お嬢様と庭師 ~小夜子と光太郎~

みどり青

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異国の地

長い船旅の間、小夜子はほとんどの時間を客室で過ごしていたが、それが苦になることはなかった。
長年の疲れの蓄積か、すぐに眠くなってしまうし、むしろ三度の食事をとって柔らかなベッドで眠るだけの生活は、小夜子の心と体の回復に大いに貢献した。
一日に一度は、光太郎に連れられて甲板で太陽と潮風を浴び、時には夕暮れの美しい海を堪能した。

光太郎は、小夜子が寛げるようにと部屋を空ける時間を多くとっていたし、部屋にいても、なにやら静かに本に向かっていた。
会話は、光太郎が小夜子の意向を尋ねるときと、小夜子が気紛れに光太郎に話しかけるときだけだった。

いつものようにベッドで休みながら、小夜子はなんの気なしに本を読む光太郎の後ろ姿を見ていた。
部屋にはシングルベッド二つと、小さな机と椅子が二つだけ。光太郎は小夜子のベッドに背を向けて椅子に座っている。小夜子が光太郎の目を気にせずに休めるように、いつも光太郎は背を向けていた。

光太郎の後頭部から、首、肩、肩甲骨あたりまで、小夜子はゆっくりと目を動かす。それより下は椅子の背もたれで見えない。
ひょろひょろだとばかり思っていたが、こうやってじっくり観察すると、やはり男性らしい筋肉や筋の張りに気付く。首は意外にも太くしっかりしているし、肩だってがっしりと見える。乗船するときに庇われた背中も広く大きかった。
小夜子が知っている男性といえば、父と、兄と、遠田だけだ。どれにも異質な気持ち悪さがあり、男というだけで嫌悪するには充分な経験をしている。
だが、光太郎にだけは、違う感情が生まれつつあった。
光太郎の前で無防備に熟睡してしまうのも、兄弟の演技で体に触れられるのが嫌じゃないのも、小夜子の警戒心がなくなっている証拠だった。

(光太郎は、多分、わたくしの嫌なことはしない)

そんなふうに小夜子の心が光太郎を受け入れているのだ。それは本当に自然に、理屈で理解するよりもはるかに早く、小夜子の意識は変わっていった。



五十日ぶりに、小夜子は安定した地面に足をついた。
少しだけ娘らしくふっくらした顔を帽子で隠し、丸みを感じさせる体はぶかぶかのズボンとシャツで覆い、光太郎に手をひかれ、小夜子は異国の地、ロンドンに降り立った。
船を降りる時に、あの船員が光太郎を見送っていたので、小夜子は少しだけ顔を上げて手を振ってみせた。それだけの余裕もできていた。
光太郎はそんな小夜子の様子にびっくりしていたし、ちらりと小夜子の顔を見た船員も固まっていたが、小夜子はそんなことに気付かないほど浮足立っていた。

(とうとう、逃げ切った!わたくしは、あの地獄から逃げられたんだ)

初めて見る異国の風景と、無事に目的地に着いた安堵で、小夜子はにわかに興奮していた。

港には迎えがきていた。光太郎の祖父の弟、佐々木軍次郎だ。光太郎は小夜子を逃がすとき、まっさきにこの大叔父に連絡をとり、協力を得て全ての手配を整えていた。

「大叔父さん、すみません、迎えまで」
「やっと来たな光太郎!全て俺に任せろ。もう逃がさんぞ」
「わかってます」

軍次郎は大きな口で笑い、光太郎の肩をばんばんと叩いて大歓迎した。
軍次郎は背が低く、小太りで、口ひげを生やしていた。年は五十代くらいだろうか、黒々と豊かな髪をぴったりと後ろになでつけ、高そうなスーツに身を包み、周囲を値踏みするような視線はおせじにも第一印象がいいとはいえない。まとう雰囲気が不穏、というのか、もし光太郎の大叔父だと知らなかったら、決して近寄りはしないだろう。
だが同時に、どっしりと重厚感のあるたたずまいは頼りがいがあり、味方にいれば心強いと思わせる力を感じさせた。
そんな軍次郎が背の高い光太郎の頭をぐりぐりと撫でまわす様子は、二人の気さくな間柄を感じさせ、今や光太郎に全幅の信頼を置いている小夜子は、軍次郎に丁寧に頭を下げた。

