アクアヴェルン 婚約破棄された令息は隣国で護衛騎士に溺愛される。

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4話 ゆらり揺られて

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 ガタゴトと座面の下から響く振動。
 車輪が石を踏みしめ、幌の布が風を含んで静かに揺れる。

 高級馬車のなめらかな走りに慣れた僕には、このぎこちない揺れも木のきしむ音も、どこかくすぐったく心地よかった。
 きっと、これが生きている音なのだと思う。
 体の奥にこびりついていた緊張が、振動にほぐされていくようだった。


 乗合馬車の荷台には、両側に長椅子が据えつけられている。
 まだ席には余裕があり、僕らは最後に乗り込み、後ろの少し離れた席に腰を下ろした。
 ラステアは出入口に近い位置を選び、視線を外へ配り続けている。
 いつでも僕を守れるように。従者ではなくなっても、それは変わらない。

 向かうのは西の宿場町。国境を越えるには4日ほどかかる。
 各宿場で馬車を乗り継ぎながら、少しずつ距離を重ねていく予定だ。
 視察で通ったことはあっても、自由に街を見たことはない。
 制限のない旅は初めてで、胸が期待で膨らむ。

 馬車の中は行商人や旅人の話し声でほどよく賑わっていた。
 雑多な声に包まれながら揺れていると、ラステアが小さく息を吸って意を決したように話しかけてきた。

「あの……クリス」
「なぁに?」

 誰もこちらには注意を向けていない。
 けれど、ラステアの声が微かに震えていたから、僕も自然と声を潜めた。
 ふたりだけの秘密を分け合うみたいで、少しだけ楽しくなってしまう。

「婚約破棄の……経緯を、聞いてもいいか?」
「うん、いいよ」

 僕が王都を飛び出してここに居るその真相を知りたいんだろう。
 ラステアの瞳にあるのは好奇心ではなく、僕を想う痛いほどの優しさだった。

 その眼差しに背中を押されるように小さな声で話し始める。

 夕陽が傾き、馬車の影が長く伸びていた。
 差し込む光が、ラステアの金の瞳に小さな火を灯したように見える。
 その色があまりにもきれいで、僕はこっそりそれを見つめながら口を開いた。

「パーティが始まってすぐ、ラカルド様とその取り巻きが壇上に上がったんだ」
「……」
 ラステアは僕の顔をじっと見つめていた。
 表情の揺らぎを1つでも見逃すまいとしているように。

「あの噂のあった平民ヴェイルの子の腰を抱きながら、『お前との婚約は破棄だ』って」
「そんな……大勢の前で、なんということを」
「ただの辱めだよねぇ」

 その瞬間のざわめきと、足元が崩れるような感覚を思い出す。
 けれど、今の僕はもう泣いていない。
 もしまだラカルド様を好きだったなら、今こうして笑う余裕なんてなかったはずだ。
 きっと部屋へ戻りしゃがみこんで、みっともなく泣き崩れていたに違いない。

「それで、僕がやってもいない嫌がらせとか、意地悪とか……たくさん言ってた」
「クリスがそんなことをするはずがない!」

 ラステアの声が低く震えた。
 拳を握り締める音が聞こえるほどだ。
 金の瞳が怒りに燃え、普段の冷静さが消えている。
 僕のために怒ってくれている。ただそれだけで、胸が痛いほど嬉しかった。

「その場に居たなら、切ってやったものを」
「やめてよ。ラステアが死罪になっちゃう。そうしたら、誰が僕のそばにいてくれるの?」
「……そう、ですね」
「ほら、敬語出てる」
「ああ、すまない」

 彼は一度、深く息を吐いて落ち着きを取り戻す。
 怒りの余熱だけが空気の中に漂っていた。

「目の前が真っ暗になったよ。誰も僕の言うことなんて聞いてくれなかった。味方なんて1人もいなかった」
 声を出すたびに当時の息苦しさが蘇る。
 僕よりも学園で馴染んでいたラカルド様の言葉は、簡単に信じられた。
 ただ冷たい視線の中に立ち尽くすしかなかった。

「……クリス」

 その一言が、思いのほか優しく響いた。
 ラステアの指が微かに震えている。
 まるで、僕の痛みを自分に移そうとしているみたいだった。

 何かを言いかけたけれど、彼は口を閉じた。
 代わりに、僕の名をまた1度。
 細く、掠れた声で呼ぶ。
 たったそれだけで、理屈抜きに涙が溢れそうになる。

 この人だけは、いつだって僕の味方でいてくれた。
 どんなに惨めな瞬間も、僕に寄り添ってくれていた。
 その事実だけで、胸の奥が温かくなる。

 彼の拳が白くなるほどに握り締められていて、その爪が皮膚に食い込んでいるのが見えた。
 そんなに痛そうな顔をしないで、もう大丈夫なんだ。
 そう思いながら、僕はラステアの手をそっと包み込む。
 熱を帯びた指先が、触れた瞬間わずかに震えた。

「クリス?」
「でもさ、急に全部がどうでもよくなったんだ」

 安心させるように笑いかけると、ラステアの瞳がさらに揺れる。
 その小さな震えの中に、どれほど僕を思ってくれていたのかが分かって、胸が締めつけられた。

 僕はかつて、狂気じみたほどラカルド様を愛していた。
 それはまるで、生きるために必要だった熱のようなものだった。
 けれど今振り返れば、あれはきっと、行き場のない感情を誰かに押しつけるような愛し方だったんだと思う。

