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〝 藍〟 2話 溶ける青
しおりを挟むしばらくすると、その女性は臙脂色の傘をさしてこちらへ戻ってきた。さっきとは違い、手に白いタオルを二枚持っている。
彼女は軽く雨を落とすと傘を畳み、正面の椅子に腰掛けた。
「はい、これ。雨宿りしてたみたいだけどまだ濡れてるでしょう?使って頂戴。」
「...すみません、洗って返します。」
「んーん、いいのよ!あげるわ。」
申し訳ない、そう思った。ただ雨雲が過ぎるまで待とうとしただけなのに、初対面の人に借りを作ってしまった。罪悪感で顔を曇らせる。
シミ一つない真っ白なタオルを受け取り、学ランの上着を脱いだ。やはり持っていたタオルだけでは水気は拭き取れなかったようだ、水が絞れるくらいは重くなっている。
着ていたシャツにも雨が軽く染みていた。初夏だというのに、まだシャツ1枚だけでは冷えるらしく、身震いをする。悟られないようにと、ゆっくりとタオルで拭き始めた。
「...ねぇ、貴方は堅川中学校の生徒さん?」
タオルで拭くのをじっと見つめながら、彼女は言った。丸く曇りのない瞳が藍を見つめる。
「...はい、そう、です。知り合いがいるとか?」
「ううん、そうじゃないの。制服を見かけたことがあるだけ。」
「そうですか、近くですもんね。」
「......ええ、そうね。」
また静寂が戻る。さっきまで藍を見つめていた瞳は微かに揺れ、庭に咲き誇る深い紫陽花たちに焦点をずらした。
(不思議な人だな...、今にも消えてしまいそうだ)
拭き終えたタオルを木製のテーブルの上に畳み、彼女を見つめた。何故だろうか、何か話しかけないと今にも紫陽花の中に溶けてしまいそうな......そんな気がする。
何か、話題を出さなければ。
「っあの、お姉さんの名前を聞いてもいいですか。」
俯きがちに、言葉を発する。声が小さかっただろうか、聴こえているだろうか.........、頭にそんな疑問がよぎる
...1秒
......2秒。
聴こえているだろうか、雨の音に掻き消されたのではないだろうか......それとも、拒絶。
「あっ、あのやっぱり」
「紫陽花さんと呼んでちょうだい。紫陽花よ。」
────目が合った。
彼女の瞳には僕と紫陽花が映っている。
なんて美しい瞳なんだろう。目が離せない。
もっと近くで見たい......もっと────
「...それで、」
「貴方の名前は教えてくれないの?」
ハッと我に返ると、いつの間にか彼女との距離は20センチほどに詰まっていた。慌ててベンチに座り直し、呼吸を整える。熱い。まだ初夏だというのに。
(...何やってるんだよ僕)
胸に手を置き、心を鎮めた。
今のは何だったんだろうか。いや、今はそれよりも...
「僕の名前は藍"アイ"...です、紫陽花さん。」
まただ。微かに瞳が揺れ、目尻が下がる。
「藍くんね。分かった。素敵な名前ね。」
「...はい。両親が、付けてくれた名だと聞いたので。大切な名前です。」
机に畳んだタオルを人差し指で弄りながら答えていく。もう1枚持ってきたであろうタオルは、彼女が未だに抱えている。
(...話題、話題......でも僕ニュースしか見ないし...年上の人の、しかも女の人と話せそうな話題なんて......ハア...)
藍は思考を巡らせた。さっきとは異なり、別に彼女が消えてしまいそうだとか...そんなことは思っていない。それよりも少年自身、人と接するのが不得意ではなかった。家で口を開くことがある時は、大体テストや政治の話くらいか。学校で友人と話す時は、大抵聞き手に回っていた。そのくらい話題がなかった。
だが、そんな沈黙を彼女は打ち消した。
「藍...藍くんは、どんな教科が好きなの?」
(え?)
「教科...って、学校とかの?」
「そう、どんな教科が好き?国語?算数?」
一気に詰め込んでいたものが溢れ出したような気がした。笑顔で藍を見つめ、指を絡ませて今か今かと答えを待つ。仕草は格好に似合わず、丁度高校生のようだ。藍は頭を掻き、質問の答えを考えていく。
「そうですね、算数っていうか数学...は好きです。英語も。」
紫陽花は絡ませていた指を解き、人差し指を軽く唇に添えた。
「あっそうね、中学校は数学ね。じゃあ藍くんは理系かな?あ、でも英語も好きなら文系もアリね!いいなぁ、私も中学に戻りたい...!」
顔を綻ばせながら楽しそうに語っていく。自分は文系だったとか、好きな給食はカレーだったとか。水泳が嫌いで、よく体調不良で誤魔化していたとか。
藍は、驚きながらも相槌を打っていった。心底ついていけない話題でなくて良かった、と胸を撫で下ろす。
チラリと横を見ると、まだ雨は止みそうにもなかった。
──────────────────────
...あれから何分たっただろうか、気がつくと曇天の空から光が差し込み、雨は小降りへと変わっていた。
差し込んだ光は紫陽花の一角を照らし、その彩度を高める。深く、鮮やかな青だった。
藍と紫陽花は談笑していた。些細な出来事で盛り上がり、緊張が溶けているようだった。
しかし突然、何かを思い出したかのように紫陽花は目を見開いた。
「ッ...もう、雨が上がるね!引き留めてごめんなさい、タオルはいいから...早く帰りなさい。」
抱えたタオルは形を歪ませ、彼女の指を飲み込んでいく。肩を震わせ、焦ったように立ち上がり、門への案内をしようとする。
「ど、どうしたんですか?」
「......何も聞かないで、真っ直ぐ家まで帰って頂戴。戻らないで。」
一体どうしたというのか。勿論、雨が上がれば帰るつもりではあったものの、彼女の動揺っぷりに違和感を覚えた。
しかし、藍はそれ以上言及する気もなかった。帰れと言われて嫌ですなど言えないし、これ以上遅くなれば藤田との約束を破ることになる。
「...はい、それじゃあ...失礼しました。」
まだ湿った学ランを羽織り、鞄を持ち上げる。
再び彼女と共に紫陽花の海に囲まれた石畳を歩き、門へと戻った。無言だった。
門扉に着くと、彼女がガラガラと門を開けてくれた。動かした腕は、日の光を反射して淡い光を帯びていたように見えた。
「じゃあ、ありがとうございました。またお礼に来ます。」
ぺこりと頭を下げ、門をくぐった。そして、そのまま歩きだそうとした...その時
「来ちゃダメよ、紫陽花の咲く季節にまたいらっしゃい。」
(来ていいのか駄目なのか分からないな......でも)
「はい、分かりました。また紫陽花の咲く頃に。」
振り返り、僅かに口角を上げて答えた。門扉は既に閉まっていて、格子戸が彼女の表情を隠す。しかし、彼女は微かに笑っているような...そんな気がした。
そして、中一の夏は過ぎていった。
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