「軍次郎様、この度はわたくしの」
「おっと待った、富次郎。続きは車の中だ」

小夜子の女性らしい声と仕草にストップをかけた軍次郎に、小夜子は慌てて口をつぐみ、こくりと顔だけで頷いた。
それから三人は軍次郎の車に向かった。車には運転手と屈強な護衛が一人、待機していた。全員で乗り込むと、そこから街並みを抜け、長い時間をかけてのどかな田舎道を通り、小さな可愛らしい一軒家に到着した。

「さ、ここが今日から君たちの家だ」

軍次郎の家に行くとばかり思っていた小夜子は、その言葉をきいて首を傾げた。君たち、というのは、もちろん光太郎と小夜子のことだろう。もしかして、自分たちのために家を一軒用意したのだろうか。
車を降りてその家を見上げながら、小夜子はなんとも言えない気分になった。それは大きな戸惑いだった。自分ひとりのために、一体どれほどの犠牲を光太郎と軍次郎に強いたのだろうと。それでも、逃げ出せた嬉しさも間違いなく心にあるのだから、小夜子は自分の浅ましさが恥ずかしくなった。そして、連れ出してくれた光太郎への感謝と、軍次郎への感謝が、じわりじわりと胸を満たしていった。

小夜子がしばらく呆然としていると、突然その家のドアが勢いよく中から開けられた。出てきたのは背の高い女性で、すらりとしたスタイルに、細身のワンピース、長いこげ茶の髪をなびかせた清楚な美女だった。
美女は小夜子に駆け寄るとぎゅっと手を握り、笑顔で何やらまくしたてた。
美しく微笑む美女から悪意は感じないが、何を喋っているのかまるでわからない。どう対応していいか困惑していると、すぐに光太郎がその美女に話しかけた。手は握られたままだが、うんうん、と納得したように美女が頷くと、今度は小夜子の目を見て、

「ヨウコソ、カンゲイシマス」

とたどたどしい日本語で言った。
小夜子は慌てて頭をさげ、「宜しくお願いいたします」と小さな声を絞り出した。

彼女の名はアメリア。軍次郎の妻だ。
イギリスに仕事できた軍次郎に一目惚れしたアメリアが、押しに押して結婚したという。
居間で四人でテーブルを囲みながら、光太郎がアメリアの言葉を通訳してくれる。
軍次郎はイギリスを拠点として貿易を営んでいる。遠田と同じ職種にぴくりと反応した小夜子だったが、すぐに冷静を装った。
アメリアの兄が特殊な仕事をしており、結婚については大層揉めたが、どうしても軍次郎と結婚したいというアメリアの情熱が勝った。軍次郎も、仕事上で兄とは一切関わりを持たないというのを条件に、アメリアとの結婚を承諾した。
年は軍次郎より少し下だそうだが、とても若く見えるし、輝くばかりの美貌の持ち主なので、外見のバランスだけで見るととても夫婦には見えない。だが、甘い瞳で軍次郎を見つめるアメリアは間違いなく恋する乙女で、優しくアメリアに触れる軍次郎はとても紳士的だ。小夜子は二人の様子を見るにつけ、心がほわりと温かくなった。


この小さな一軒家は、やはり光太郎と小夜子のためのものだった。
しばらくはアメリアと、メイドと、護衛を二人つけておくと軍次郎は説明した。護衛が付く、ということに、何か危険があるのかと不安に思ったが、ここは日本ではないのだからそれが当たり前なのかもしれないと思い直し、小夜子は素直に頭を下げた。

