悠久の放浪者

神田哲也(鉄骨)

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第九十五話「一方的な戦い」

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 リラの声と俺の動きが同時だった。スマホを慌ててしまう。
 通知の内容も気になるが、今はそれどころじゃない。リラが指したのは東北東の方向。
 目を凝らす。……けど、わからない。
 だが、リラが言うのなら、きっと間違いない。

「クェル! 来たぞ!」

 大声で呼びかけると――。

「おっ! 来たんだね!」

 クェルがパチッと目を開け、瞬時に立ち上がった。その動作に、ちょっと感動すら覚える。やっぱりプロなんだな、あの人。

「で、どこどこ?」
『あっちだよー! 距離はまだまだ遠いけど、間違いないよー』

 リラが示した方向を、クェルが目を細めて見やる。その様子を見て、俺も肉体強化魔法で視力を高めてみた。

 ……あった。木々の切れ間に、妙な揺れがある。風もないのに、特定の茂みだけが不自然に動いている。

 それは、透明な何かが、ゆっくりとこちらに向かってきている証拠だった。

「……見えた。確かにいるな」
『でしょでしょー』

 リラが得意げに言う。俺は思わず口元が緩んだが、隣のクェルから意外な言葉が飛んできた。

「え? 本当? 私全然わからないよ! すごいじゃん、ケイスケ!」
「……見えてなかったのかよ!?」

 思わずツッコむ。
 いや、てっきりクェルの方が先に気づいてたもんだと思ってた。何なら、さっき視線を向けていたのも「もう見えたよ」ってサインかと。
 クェルはケラケラ笑って、言った。

「いやー、油断してた! でも平気平気、ケイスケがいるから!」
「お前……」

 本気で笑ってる。なんなんだこの人は。
 でも、その軽さの裏には――不思議と安心感がある。底抜けに明るくて、どこか抜けてるけど、絶対に外さない何かがある。

「さーてと、そろそろ迎えに行こっか!」
「ん。頼んだ」
「任せて! じゃあケイスケは上で見ててね! あとでお礼のキスくらいしてあげるから!」
「いらん!」

 また笑いながら、クェルが屋根を飛び降りた。

「まったく……」

 でもまあ、これなら大丈夫かもしれない。俺はもう一度、東の森を睨んだ。
 見えない魔獣の輪郭が、少しずつ、闇の中から浮かび上がってくる。

 さあ、来い――。

 そして終わったら、俺は、寝る。

『あの魔獣、結構強そうだけど、あの子大丈夫かなー?』
「大丈夫だろ、きっと」

 森の空気が、少しずつ張り詰めていくのがわかる。

 この緊張感は、敵が近い証拠。
 雲間から漏れる月明かりすら、どこか頼りない。

「距離、百メートルを切った。……リラ、頼む」
『わかったー』

 リラの明るい声が頭の中に響いた瞬間、魔獣の気配が明確になる。
 同時に、俺は魔法を詠唱し、光の魔法を発動させた。

『輝ける精霊たちよ、集い集いてかのものに追従し、白き煌めきを……フォティノ』

 白く輝く光球が、宙へ飛ぶ。
 そして――クェルの背後、彼女を中心に森全体が照らされた。

『いくよー』

 リラの声。瞬間、何もなかった空間に“それ”が浮かび上がる。
 巨大な影が、ぬるりと輪郭をあらわにした。

「グオ……?」

 不意に迷彩が解けたことに戸惑っているのか、魔獣が低く唸る。
 姿を現したそれは、かつて見たまだら熊など比較にならない。
 体長はおそらく五メートル以上。全身を覆う灰と黒の迷彩柄の毛皮。
 刃物のように鋭利な爪。あんなものが振り下ろされたら、バラバラになるどころか、跡形も残らないかもしれない。

 その巨体の前に、クェルがひとり立っている。

 剣を手に、肩の力を抜いた姿勢で、まるで森の散歩中にばったり出くわしたかのような余裕っぷりだ。
 いや、違う。あれは余裕なんかじゃない。彼女は真剣に戦うつもりなんだ。だからこそ――微塵も力んでいない。

「……グルルルッ!!」

 魔獣が吠えた。
 自分の魔法が解けたことに対する怒りか、目の前の小さな人間を軽視した結果か。
 だが次の瞬間、魔獣はそれすらもどうでもよくなったらしい。前脚を大地に叩きつけ、突進の構えを取る。

『うわー、おっきいねー』

 リラの声は心配そうだが、音色に緊迫感はない。
 いや、俺たちの中では彼女が一番冷静なのかもしれない。

「だな」

 俺の返事もつられてどこか気の抜けたものになった。
 というより、もう何が起こるかわかっていないのかもしれない。
 クェルはまだ、ぴくりとも動かない。

 ――そして、それは突然だった。

 クェルの姿が“ぶれた”ように見えた、その瞬間。

 森の中で、小さな爆発音が鳴った。

「グオオオオオオッ!?」

 魔獣の絶叫。
 視線を戻すと、クェルはすでに魔獣の懐へと踏み込んでいた。
 そして、右前脚から赤い飛沫が舞い上がる。

「……見えなかった」

 思わず口をついて出た呟きに、自分でも驚いた。
 いや、冗談ではない。本当に、まるで見えなかったのだ。
 さっきまでそこにいた彼女が、気付いたら魔獣の懐にいて、そしてもう斬っていた。

 魔獣は怒りに満ちた咆哮を上げ、爪を振るった。
 だがその攻撃は、虚空を裂くだけ。
 次の瞬間、また爆発音。そして左腕に新たな傷が刻まれる。

 その後も連続する攻撃――というより、連続する被害。
 右腕、左腕、また右、左。
 すべてが見えないまま、傷だけが増えていく。

 そして、不意に大木が揺れた。

 地面ではない、上。
 そう、クェルは木の枝すら足場にして跳躍し、斬撃を加えていたのだ。

 動きが速すぎて、攻撃があってから木が揺れる。
 逆だろ? 普通、踏み込んだら揺れるもんだろ?
 俺の常識がどんどん崩れていく。

 そして、ついに決定的な瞬間が訪れる。

 鋭い音とともに、魔獣の右腕が、根元から切断された。
 あの巨体に比例するような腕が、宙を舞う。
 その重量が地面を揺らす。血が噴水のように噴き出した。

 間髪入れず、反対側も斬り飛ばされる。

『すごいねー』
「それな……」

 頭がついていかない。
 俺の語彙は完全に死んでいた。

 戦いの全貌が見えない。どこを見ていいかもわからない。
 ただただクェルが、圧倒的な何かであることだけが理解できた。

 両腕を失った魔獣は、バランスを崩し、のたうち回る。
 それでもなお、クェルの斬撃は止まらない。
 いや、むしろとどめのために一段と鋭さを増していた。

 そして、次の瞬間――。

 ズシンッ!!

 重く鈍い音が森に響く。

 魔獣の巨体が、ついに地に沈んだ。
 その首が、ゴロンと地面に転がっている。

 まさか、首まで落とすとは。
 この巨体相手に、真正面から一人で戦って、あっさり勝ってしまうなんて――。

 その場で剣を軽く振り、付着した血を飛ばすクェル。

 そしてこちらを見て、にっこりと笑った。

 その笑顔は、血飛沫まみれの戦士のものじゃなかった。
 まるで、ちょっと運動してきましたーみたいな顔だ。

「……すごすぎてわからん……」

 そう呟いたのは、俺の素直な感想だった。

 そしてもう一つ、頭に浮かんだこと。

「……やっと、寝れる……」

 眠気と安堵が一気に押し寄せて、俺はその場にへたり込みそうになった。
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