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3話 王都脱出
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しょり、しょりとナイフが髪を削ぐ音が、川のせせらぎに溶けていく。
風が頬を撫で、日差しが水面をちらちらと照らしていた。
川べりの草に座ってゆっくり澄んだ空気を吸い込むと、息を吸うごとに体の奥の重たさが少しずつほどけていく気がする。
薄く目を開けると、ラステアが真剣な表情で僕の髪を切っていた。
束を取って角度を確かめ、丁寧に何度も刃を滑らせる。
傷つけまいという気持ちが、刃越しにまで感じられた。
集中するあまり彼の眉間にかすかなしわが寄っているのが見えて、僕は小さく笑ってしまう。
これは彼が真剣になっている時の癖なんだ。
この人は、いつだってそうだ。
僕の心が壊れそうになっても、何も言わず傍で支えてくれた。
だから今、目の前に刃物があっても怖くない。
ラステアが僕を傷つけることなんて、ありえないのだから。
「クリス様、これから前髪を切るので目を閉じていてください」
「わかった」
髪を切る理由は、追手に見つからぬよう、姿を変えるため。
けれどそれと同時に新しく生まれ変わるために、切りたかった。
ラカルド様に不細工な顔を見せるなと言われ続けた幼い日から、僕はずっと顔を隠して生きてきた。
視線を避け、表情を覆い、息まで浅くするような生き方だった。
紙面に載る肖像も、いつも髪が顔を覆っていた。
むしろ、この髪型こそが「クリス」という符号のようなものだった。
ラカルド様に嫌われるのが怖くて、顔を出すような切り方を拒んできた。でも、今は違う。
ラステアに「切りましょう」と言われた時、それを嬉しく思った。
髪を切り落とすたび、肩の重さが少しずつ軽くなっていく。
落ちる髪が、古い自分を連れ去っていくようだった。
しゅ、と切れる音を最後に、川のせせらぎを残して静けさが戻る。
ラステアが小さく息をついた。
「時間がありませんでしたので、一旦このくらいでよろしいかと思います」
ラステアは僕の肩にかけられた自分のマントを優しく取って、ハンカチで顔や首筋を拭ってくれる。
その仕草が、あまりに丁寧で、優しくて、思わず笑ってしまう。
いつだって彼だけが「クリス」として僕を大切に扱ってくれる。
「本当はもっと丁寧にやりたいのですが……。時間も道具もないですし仕方がないですね」
まだ整え足りないと不満そうに眉を寄せている。
ラステアは僕のこととなると、決して手を抜かない人だからもしも時間や道具があったなら、きっともういいと言っても気が済むまで整えてくれただろう。
……そう思うと時間がなくてよかったと思うべきか。
数時間も髪を整え続けるラステアを想像したら、そう思えた。
それより、切ってもらった髪を見てみたい。
「鏡、ある?」
「今は持ち合わせていません」
「まぁ、そうだよね。あ、じゃあ……」
両掌に水を集めて形を整える。
久しぶりに覗く鏡の中の自分は、生き生きと輝いていた。
前髪は目にかからないほど短く、後ろも軽くなっている。
水鏡の中には、初めて見る自分がいた。
ラカルド様にはずっと不細工だと笑われてきた。見られるたびにうつむいて、傷ついて、それでも変えられなかった顔。
けれど今は嫌じゃない。
これが僕だ。
これまで人に隠され、縛られてきた顔が、ようやく僕のものになった気がした。
新しい自分。新しい世界。
全てが煌めいて見えて、鏡に映る僕はずっと笑っている。
ふと、鏡の向こうにラステアの視線を感じた。
まるで息を潜めるように立っているけれど、目だけは真っすぐ僕を捉えている。
どうしてそんな顔をするんだろう。
まるで初めて僕を見たみたいに、目を見張って。
感謝の気持ちを込めて、鏡越しに微笑んでみせた。
その瞬間、ラステアが小さく息を呑む音がした。
そして、慌てて視線を逸らす。
不快にさせたのかと胸が沈みかけたけれど、違う。
