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第16話 囚われの過去
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夜が更けていいる――カイン邸の灯りはほとんど消え廊下には淡い月の光だけが流れ込んでいる。
ユリウスは自室の窓辺で、ひとり静かに紅茶を冷ましていた。
昼間のエドガーの言葉が、まだ耳の奥でこびりついている。
(……『また来る』なんて、何を考えてる)
胸の奥で、微かに鈍い痛みがした。
あの声を聞くだけで、身体の奥が冷たくなる。
忘れたと思っていた感覚が今も確かに残っていた。
カップを置き、深く息を吐く。
それでも胸のざわめきは消えず、気づけば廊下へ足が向いていた。
カインの部屋の前に立つ。
扉の隙間から、かすかな灯りがこぼれていた。
「……起きていますか、カイン?」
小さな声で呼ぶと、即座に「入れ」と返る。
扉を開けると、カインがソファに座っていた。
ランプの光が彼の横顔を淡く照らしている。
机の上には、飲みかけの紅茶と一冊の本。
いつものように整然としていた。
「眠れないのか」
「……たぶん、あなたもでしょ」
そう言って、向かいの椅子に腰を下ろす。
数秒の沈黙。ランプの火が揺れる音だけが響いた。
「少し、その……話しておきたいことがあるんです」
ユリウスの声は、微かに震えていた。
カインはただ頷き、言葉を挟まずに待つ。
それだけで、語る決意が少しだけ楽になる。
「……昔、私とリドフォード家の婚約が決まった時、表向きは『借金の肩代わり』と『家の救済』でした……でも、あれは違ったんです」
ユリウスはカップを見つめ、唇を噛んだ。
喉の奥がひどく乾く。
「リドフォード家は、うちの財産を吸い取る気でした。『没落した令息を救ってやる』って名目で、実際は……私を商品にするつもりだったんですよ」
ユリウスの言葉にカインの眉が、わずかに動いた。
しかし口は挟む事はなく、その沈黙が語りやすさをくれる。
「最初に気づいたのは、エドガーの妹――リリアーナでした。あの子は、優しくて、真っ直ぐな人でした。「あなたを兄の駒にしないで」って泣いて止めてくれた……でも、もう遅かったんです」
ユリウスは目を伏せた。
手が、ひどく冷たい。
「兄のエドガーは……最初から、私を『所有』するつもりでした。家の取引なんて口実で最初から『個人として』欲しかったんです」
カインの指先が、膝の上でわずかに震える。
だがユリウスは気づかない。
ただ、止まらない言葉を吐き出していた。
「何度か、会うたびに――」
そこまで言って、ユリウスは唇を噛み、視線を逸らした。
「……手を出されたことがあります」
空気が、一瞬で変わる。
ランプの炎が小さく揺れ、壁に映る影が長く伸びる。
「「これは愛情だ」って、笑いながら言ってきました。拒めば「恩を忘れたのか」って……怖くて、何も言えなかった」
頬をなぞるように、かつての手の感触が蘇る。
皮膚の奥まで残る、あの嫌悪と寒気。
「――だから、私はあの家……リドフォード家を捨てたんです……誇りのためじゃない。怖くて、どうしようもなかった。誰かの所有物になるくらいなら……全部失って、没落した方がまだマシだった」
ユリウスの話にカインは拳を固く握っていた。
その白い指の節が浮かび上がり、血の気を失っている。
だが彼は、怒りを飲み込むように静かに言った。
「……言ってくれて、ありがとう」
その言葉が、ユリウスの胸に落ちる。
拒絶も、同情もなく、ただまっすぐに受け止める声だった。
「……カイン、怒らないんですか?」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
「怒ってる」
短い言葉をカインは言う。
しかしその声音には、底知れぬ熱が潜んでいた。
「……あの男の指が、お前に触れたことも。お前がそれを思い出して怯えてることも――全部、許せない」
その静かな怒りは、刃物よりも鋭い。
ユリウスは思わず息を呑む。
「……でも、俺が今ここにいるのは、あの時逃げてくれたお前のおかげだ」
カインは立ち上がり、ユリウスの前に膝をついた。
「お前が傷ついた過去を、俺が壊したくない。同じように『所有』なんて言葉で縛りたくない……だから――」
手を伸ばし、ユリウスの頬にそっと触れる。
その仕草は、あの夜のエドガーとは真逆だった。
痛みではなく、温もりだけをくれる触れ方。
「俺は、お前を大切にしたい。壊さないように、何度でも守りたいんだ」
ユリウスの瞳が揺れる。
胸の奥に何かがじんわりと広がり、息が詰まった。
(……同じ『触れる』なのに、どうしてこんなに違うんだろう?)