「本当に何ともないの。僕、きれいさっぱり、あの人を好きだった気持ちが消えちゃって」
「……なぜ……」

 ラステアの問いには、驚きよりも戸惑いが混じっていた。
 どれだけ『自分を大切にしてほしい』と伝えても、僕は耳を貸さずにラカルド様へ追いすがってきたから。
 だから今の僕が信じられなくても仕方ない。

 でも、本当にそうなんだ。全部、くだらないことで崩れ去ったんだ。

「それがさ……」
 僕はラステアの方へ少し身を寄せ、小声で続けた。

「学園での愛の日々とか、やってもいない僕の罪状とか、とにかく大演説してたラカルド様の鼻の……ぶふっ」
 途中まで言って、耐え切れずに吹き出した。

「……鼻の?」
「鼻の穴にね……ふふっ、鼻毛がね……」
「……鼻毛」
「息をするたびに、ぴろぴろ~って。あんなに麗しい顔なのに……ふはっ」

 壇上に立つラカルド様。
 照明の角度なのか、光が神々しいまでの演出をして、彼の鼻毛は見事に輝いていた。
 あまりの衝撃的な映像に、僕の脳内では彼の美しい顔と鼻毛が完全に融合し、ラカルド様はもう『鼻毛の人』になってしまった。

「得意げな顔で話してる間中、呼吸するたびにピロピロ揺れてるの……!」
「ぶはっ」
 ラステアの肩が震え、金の瞳に笑いが滲み、ついに耐えきれず吹き出した。

「あんな完璧ぶった顔で鼻毛をなびかせて、しかも本人は気付かないんだよ?」
「ぷっ、ぶははっ……!」
「ぶはっ」

 目が合った瞬間、同じ光景を思い浮かべたことを同時に悟り、僕と彼は腹を抱えて笑い始める。
 けれど大声をあげるわけにもいかず、肩を震わせて爆笑に耐えた。

「ふふっ……それで、もう全部どうでもよくなっちゃってさ。国王さまが了承してるとか言ってたし、もういいやーって思ったんだ」
「そ、そうか……あの顔で鼻毛……ふふっ……ぶはっ」
「ラステア、笑いすぎ。僕も……ふはっ……だめだ思い出す」

 二人で声を殺して笑い合う。
 なにもかもくだらなくて、どうしようもなくおかしくて、涙が滲むほど笑った。
 あれはすべてをどうでもよくさせる魔力を持っていたんだ。

「はぁ、はぁ……笑い死ぬかと思った」
「僕も……」

 呼吸を整えたころ、馬車がちょうど止まった。
 ほかの乗客たちはすでに荷物をまとめて出口へ向かっていて、僕らも慌てて支度をする。

 斜め前に座っていた青年が、降り際に声をかけてきた。

「兄ちゃんたち、すごく楽しそうだったな。何の話かわかんなかったけど、見てて楽しかったよ」
「煩くしちゃいましたか」
「申し訳ない」
「いやいや、いいんだよ。見てるだけでも何だか楽しかった」

 僕たちは会釈して、少し照れながら馬車を降りた。

「あはは、みんなに見られてたね」
「『仲良くていいね』だそうです」
「そう見えたなら、ちょっと嬉しいね」
「……ああ」

 ラステアの笑みが柔らかく崩れた。
 笑い疲れたのか頬がうっすら赤い。金の瞳はまだ少し潤み、どこか照れくさそうだ。

 十年の付き合いの中で、こんな顔を見るのはたぶん初めて。
 いつもは護衛として僕を守る騎士だけど、今はただの一人の青年の顔になっている。
 胸の奥がゆるやかに温まっていく。

 ああ、本当に。こんなふうに並んで笑える日が来るなんて。
 全部、あの鼻毛のおかげだ。

「ありがとう鼻毛。さようなら鼻毛」
「ふはっ、クリス。もうやめて……」

 何とか笑いを納めたラステアは、穏やかな顔をしていた。

「いいな、俺も見たかった。あの王子サマには一言、文句を言いたかった」
「不敬罪になるよ」
「それでも、クリスがたくさん傷ついた。意趣返しくらいいいだろ」

 ラステアの声が、少し低く揺れた。
 怒りというより、長い間抑えてきた悔しさの滲む声。
 僕の苦しさも、涙も、彼はずっと傍で見ていた。

「ありがとう。ラステア」
 握りしめられた拳。怒りではなく、守ろうとしてくれたその手を、そっと両手で包み込む。

 ラステアが小さく息を呑み、ためらいながらも僕の手を反対の手で包んだ。
 指先が触れ合った瞬間、ラステアの熱が流れ込むように感じられて、心臓が跳ねた。
「クリス」
 呼ばれて見上げたその瞳には、もう怒りも憤りも消えている。
 ただ、深く澄んだ安堵と、どうしようもないほどの優しさがあった。
 


「さぁ、宿を探そうか」
「……うん!」

 そうして、僕らは手を繋いだまま歩き出す。
 離れてしまいそうになると、ラステアが少しだけ指を絡めて引き止める。
 その指先の強さに、言葉ではない想いが溢れている気がした。

 月明かりがラステアの横顔を照らし、その瞳には何かを決意するような光が宿っている。
 僕はその横顔を見つめながら、胸の奥でそっと呟いた。

 ラステア、ありがとう。
 あなたがいてくれて、本当によかった。
 ただ、それだけが何よりの救いだった。
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