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18話 決意と……
部屋には僕たちしかいない。
「もう一度話し合え」
そう言ってグレイ伯爵が出ていった。部屋には彼の残した沈黙と重い空気が漂っていた。
さっきまで温かく感じていた窓から差し込む光さえ、どこか冷たく感じる。
沈黙を破ったのはオリバー様だった。
「アッシュ、どうしてもだめなのか?」
「……はい」
「俺は、君じゃないと嫌だ」
震える声。
抱きしめられた肩口に顔を埋め、熱い体温が痛いほど優しく伝わる。
その熱が痛いほど優しくて、目を閉じると目頭が熱くなる。
「オリバー様。……長く期待をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
唇が乾く。
吐き出すごとに辛さで喉の奥が裂けるようだった。
「もう希望はないのか? 俺の、どこがいけなかった? あの時、間違えたから?」
「それについては、もう何のわだかまりもありません」
「だったら、どうして……?」
どうして――。
その一言が、胸の奥に突き刺さる。
僕の胸に、罪悪感として突き立っているものがある。
クロイツがグラフィカに持ちかけた契約だ。
この婚約にまつわる正確な契約内容を、以前オリバー様に尋ねたことがある。
けれど彼の口は重かった。
どうしても知りたくて、何度もせがんで、ようやく話してくれた。
その中身は、噂で聞いたよりもずっと酷かった。
一方的な価格決定権。異議を唱えられない条項。
何度も断った婚約を強引に押しつけ、それすら恩着せがましく、クロイツにだけ有利な条件を山ほど積み上げた契約。
要するに、グラフィカをしゃぶり尽くすためだけの紙切れだった。
両親が生きていたら、絶対に許さなかった非道な行為。
もし、ここへ来る時にその内容を知っていれば、出会い頭に土下座で謝っていただろう。
実際、詳細を知った時の僕は血の気が引いて、即座にオリバー様に頭を下げた。
初対面に冷たく当たる程度の八つ当たりで済ませてくれたのは、寛大だったと今なら思う。
あの時の僕は、彼から見れば「酷い契約を押し付けて来たクロイツの一員」だったのだから。
知らなかったとはいえ、申し訳ないことをしてしまった。
屋敷を飛び出した僕がここで薬を作ったことで、契約のほとんどは意味をなさなかった。
図らずも伯父の企みを潰したことになったんだけど。
それでも、罪悪感が消えるわけではない。
それなのに。
彼は僕へ謝罪するとき、言い訳ひとつせず、ただ誠実に自分の非を詫びた。
その姿を思い出すと、余計に胸に刺さる。
本当に責められるべきは、僕の方なのに。
そう言った僕に、オリバー様は「アッシュは何も悪くない」と笑ってくれた。
抱きしめてくれるオリバー様の温もりに目を閉じる。
嗅ぎ慣れてしまった優しい香りが胸を満たす。
これも、もう最後だ。
この人にここまで想ってもらえたことを誇りに思う。
「アッシュ……」
焦れた様に僕の名前を呼ぶ。
顔をあげてオリバー様の優しい緑色の瞳を見つめた。
「オリバー様……」
僕はためらいながら口を開く。
オリバー様は素晴らしい人だ。
為政者としても、騎士としても、一人の人間としても。
時に頑固で、強引で、融通が利かなくて、面倒くさい。
けれど、だからこそ真っすぐで、誠実で、誰よりも弱いものに優しい人。
オリバー様に望まれることを嬉しいと思い始めたのはいつだっただろうか。
結婚相手としてこれ以上はない。
でも、彼は辺境伯だ。
この国を守る、防壁の中心。
彼の伴侶に求められるのは、血筋や家格、そして政治の力。
落ちぶれたクロイツ男爵家。
その一員である僕が、そんな大切な立場にいる彼の隣に立てるわけがない。
もし両親が生きていて、健全なクロイツ領のままだったなら。
この婚約は、誰もが認める縁談だっただろう。
だが今、クロイツ領は伯父の手の中で腐っていっている。
そんな場所と縁続きの僕がいることで、彼の名誉を汚すわけにはいかない。
伯父は金と権力に取りつかれている。
そのためには手段を選ばないのはあの契約で分かった。
このまま婚約状態を続けていれば、近い将来強欲な伯父の魔の手が再びオリバー様にまで伸びるはずだ。
それを想像するだけで背筋が凍る。
グラフィカとオリバー様を今度は僕が守るんだ。
ここに来て四年。
仲間ができた。反撃する力も備わった。ようやく、動き出す準備が整った。
僕がクロイツを取り戻そうとしていることを打ち明ければ、オリバー様は迷いなく手を貸そうとするだろう。
もし最初から婚約者としてしっかり絆を築いていたなら、もう妻となっていたなら、その手を借りる道も選べたかもしれない。
けれど僕は、ここまでずっと婚約者としての立場を受け入れてこなかった。
いくらオリバー様が婚約者として扱ってくれても、その肩書きを拒み続けたのは僕。
都合のいい時にだけ頼るには、あまりにも中途半端すぎる。
だから、彼に甘えるわけにはいかない。
これは、どこまでいっても僕の都合でしかない。
クロイツを取り戻すと決めたのも、彼を伯父の手から遠ざけたいと思ったのも。
全部、僕が勝手に選んだことだ。
オリバー様の隣にいる未来か、両親の残した領地か。
どちらかひとつしか選べないのなら――。
僕は、クロイツ領を選ぶしかない。
あそこを取り戻すのは僕にしか出来ないことなんだ。
正統なクロイツの名を持つ者として、あの土地を見捨てるわけにはいかない。
そっとオリバー様の肩を押すと、抵抗なく離れていく。
それが、寂しい。
この人の隣にいる権利を永遠に失う。
そんな時になって、僕はようやく自分の気持ちを思い知った。
本当は誰よりもあなたと共にありたい。
だからこそ――。
「今の僕は、あなたに相応しくない」
自分の声が思っていたよりも弱く、哀しかった。
次の瞬間、もう一度強く抱きしめられる。
痛いほどに、熱い。
息が胸の奥で詰まる。
「……それでも、俺は君を諦めない」
耳元で囁かれる低い声。
この人は、いつだって真っすぐで、だから苦しい。
「頑固ですね」
「知ってるだろ」
「はい」
知らないわけがない。
この四年間で、思い知った。
「でも……婚約は、これで終わりです」
わずかな沈黙のあと、彼が唇を噛むようにして頷いた。
「……わかった」
絞り出されたその声に、胸が張り裂けそうになる。
これでいい。これでいいはずなのに。
「アッシュ」
優しい声に、思わず顔を上げる。
「キス……していいか?」
その問いは、別れの儀式のようだった。
「はい」
ためらうことなく返事をする。
唇が重なり、触れた瞬間、ついに涙が零れた。
塩辛い涙混じりの味が、静かな熱と共に流れ込み、最後のひと欠片まで心を燃やしていくようだった。
「……ん、ふ……」
離れてしまえば、この温度も記憶も薄れてしまう。
だから、少しでも長く覚えていたくて。
何度も、何度も、自分から唇を重ねた。
やがて彼が顔を離し、微かに笑う。
目尻にわずかな涙を光らせながら、柔らかく笑うその顔が。
ひどく綺麗で、ずるかった。
「……それでも、俺は君を好きで、諦められない」
囁かれたその言葉が、胸の奥にしみこんで消えた。
涙がいっそう止まらなくなった。
ああ、本当は。
僕も同じ気持ちなのに。
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