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〝 藍〟 1話 出会いは雨の中
しおりを挟む降ってくるのは、いつも厳しい言葉の雨。
ただひたすらにそれを受け入れ、必死に勉強し続ける淡々とした日々。
今年で中学生になった藍は、引き取られた藤田の元で生活を送っていた。大通りの裏にひっそりと建つマンションの、その四階に二人暮しだった。周りは閑静な住宅街で、稀に近くの公園から子供の楽しそうな声が響くような、そんな場所であった。
藍が通う中学校までは徒歩20分程度で、毎日一人、その通学路を歩いていた。友達は数人居たが、皆別方向だったからだ。しかし、不運な事に藍と同じ方向には同じクラスの体格の良く活発で横暴な男子...所謂いじめっ子がいた。初めて下校中に鉢合わせた時以来、暴力は振るわれてはいなかったものの、鞄を投げられる等の軽いいじめを彼から受けていた。藍にとって別にそれは大したことではなかったが、1度そのせいで門限を過ぎて叱られて以来、極力避けて登下校をするようになった。
そんなある日の下校中、例のごとくあのいじめっ子が子分らしき同級生に鞄を持たせて、自分が王だとでも言わんばかりの顔で道の真ん中を歩いていた。他にも生徒はちらほらいるものの、上級生でさえ関わりたくないという顔で大通りの角を曲がり、わざわざ回り道をしていた。
このまままっすぐ帰れば門限に間に合う。だがどうしてもあの集団を追い抜かそうとすると門限を軽く超えてしまう。どうしようかと悩み、ふと上を見上げると、さっきまでの藍を薄く溶かしたような澄んだ青空と打って変わり、重く湿り気の含んだ灰色の雲が夕日を連れて頭上を覆い隠していくのが見えた。
(傘を持ってきてない...)
慌てて鞄を確認したところ、課題の問題集や筆記用具、板書用ノートやプリント類が分けられて入っているファイルなどしか見当たらない。不覚だった、彼は溜息をつきながら急いで角を曲がり、家まで走ることを決めた。
裏の通りを駆けていくと、次第に雲の色が深まりパラパラと雨を落としていくようになった。藍は鞄を肩からおろし、抱え込むように持ち直した。自分が雨に濡れるのはさして問題ではない。問題なのは、鞄の中身が濡れてしまうことだ。百歩譲って教科書類は乾かせば読めるだろうが、ノートやプリント類はペンのインクが滲んだり紙がよれたりして使い物にならなくなる可能性が出てくる。わざわざ買い直して貰うなんてことは出来ないので一番優先すべきなのがこの鞄なのである。
家まであと半分...そういったところで本降りになってきた。前髪は濡れて額に張り付き、まだ新しい制服は水を含んで重くなっている。鞄を守るように走るのも限界のように思えた。
(──雨宿りできるところは...)
この辺りは住宅街で、一軒家が多い。近くにエントランス等があるマンションは見当たらない。
もう一度見渡したとき、右手奥に古民家らしき建物が目に留まった。塀で囲まれて中はよく見えないが、門には大きめの瓦屋根がついており、戸が雨に濡れるのを防いでいる。
(...あれは屋根だけど...でも...)
他人の門前で雨宿りをするのは如何なものか。
江戸時代以前ならばまだしも…抵抗がある。が、悩む暇はなかった。
(少しだけ...少しだけだ。今日は怒られるしかない。)
覚悟を決め、その屋根の下へ駆け込んだ。髪から水が滴り、まだ濡れていなかったであろう地面を染めていく。
急いで鞄を手放し濡れていない地面へ置くと、その中からタオルを取り出して体を拭いていった。
.........
......
キャッ!
体を拭き終え、暫くボーッとしていると突然小さな悲鳴が聞こえてきた。門扉は格子戸らしく、向こう側がぼんやりと確認できる。もしかすると家主が自分に驚いたのかもしれない、叱られるだろうか。振り返って見てみると、傘もささずに庭に立っている女性がいた。遠くてよく見えないが、恐らく女性もこちらを見ている。
雨はまだ振り続けているが、家主から藤田の家に苦情を入れられる方が問題だ。
(...仕方ない、行くか)
覚悟を決め、鞄を手にかけた。しかしその瞬間、
「待って!!...傘を持っていないの...?」
そう言いながら声の主がこちらへ向かってきた。
(傘を持ってないというか傘をさしていないのは貴方もでしょう...、逃げるか...?)
躊躇った。
ガラッ
「......やっぱり。子供が雨の中にいては風邪をひいてしまうわ。庭へお入りなさい。」
そこに立っていたのは、20代前半くらいの美しい女性だった。もしかしたらもっと若いかもしれない。
雨が滴る髪は色気を帯び、薄藤の着物は景色に溶けるように彼女を包んでいる。白く透き通った肌は線が薄く、濡れ羽色の髪とのコントラストは雨の中でも輝きを放っていた。また、品の良い端正な顔が一層この世とかけ離れたような美しさを際立たせていた。
「...あの、帰らないといけないんです。」
細い手に引かれた腕を留める。
「...その、門限が。」
女性はクルリと振り返り、少年に悲しそうな顔を向けた。ただ、腕を掴む手は離さない。
(...いや、もう門限は過ぎているか。)
「...では、お言葉に甘えます。」
そう言った瞬間、華が咲いたような笑顔を少年に向け、もう一度腕を引いてきた。
身を任せながら門をくぐると──、そこは紫陽花が一面に咲く浮世離れした庭が現れた。
どの紫陽花も美しく花を咲かせ、まるで海が広がるようだ。石畳に迫るように埋め尽くされた紫陽花は、さっきまでの葛藤を一瞬のうちに飛ばしていった。青、薄青、紫、薄紫...ピンクもある。1点の濁りもない色がまだ未熟な心に侵食していった。遠くには母屋らしき影が見えるものの、その周りもすべて紫陽花が覆い尽くしている。別世界...そんなような考えが頭をよぎった。
石畳の上を歩き庭の裏手に回ると、紫陽花の中に埋もれる小さな東屋が顔を見せた。女性は指を指し、先に行くようにと背中を押した。歩き始めると、女性は勝手口の方へ向かい中へと入っていった。
東屋に踏み込むと、振り返り、彼女が消えていった勝手口を見つめた。
そして、ポツリとこう零した。
「紫陽花の妖精......」
雨はまだ降り続ける。
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