彼は口元を押さえ、耳まで赤く染めていた。
「すごく気に入ったよ。ラステアはどう思う?」
「大変……お可愛らしいと、思います」
一拍おいて、掠れるような声。
真面目な彼が、こんなふうに言葉を詰まらせるなんて。
視線が合った瞬間、彼の金の瞳が揺れた。
その視線にはあまりに熱がこもっていて、なんだか気恥ずかしい。
「あはは、そんな風に言ってもらえるなんて嬉しい」
恥ずかしさを誤魔化すように笑うと、ラステアもほんの少し肩の力を抜いて笑った。
「とても、よくお似合いです」
「うん! すっきりしたよ」
僕の言葉に、ラステアは柔らかく微笑んで、自分のことのように喜んでくれる。
この人は、どうしてこんなにも真っすぐなんだろう。
「そうだ。もう主従じゃないし、どう見ても年下の僕に敬語って変だから、これからは普通に話してよ」
「普通、に……ですか?」
「うん。様付けもなし」
「っ!?」
「ほら、呼び捨ててみてよ」
ラステアが言葉を探すように唇を噛み、かすかに息を飲んだ。
そして……意を決したように口を開く。
「……く、クリス……」
その瞬間、頬を赤らめたラステアの喉が小さく動いた。
自分の声が震えたのを、彼自身が一番驚いているようだった。
そして視線をさまよわせた後、胸を押さえてしゃがみ込む。
「ど、どうしたの。ラステア!? 具合悪い?」
「なんでもございません」
近づかないで欲しいと手で制されて、一歩離れた場所で落ち着くのを待つ。
「はー、はー。心臓がいくつあっても足りん……。これは夢ではないのか?」
小さくつぶやくラステアが、隠れて自分の頬をつねっている。
いつも冷静で平常心を失わないラステアが、今日は何だか様子がおかしい。
「夢だと、僕が困るんだけど?」
「わぁ!」
こっそり近づいて傍でしゃがんで顔を覗き込んだら、驚いたラステアが地面に倒れ込んだ。
「本当に大丈夫? 具合悪いなら先に医者へ行こうか?」
「問題ありません! 行きましょう」
素早く立ち上がり、いつも通りのすまし顔。
けれど、耳が真っ赤だ。
「ふふっ」
ラステア、可愛い人だったんだな。
10年も一緒にいたけど知らなかったよ。
笑う僕に、ラステアは困ったように眉を寄せ、咳払いをした。
「さぁ、買い物に行こうか」
「うん!」
「その前に……」
歩き出そうとした僕の腕を、ラステアがそっと引き止めた。
「? どうしたの?」
「少しお待ちくださ……。待って」
彼は迷いなく手を伸ばし、僕の式典用の上着を脱がせる。
指先が首すじをかすめ、ひやりとした感触が残る。
思わず身を引くと、ラステアもはっとしたように手を止めた。
「……す、すみません」
「ううん、冷たくて気持ちよかった」
何気なく返した言葉に、彼はため息をついた。
「そんなに可愛いと、困るんですが?」
「??」
「いえ、こちらの話です……」
彼はずっと赤いままで、そんな反応に今度は僕の方がどうしてか胸が高鳴った。
一度離れ、遠くから眺めて満足そうに頷いたラステア。
今度は自分の身なりを弄り始めた。いつも高く結い上げた髪をほどき、指先で手早く編み直して低く結ぶ。
それから自分のジャケットを脱いで僕の服の上に重ね、宝石や刺繍を隠すように腕に抱えた。
少し崩して髪型を変えただけなのに、立派な騎士だったラステアが少し裕福な家の青年に見えるんだから不思議だ。
「わぁ、ラステア。その髪型も格好いいね。似合う」
「!? あ、りがとう」
普段ラステアを格好いいと思っても褒める機会がなかった。
それはラカルド様がラステアと話すと不機嫌になったから。
でも、もうそれもない。
自由にラステアと話していいんだ。
「でも、どうして服脱いだの?」
「これなら下町で買い物をしても、目立たないでしょう」
言われて、ようやく気づいた。
僕の服には宝石が散りばめられ、裾の金糸が陽に反射している。
貴族の象徴であるこの服のままでは、逃げるどころか目立ってしまう。
「ラステアがいてくれて、本当によかった! 僕ひとりだったら、きっと何も変えられなかった。」