「なにからなにまでお世話になり、本当に感謝いたします」
「まあそう畏まらずに。まずはゆっくり旅の疲れをとりなさい」

にこにことそう言う軍次郎に、光太郎も頷いた。

「そうです、小夜子様。思った以上にお体に負担がかかったはずですから、よく休んでください」
「え、ええ……」

光太郎の変わらない言葉遣いに、小夜子は少しだけ戸惑った。小夜子が今無事でここにいるのは光太郎のおかげだ。そして軍次郎が光太郎に手を貸しているからだ。小夜子にとって光太郎と軍次郎は恩人である。その恩人からいまだお姫様のように慇懃な態度をとられているのが、居心地が悪かったのだ。

二人になった時に、今度こそ、その態度をやめてくれと頼もう。もう自分は華両院でも雇い主でもなんでもない、むしろ光太郎に頼らなければ生きていけないただのお荷物なのだ。
そう決意した小夜子だったが、残念ながら話す時間もなく、その夜から熱を出して寝込んでしまった。


体中が熱く、痛かった。
それでも、あの離れとは違い、柔らかなベッドと温かな食事、アメリアとメイドの献身的な介護で、小夜子の心は安らかだった。
アメリアはたどたどしい日本語で、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と小夜子の額に優しく手を置いてくれるし、もう少し日本語が話せるメイドのエリーは、往診にきてくれた医者の話や薬の説明までしてくれた。

「コレ、ニガイけど、よくキク。のんでネ、イイコ」

若いエリーは小夜子を妹か小さい子のように思っているのか、「イイコ、イイコ」とやたらと小夜子を褒める。
熱に浮かされながらも、アメリアの「ダイジョウブ」とエリーの「イイコ」が小夜子には心地よかった。そして、節子を思い出してこっそり泣いた。

三日ほどして熱が少し下がったようだった。まだ全身が重く辛いが、汗をかいたのか体が気持ち悪かった。エリーに着替えたいと伝えると、すぐにアメリアを連れて、洗面器とタオルを持ってきてくれた。
エリーがタオルを濡らし、アメリアが小夜子を支えながら抱き起す。小夜子が寝間着として着ている綿のワンピースを脱がして、優しく体を拭いてくれた。
いつものダイジョウブとイイコを聞きながら、ふわふわとした頭でぐったりとアメリアに体を預けていると、ふいに二人の動きが止まった。
エリーが小夜子の首から胸、お腹までを拭いて、背中に回った時だった。
そこにはおぞましい傷跡が、ありありと残っていたのだ。

エリーが傷を避けて小夜子の脇腹あたりを拭きながら、アメリアにそっと目配せした。アメリアが小夜子を支えながら背中を覗きこむ。その瞬間、アメリアの目つきが変わり、エリーが総毛立つほどの激しい怒りのオーラが全身にひろがった。
エリーが優しく傷にタオルをあてると、小夜子はぴくりと体を反応させたが、痛いとは言わなかった。そのまま二人は滞りなく小夜子の体を拭き上げ、さっぱりとした新しいワンピースを着せると、

「ダイジョウブ、ダイジョウブ」
「イイコ、イイコ、まかせてネ」

と笑顔で部屋をあとにした。
支えられているとはいえ、起き上がるだけでも体力を使ってしまった小夜子は、靄がかかった頭で、なんとなく、見られてしまったな、と思っていた。辛く朦朧としていた状態だからこそ、肌を見せることを受け入れてしまったが、元気な時なら絶対に拒否しただろう。背中の傷は、そのまま小夜子の心の傷だった。それでも、二人の態度が変わらなかったことに安堵し、小夜子は眠りについた。



夢うつつに、アメリアの激しい声が聞こえた。一人で声を荒げている。時折無言になるのは、おそらく電話で話しているからだ。細く美しいアメリアから、あんな恐ろしい声が出るのかと、小夜子はどこか感心しながら、また暗闇に落ちて行った。


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