はアンティーク調の椅子から降り窓に近づくと、人差し指を立て、まるでオーケストラを指揮するかのように何度か上下に動かした。
すると、部屋の中に散らばっていたガラスが、それぞれ赤い光を放ちながら、パズルのピースをはめるかのごとく収まっていくのだった。
椅子は少女が降りると消えてしまったが、ガラスを直した後、座る場所に迷うことなくダイニングテーブルの椅子を軽く引いた。
パスタ麺を1本取って食べると、いい具合に中まで茹でられている。さっとザルに取り、洗い物を減らすために鍋の中に戻してパスタソースとあえる。
今日は明太子にした。皿に盛り付け、付属で着いていたのりを頂点に小さく飾ると出来上がりだ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
小さな丸いダイニングテーブルに、向かい合うようにしてパスタを置く。向かい側に行儀よく座った少女にフォークを渡して、いただきます。
「お茶要りますか?」
「いただくわ」
冷蔵庫から2Lペットボトルのお茶を出し、ガラスについでやる。小さくお礼を言われる。
登場した時の態度から、お礼も言えないような横柄な人柄を想像していたけれど、そんなことはなかった。
今もフォークにパスタを巻き付けて、行儀よく食べている。
「そういえば、なんの用だったんですか?」
誰かが部屋に来ることや、人と食事をすることが久しぶりだったからか、僕はどこか舞い上がっていたのだと思う。
このまま、何も知らないこの少女との穏やかな時間が過ぎると勝手に思っていた。
現実は甘くない。
咀嚼をしている少女の、緑色の目が一際輝く。瞬間、体が硬直して動かない。フォークの落ちる音がした。拾おうとするも、胴体にぴったりとつけられた両腕どころか、足や頭、体全体が、強い力に締め付けられているようで、指先のひとつも動かせない。
「あなた、イヴと契約したでしょう?」
「……イヴ? 契約?」
なんてこった、口まで動かしにくい。なんのことかわからないけれど、少女の目に睨まれるたびに、締め付けがきつくなる。
「とぼけないでほしいわ」
「いや、本当になんのことですか、ぐっ……」
首にかかる圧が強くなった。
逃げも隠れもしない、嘘もつかないから、この締め付けをなんとかしてくれ……!
そんな僕の気持ちは届くことなく、少女の睨みがまたいっそう強くなる。やばいやばい、意識が飛びそうだ。苦しい! ほどいてくれ!
徐々に視界がぼやけてくる。イヴなんて、外国人めいた名前の友人はいない。契約書も書いた記憶はない。この少女は一体、何を言っているんだろうか。
「あきれた」
「かはっ」
ひゅっ、と解かれる締め付けと共に一気に肺を満たす酸素。小さなダイニングテーブルに突っ伏し、激しく咳き込みながらイヴや契約について考えるも、思い当たる節が全くない。
「あなた、何も知らされていないのね」
既にパスタを食べ終わった少女が、つまらなさそうに肘をついて、手のひらで顎を支えている。
正常な呼吸を取り戻した僕に、まず少女が言ったことは、
「足りないから、あなたのパスタいただける?」
……本当に、なんの用で来たんですか。
朝を告げる目覚ましの音は、どうしてこんなにも頭に響くのだろう。あと5分を続けて、最初のアラームからもう30分も経った。そろそろ本気で起きなければ……。
重たい体を持ち上げて、あくびをしながら洗面台の歯ブラシを手に取る。
規則的に動かしながらクローゼットからワイシャツを取り出して、スエットから着替えた。
なんとなく目に入った、朝の白い光に照らされる桜の木を見下ろす。
「私は――魔女だよ――」
今でも桜を見る度に思い出す。
つややかな黒い髪、青い目、陶器のような肌、内臓色の唇。
アルコールの臭いや、唐揚げ弁当の味、土の肌触りや、木に持たれた時の硬さ、その時の少し暑いくらいの気温まで、体があの時間に戻ったかのように鮮明に刻まれている。
あれから、もう半年は経っている。あの時からずっと、桜の木は葉桜のままだ。肌寒くなって、周りの木は枯葉を落としているというのに、つやつやとした新緑の葉や、可憐に咲き誇る花弁は時が止まったように存在している。
最初こそ世間は騒いだものの、今となっては静かだ。テレビもすっかり日常の平穏を取り戻している。
かぶりを振って頭を叩き起す。
半年経って、仕事にもこの生活にも慣れた。
ワイシャツを着て、スーツパンツに足やベルトを通す。口をすすいだあとは、トースターにパンをセットして、焼いている間に目玉焼きなどを焼いてしまう手際の良さ。コーヒーの粉を入れたマグカップに、ケトルでさっさと沸かしたお湯を淹れる。
パンが焼けたら皿に乗せて、その上に出来立ての目玉焼きを乗せ塩胡椒。
「いただきます」
片手でリモコン操作してテレビをつけたら、そのままニュースを見ながら、キッチンで朝食を済ませるのが僕の朝だ。
誰もいない部屋に「いってきます」と声をかけて、真っ暗な部屋に「ただいま」と言って明かりをつける。
玄関のオレンジ色の明かりを浴びると、憑き物が落ちたかのように倦怠感に支配される。
あー……だるい。
頭は寝ることしか考えてないけれど、腹は減っている。こんな日が多いため、カレールーやお茶漬けの素、あえるだけのパスタソースなどは常備している。
(今日はパスタにしよう)
鍋に水をはってコンロにかける。その間に朝使ったコップと皿を洗って、適当な部屋着に着替えた。
ワイシャツは洗濯機へ放りこんで、スーツ上下はハンガーにかけて除菌・消臭剤をふってクローゼットにかけたら完成。
部屋着として愛用しているジャージとTシャツは、ソファーの背もたれにかけていて、今日もそれらを手に取る。