本当に、心からそう思った。
僕一人だったら、こんなことに気づきもしなかった。すぐ誰かに見つかって、あっという間に王城に連れ戻されてしまっただろう。
「それは、よかった。けれど無事に逃げおおせてからにしましょう」
ラステアが微笑む。
その笑顔が、とても眩しい。
ラステアの笑った顔、こんなにも優しかったかな。
これが素のラステアなんだろうか。
これからは、そんな顔をもっとたくさん見られたらいいな。
「さぁ、行こうか」
「うん!」
足並みを揃えて、川沿いの道を抜けた。
風が、新しい名を呼ぶように吹き抜ける。
僕はその風を胸いっぱいに吸い込み、まっすぐ前を見た。
背筋が自然と伸びて、前より少し遠くまで見えるように思えた。
屋台で買った食べ物を分け合い、気になった店へふらりと立ち寄る。
古着だけど柔らかく馴染む服、肩にしっとりと沿うバッグ。
旅に必要なものをひとつひとつ詰めながら、これからの自分の形を整えていくような気がした。
「一旦このくらいにしましょう。あとは道中でどうにかなります」
「ラステア、また敬語になってるよ」
「すぐは……無理、……だ。がんばる」
「うん」
彼は言葉で飾ることをしない。その代わりに、包み込むような眼差しで僕を見つめてくれる。
その不器用な返しが、どうしようもなく温かく響いた。
婚約破棄を告げられてから、まだ数時間しか経っていない。
それなのに、胸の中はもう不安よりもずっと大きな期待で満たされていた。
乗合馬車の座席に並んで腰を下ろす。
王都の方角を振り返らずに、深く息を吸い込んだ。
心地いい風が頬を撫で、草木の香りが優しく胸を満たす。
隣でラステアも同じように風を吸い込み、ゆっくりと目を閉じている。
その横顔はどこか安らかで、けれど大切なものを見守る人の静けさを宿していた。
ふと彼と視線が合った。
微笑がこぼれて、息がかすかに重なる。
「クリス。どこまでもついていきますよ」
「うん、ありがとう」
僕は笑い返し、はじめての自由を胸いっぱいに吸い込んだ。
空が広く、どこまでも続いていた。
風が頬を撫で、日差しが水面をちらちらと照らしていた。
川べりの草に座ってゆっくり澄んだ空気を吸い込むと、息を吸うごとに体の奥の重たさが少しずつほどけていく気がする。
薄く目を開けると、ラステアが真剣な表情で僕の髪を切っていた。
束を取って角度を確かめ、丁寧に何度も刃を滑らせる。
傷つけまいという気持ちが、刃越しにまで感じられた。
集中するあまり彼の眉間にかすかなしわが寄っているのが見えて、僕は小さく笑ってしまう。
これは彼が真剣になっている時の癖なんだ。
この人は、いつだってそうだ。
僕の心が壊れそうになっても、何も言わず傍で支えてくれた。
だから今、目の前に刃物があっても怖くない。
ラステアが僕を傷つけることなんて、ありえないのだから。
「クリス様、これから前髪を切るので目を閉じていてください」
「わかった」
髪を切る理由は、追手に見つからぬよう、姿を変えるため。
けれどそれと同時に新しく生まれ変わるために、切りたかった。
ラカルド様に不細工な顔を見せるなと言われ続けた幼い日から、僕はずっと顔を隠して生きてきた。
視線を避け、表情を覆い、息まで浅くするような生き方だった。
紙面に載る肖像も、いつも髪が顔を覆っていた。
むしろ、この髪型こそが「クリス」という符号のようなものだった。
ラカルド様に嫌われるのが怖くて、顔を出すような切り方を拒んできた。でも、今は違う。
ラステアに「切りましょう」と言われた時、それを嬉しく思った。
髪を切り落とすたび、肩の重さが少しずつ軽くなっていく。
落ちる髪が、古い自分を連れ去っていくようだった。
しゅ、と切れる音を最後に、川のせせらぎを残して静けさが戻る。
ラステアが小さく息をついた。
「時間がありませんでしたので、一旦このくらいでよろしいかと思います」
ラステアは僕の肩にかけられた自分のマントを優しく取って、ハンカチで顔や首筋を拭ってくれる。
