没落令息は、元許嫁の護衛騎士に買われ所有物になりました。

桜塚あお華

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第37話 誘拐と追跡

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 風が少し強くなってきた。
 雲が流れ、カフェの庭先に差していた陽光が、一瞬だけ翳る。
 ユリウスは、カップの中で冷めかけた紅茶を見つめながら、小さく息を吐いた。

(……あいつ、遅いな)

 カインが席を立ってから、もう十五分近くが経っている。
 「すぐ戻る」と言っていたのに。
 紅茶の表面に映る自分の顔は、どこか落ち着かない。

「……少し、外の空気を吸うか」

 そのように呟いた後、ユリウスはカップを置き店の外へと出た。
 午後の光は柔らかく、石畳の道には小さな影がいくつも並んでいる。
 行き交う人々の声、風に揺れる看板の音、いつもなら何でもない日常の風景が、なぜか今日は遠くに感じられる。

(……カイン、何してるんだよ)

 ほんの少し、不安が胸をかすめた。
 その時だった。

「――おい、そこの兄ちゃん」

 唐突に、背後から声がかかった。
 聞き覚えのない声。
 振り返ると、通りの角に数人の男たちが立っていた。
 粗末なコートに帽子を目深にかぶり、目つきの悪い笑みを浮かべている。

「……俺になにか用ですか?」
「ちょっと話を聞きたくてな。あんた、さっきカイン卿と一緒にいただろ?」

 その名を聞いた瞬間、ユリウスの背筋が強張った。
 彼らの視線が、明らかに品定めをしているような――いやらしい光を帯びていた。

「……何のつもりですか?」
「お前、知らねぇのか?「カイン様に囲われている元令息の男」って、裏の連中でちょっとした噂なんだぜ」
「……噂?」
「高値で売れるんだってさ。「カイン卿の所有物」を手に入れたいって言う貴族が、けっこういる」

 ゾっとするような言葉だった。
 まるで過去に戻ったような、嫌な感覚が蘇る。
 ユリウスの喉が、ひゅっと細く鳴った。

「……私は誰のモノでもありません。二度と、そういう話に乗るつもりも――」
「へぇ、口が立つじゃねぇか。まあ、黙って来てもらうぜ」

 男の一人が、ユリウスの腕を乱暴に掴んだ。
 体が反射的に動き、思い切り振り払おうとしたが――

「っ……!」

 思った以上に力が強い。
 抵抗しても逆に背中を押され、石畳に倒れ込む。

「やめ――!」

 叫ぶより早く、背後から布が口を塞いだ。
 鼻に刺すような薬品の匂い。
 視界が少し霞む。

(……まずい、逃げないと……!)

 腕を振り上げた瞬間、男たちが一斉に動いた。
 あっという間に、路地裏へと引きずり込まれる。

 通りから離れた薄暗い小道。
 石の壁が湿っていて、冷たい。
 ユリウスは必死にもがいたが、腕をねじ上げられ、息が詰まる。

「こいつ、静かにしねぇと痛い目見るぞ」
「さっさと馬車に乗せろ。客は待ってる」

 逃げ場も、声を上げる余裕もない。
 恐怖よりも、悔しさの方が先に込み上げた。

(……俺、また……あの頃のようになるのか?そんなの嫌だ!)

 そう思い、抵抗しようとしたその時――空気が、変わった。
 路地の入口、風が一瞬、逆方向に吹き抜ける。

「――その手を離せ」

 低く響く声、その声を聞いた瞬間、ユリウスの胸が跳ねた。

「カ、イン……!」

 そこに立っていたのは、怒りを押し殺したカインだった。
 表情は凪のように静か。だが、その目だけが燃えるように鋭い。

「なんだ、てめぇ――!」

 男たちが武器を抜く間もなく、カインの体が動いた。
 風を裂くような速度で、一人の顎を打ち上げ、もう一人を壁に叩きつける。
 剣を抜く音が、空気を裂いた。
 返り血ひとつ浴びぬまま彼は淡々と動き、確実に相手を無力化していく。
 それは戦闘というより、『処理』に近い。
 感情がないように見えて実際には――静かな怒りがその背中に滲んでいる。

「ふざけんなっ、たかが愛人一人に――」

 最後の一人が、叫びかけたその瞬間。

「『愛』を、たかがと言ったな」

 氷のような声音――その一言だけで、男の体が硬直する。
 次の瞬間、カインの拳が、音を立てて頬を打ち抜いた。
 鈍い音が聞こえる。
 そして、その後沈黙だった。
 路地には、風の音だけが残った。
 カインは剣を納め、ゆっくりとユリウスに近づく。
 その歩みは慎重で、まるで傷ついたものに触れるようだった。

「ユリウス……」

 呼ばれた名が、震えるように響く。
 ユリウスはその声に、張りつめていた息をようやく吐き出した。

「……へ、平気、です」

 そう言いながらも、腕が小さく震えていた。
 カインが迷いなくその腕を掴み、強く引き寄せる。

「遅くなった……怖かっただろう、本当に悪かった」

 その声は、いつになく低く、震えていた。
 抱きしめられた胸の中で、ユリウスは一瞬だけ目を閉じる。
 鼓動の音が近い。温かい、体中の力が少しずつ抜けていく。

「……お前が来るって、思っていました。信じてたから」

 小さく呟いたその言葉は、カインの胸元で消えた。
 彼の腕が、さらに強く回される。

「――もう二度と、誰にも触れさないから」
「……別の意味でそれ、監禁させられます?しませんよね、カイン」
「……」
「あの、こっち見てくれませんか?どうして目線をそらす!!」

 ユリウスの言葉に対し、カインは何も言わず視線を外したままだった。
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