目から涙がこぼれそうになる。
でも、それは哀しみではなくようやく解けた氷のように。
「カイン……ありがとう」
小さく囁いた声が、静かな部屋に溶けていく。
ランプの灯が二人を包み、夜が優しく沈んでいった。
ユリウスは自室の窓辺で、ひとり静かに紅茶を冷ましていた。
昼間のエドガーの言葉が、まだ耳の奥でこびりついている。
(……『また来る』なんて、何を考えてる)
胸の奥で、微かに鈍い痛みがした。
あの声を聞くだけで、身体の奥が冷たくなる。
忘れたと思っていた感覚が今も確かに残っていた。
カップを置き、深く息を吐く。
それでも胸のざわめきは消えず、気づけば廊下へ足が向いていた。
カインの部屋の前に立つ。
扉の隙間から、かすかな灯りがこぼれていた。
「……起きていますか、カイン?」
小さな声で呼ぶと、即座に「入れ」と返る。
扉を開けると、カインがソファに座っていた。
ランプの光が彼の横顔を淡く照らしている。
机の上には、飲みかけの紅茶と一冊の本。
いつものように整然としていた。
「眠れないのか」
「……たぶん、あなたもでしょ」
そう言って、向かいの椅子に腰を下ろす。
数秒の沈黙。ランプの火が揺れる音だけが響いた。
「少し、その……話しておきたいことがあるんです」
ユリウスの声は、微かに震えていた。
カインはただ頷き、言葉を挟まずに待つ。
それだけで、語る決意が少しだけ楽になる。
「……昔、私とリドフォード家の婚約が決まった時、表向きは『借金の肩代わり』と『家の救済』でした……でも、あれは違ったんです」
ユリウスはカップを見つめ、唇を噛んだ。
喉の奥がひどく乾く。
「リドフォード家は、うちの財産を吸い取る気でした。『没落した令息を救ってやる』って名目で、実際は……私を商品にするつもりだったんですよ」
ユリウスの言葉にカインの眉が、わずかに動いた。
しかし口は挟む事はなく、その沈黙が語りやすさをくれる。
「最初に気づいたのは、エドガーの妹――リリアーナでした。あの子は、優しくて、真っ直ぐな人でした。「あなたを兄の駒にしないで」って泣いて止めてくれた……でも、もう遅かったんです」
ユリウスは目を伏せた。
手が、ひどく冷たい。
「兄のエドガーは……最初から、私を『所有』するつもりでした。家の取引なんて口実で最初から『個人として』欲しかったんです」
カインの指先が、膝の上でわずかに震える。
だがユリウスは気づかない。
ただ、止まらない言葉を吐き出していた。
「何度か、会うたびに――」
そこまで言って、ユリウスは唇を噛み、視線を逸らした。
「……手を出されたことがあります」
空気が、一瞬で変わる。
ランプの炎が小さく揺れ、壁に映る影が長く伸びる。
「「これは愛情だ」って、笑いながら言ってきました。拒めば「恩を忘れたのか」って……怖くて、何も言えなかった」
頬をなぞるように、かつての手の感触が蘇る。
皮膚の奥まで残る、あの嫌悪と寒気。
「――だから、私はあの家……リドフォード家を捨てたんです……誇りのためじゃない。怖くて、どうしようもなかった。誰かの所有物になるくらいなら……全部失って、没落した方がまだマシだった」
ユリウスの話にカインは拳を固く握っていた。
その白い指の節が浮かび上がり、血の気を失っている。
だが彼は、怒りを飲み込むように静かに言った。
「……言ってくれて、ありがとう」
その言葉が、ユリウスの胸に落ちる。
拒絶も、同情もなく、ただまっすぐに受け止める声だった。
「……カイン、怒らないんですか?」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
「怒ってる」
短い言葉をカインは言う。
しかしその声音には、底知れぬ熱が潜んでいた。
「……あの男の指が、お前に触れたことも。お前がそれを思い出して怯えてることも――全部、許せない」
その静かな怒りは、刃物よりも鋭い。
ユリウスは思わず息を呑む。
「……でも、俺が今ここにいるのは、あの時逃げてくれたお前のおかげだ」
カインは立ち上がり、ユリウスの前に膝をついた。
「お前が傷ついた過去を、俺が壊したくない。同じように『所有』なんて言葉で縛りたくない……だから――」
手を伸ばし、ユリウスの頬にそっと触れる。
その仕草は、あの夜のエドガーとは真逆だった。
痛みではなく、温もりだけをくれる触れ方。
「俺は、お前を大切にしたい。壊さないように、何度でも守りたいんだ」
ユリウスの瞳が揺れる。
胸の奥に何かがじんわりと広がり、息が詰まった。
(……同じ『触れる』なのに、どうしてこんなに違うんだろう?)
目から涙がこぼれそうになる。
でも、それは哀しみではなくようやく解けた氷のように。
「カイン……ありがとう」
小さく囁いた声が、静かな部屋に溶けていく。
ランプの灯が二人を包み、夜が優しく沈んでいった。
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