その仕草が、あまりに丁寧で、優しくて、思わず笑ってしまう。
いつだって彼だけが「クリス」として僕を大切に扱ってくれる。
「本当はもっと丁寧にやりたいのですが……。時間も道具もないですし仕方がないですね」
まだ整え足りないと不満そうに眉を寄せている。
ラステアは僕のこととなると、決して手を抜かない人だからもしも時間や道具があったなら、きっともういいと言っても気が済むまで整えてくれただろう。
……そう思うと時間がなくてよかったと思うべきか。
数時間も髪を整え続けるラステアを想像したら、そう思えた。
それより、切ってもらった髪を見てみたい。
「鏡、ある?」
「今は持ち合わせていません」
「まぁ、そうだよね。あ、じゃあ……」
両掌に水を集めて形を整える。
久しぶりに覗く鏡の中の自分は、生き生きと輝いていた。
前髪は目にかからないほど短く、後ろも軽くなっている。
水鏡の中には、初めて見る自分がいた。
ラカルド様にはずっと不細工だと笑われてきた。見られるたびにうつむいて、傷ついて、それでも変えられなかった顔。
けれど今は嫌じゃない。
これが僕だ。
これまで人に隠され、縛られてきた顔が、ようやく僕のものになった気がした。
新しい自分。新しい世界。
全てが煌めいて見えて、鏡に映る僕はずっと笑っている。
ふと、鏡の向こうにラステアの視線を感じた。
まるで息を潜めるように立っているけれど、目だけは真っすぐ僕を捉えている。
どうしてそんな顔をするんだろう。
まるで初めて僕を見たみたいに、目を見張って。
感謝の気持ちを込めて、鏡越しに微笑んでみせた。
その瞬間、ラステアが小さく息を呑む音がした。
そして、慌てて視線を逸らす。
不快にさせたのかと胸が沈みかけたけれど、違う。
彼は口元を押さえ、耳まで赤く染めていた。
「すごく気に入ったよ。ラステアはどう思う?」
「大変……お可愛らしいと、思います」
一拍おいて、掠れるような声。
真面目な彼が、こんなふうに言葉を詰まらせるなんて。
視線が合った瞬間、彼の金の瞳が揺れた。
その視線にはあまりに熱がこもっていて、なんだか気恥ずかしい。
「あはは、そんな風に言ってもらえるなんて嬉しい」
恥ずかしさを誤魔化すように笑うと、ラステアもほんの少し肩の力を抜いて笑った。
「とても、よくお似合いです」
「うん! すっきりしたよ」
僕の言葉に、ラステアは柔らかく微笑んで、自分のことのように喜んでくれる。
この人は、どうしてこんなにも真っすぐなんだろう。
「そうだ。もう主従じゃないし、どう見ても年下の僕に敬語って変だから、これからは普通に話してよ」
「普通、に……ですか?」
「うん。様付けもなし」
「っ!?」
「ほら、呼び捨ててみてよ」
ラステアが言葉を探すように唇を噛み、かすかに息を飲んだ。
そして……意を決したように口を開く。
「……く、クリス……」
その瞬間、頬を赤らめたラステアの喉が小さく動いた。
自分の声が震えたのを、彼自身が一番驚いているようだった。
そして視線をさまよわせた後、胸を押さえてしゃがみ込む。
「ど、どうしたの。ラステア!? 具合悪い?」
「なんでもございません」
近づかないで欲しいと手で制されて、一歩離れた場所で落ち着くのを待つ。
「はー、はー。心臓がいくつあっても足りん……。これは夢ではないのか?」
小さくつぶやくラステアが、隠れて自分の頬をつねっている。
いつも冷静で平常心を失わないラステアが、今日は何だか様子がおかしい。
「夢だと、僕が困るんだけど?」
「わぁ!」
こっそり近づいて傍でしゃがんで顔を覗き込んだら、驚いたラステアが地面に倒れ込んだ。
「本当に大丈夫? 具合悪いなら先に医者へ行こうか?」
「問題ありません! 行きましょう」
素早く立ち上がり、いつも通りのすまし顔。
けれど、耳が真っ赤だ。
「ふふっ」
ラステア、可愛い人だったんだな。
10年も一緒にいたけど知らなかったよ。
笑う僕に、ラステアは困ったように眉を寄せ、咳払いをした。
「さぁ、買い物に行こうか」
「うん!」
「その前に……」
歩き出そうとした僕の腕を、ラステアがそっと引き止めた。
「? どうしたの?」
「少しお待ちくださ……。待って」
彼は迷いなく手を伸ばし、僕の式典用の上着を脱がせる。
指先が首すじをかすめ、ひやりとした感触が残る。
思わず身を引くと、ラステアもはっとしたように手を止めた。
「……す、すみません」
「ううん、冷たくて気持ちよかった」
何気なく返した言葉に、彼はため息をついた。
「そんなに可愛いと、困るんですが?」
「??」
「いえ、こちらの話です……」
彼はずっと赤いままで、そんな反応に今度は僕の方がどうしてか胸が高鳴った。
一度離れ、遠くから眺めて満足そうに頷いたラステア。
今度は自分の身なりを弄り始めた。いつも高く結い上げた髪をほどき、指先で手早く編み直して低く結ぶ。
それから自分のジャケットを脱いで僕の服の上に重ね、宝石や刺繍を隠すように腕に抱えた。
少し崩して髪型を変えただけなのに、立派な騎士だったラステアが少し裕福な家の青年に見えるんだから不思議だ。
「わぁ、ラステア。その髪型も格好いいね。似合う」
「!? あ、りがとう」
普段ラステアを格好いいと思っても褒める機会がなかった。
それはラカルド様がラステアと話すと不機嫌になったから。
でも、もうそれもない。
自由にラステアと話していいんだ。
「でも、どうして服脱いだの?」
「これなら下町で買い物をしても、目立たないでしょう」
言われて、ようやく気づいた。
僕の服には宝石が散りばめられ、裾の金糸が陽に反射している。
貴族の象徴であるこの服のままでは、逃げるどころか目立ってしまう。
「ラステアがいてくれて、本当によかった! 僕ひとりだったら、きっと何も変えられなかった。」
本当に、心からそう思った。
僕一人だったら、こんなことに気づきもしなかった。すぐ誰かに見つかって、あっという間に王城に連れ戻されてしまっただろう。
「それは、よかった。けれど無事に逃げおおせてからにしましょう」
ラステアが微笑む。
その笑顔が、とても眩しい。
ラステアの笑った顔、こんなにも優しかったかな。
これが素のラステアなんだろうか。
これからは、そんな顔をもっとたくさん見られたらいいな。
「さぁ、行こうか」
「うん!」
足並みを揃えて、川沿いの道を抜けた。
風が、新しい名を呼ぶように吹き抜ける。
僕はその風を胸いっぱいに吸い込み、まっすぐ前を見た。
背筋が自然と伸びて、前より少し遠くまで見えるように思えた。
屋台で買った食べ物を分け合い、気になった店へふらりと立ち寄る。
古着だけど柔らかく馴染む服、肩にしっとりと沿うバッグ。
旅に必要なものをひとつひとつ詰めながら、これからの自分の形を整えていくような気がした。
「一旦このくらいにしましょう。あとは道中でどうにかなります」
「ラステア、また敬語になってるよ」
「すぐは……無理、……だ。がんばる」
「うん」
彼は言葉で飾ることをしない。その代わりに、包み込むような眼差しで僕を見つめてくれる。
その不器用な返しが、どうしようもなく温かく響いた。
婚約破棄を告げられてから、まだ数時間しか経っていない。
それなのに、胸の中はもう不安よりもずっと大きな期待で満たされていた。
乗合馬車の座席に並んで腰を下ろす。
王都の方角を振り返らずに、深く息を吸い込んだ。
心地いい風が頬を撫で、草木の香りが優しく胸を満たす。
隣でラステアも同じように風を吸い込み、ゆっくりと目を閉じている。
その横顔はどこか安らかで、けれど大切なものを見守る人の静けさを宿していた。
ふと彼と視線が合った。
微笑がこぼれて、息がかすかに重なる。
「クリス。どこまでもついていきますよ」
「うん、ありがとう」
僕は笑い返し、はじめての自由を胸いっぱいに吸い込んだ。
空が広く、どこまでも続いていた。
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