それでもまだ水は湧かない。パスタ麺とあえるだけソースを準備して、鍋の外側にふつふつと泡がたってるいるのを、ぼんやりと見つめる。
「ようやく見つけたわよ……」
不意にそんな声がして、疑問に思った次の瞬間。
はきだし窓が粉々に割れ、けたたましい音が部屋の中に響いた。
「のんきに食事の準備なんて、いいご身分ね」
窓が割れると共に部屋の中に入ってくる少女。浮遊するアンティーク調の椅子の上で、足を組んでふんぞり返っていた。
中世ヨーロッパを思い出させるフリルが過剰に多く赤い服装、ふんわりとカールした白銀の髪の毛、緑の目、白い肌、ぷっくりと膨れた桜色の頬や唇。
まるで、フランス人形のようだ。
「……」
「……」
不思議と僕の心に驚きはなく、特別慌てることは無かった。
湯が沸いたので、パスタ麺を入れて、水に浸かってない部分を押し込む。
ちらり、と見たフランス人形の少女に目をやる。
「なによ」
「あのー……修理費請求しますね」
「はぁ? あんた最初に言うことそれなの」
フンッ、と鼻で笑われる。
他に言うことあっただろうか。どうして椅子が浮いているのか、なぜ窓から入ってきたのか、怪我はしていないのか。気になることはたくさんあるが、全てを聞いて、僕はそれに納得するのだろうか。
よくわからないけれど、理不尽なことが起ころうとしていることだけは、ひしひしと感じる。
(あと4分もかかるのかー……)
ぐつぐつと煮える音だけが部屋の中に響いた。
「色々と聞きたいことはあるんですけど、それは食べながらでもかまいませんか? 疲れているので、矢継ぎ早に話されても理解できるか不明ですが……」
ぐぅぅ、と盛大にお腹の鳴る音が聞こえた。
お腹は減っているが、僕の腹の虫ではない。少女に目をやると、大きな目で睨まれる。緑色の瞳が綺麗だ。
「少し多めに茹でているので、半分食べますか?」
「そうね。いただくわ」
「あと2分ほどかかるので、その間に魔法でもなんでも使って窓を直してもらえると助かるんですけど」
そう言うと、少女の目が丸く大きく見開かれる。
何か驚くことを言っただろうか。はきだし窓は直してもらえるのだろうか。
心配は必要なかった。少女はアンティーク調の椅子から降り窓に近づくと、人差し指を立て、まるでオーケストラを指揮するかのように何度か上下に動かした。
すると、部屋の中に散らばっていたガラスが、それぞれ赤い光を放ちながら、パズルのピースをはめるかのごとく収まっていくのだった。
椅子は少女が降りると消えてしまったが、ガラスを直した後、座る場所に迷うことなくダイニングテーブルの椅子を軽く引いた。
パスタ麺を1本取って食べると、いい具合に中まで茹でられている。さっとザルに取り、洗い物を減らすために鍋の中に戻してパスタソースとあえる。
今日は明太子にした。皿に盛り付け、付属で着いていたのりを頂点に小さく飾ると出来上がりだ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
小さな丸いダイニングテーブルに、向かい合うようにしてパスタを置く。向かい側に行儀よく座った少女にフォークを渡して、いただきます。
「お茶要りますか?」
「いただくわ」
冷蔵庫から2Lペットボトルのお茶を出し、ガラスについでやる。小さくお礼を言われる。
登場した時の態度から、お礼も言えないような横柄な人柄を想像していたけれど、そんなことはなかった。
今もフォークにパスタを巻き付けて、行儀よく食べている。
「そういえば、なんの用だったんですか?」
誰かが部屋に来ることや、人と食事をすることが久しぶりだったからか、僕はどこか舞い上がっていたのだと思う。
このまま、何も知らないこの少女との穏やかな時間が過ぎると勝手に思っていた。
現実は甘くない。
咀嚼をしている少女の、緑色の目が一際輝く。瞬間、体が硬直して動かない。フォークの落ちる音がした。拾おうとするも、胴体にぴったりとつけられた両腕どころか、足や頭、体全体が、強い力に締め付けられているようで、指先のひとつも動かせない。
「あなた、イヴと契約したでしょう?」
「……イヴ? 契約?」
なんてこった、口まで動かしにくい。なんのことかわからないけれど、少女の目に睨まれるたびに、締め付けがきつくなる。
「とぼけないでほしいわ」
「いや、本当になんのことですか、ぐっ……」
首にかかる圧が強くなった。
逃げも隠れもしない、嘘もつかないから、この締め付けをなんとかしてくれ……!
そんな僕の気持ちは届くことなく、少女の睨みがまたいっそう強くなる。やばいやばい、意識が飛びそうだ。苦しい! ほどいてくれ!
徐々に視界がぼやけてくる。イヴなんて、外国人めいた名前の友人はいない。契約書も書いた記憶はない。この少女は一体、何を言っているんだろうか。
「あきれた」
「かはっ」
ひゅっ、と解かれる締め付けと共に一気に肺を満たす酸素。小さなダイニングテーブルに突っ伏し、激しく咳き込みながらイヴや契約について考えるも、思い当たる節が全くない。
「あなた、何も知らされていないのね」
既にパスタを食べ終わった少女が、つまらなさそうに肘をついて、手のひらで顎を支えている。
正常な呼吸を取り戻した僕に、まず少女が言ったことは、
「足りないから、あなたのパスタいただける?」
……本当に、なんの用で来たんですか。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
1
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる