蒼昊の額縁

蒼乃悠生

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空と海の境界線

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 空と海の境界線




「生きてるって、何だろう」

 どう感じたら、自分は生きてるって、思えるんだろう。
 そんな疑問が心臓に張り付いて、仕方がなかった。
 だから、私は学校へ行かなくなった。だって、行っても楽しくないんだもの。教室には何もない。あるのは私以外の人間がいるってこと。そこに楽しいとか、面白いとか、やりがいがあるとか、そこにいなければならない理由が見つからなかった。
 あるのは、ただ一つ。
「空しい」
 口に出してみれば、更に心臓がぎゅうっと握りしめられるような感覚が襲う。
 こんな気持ちでは死んでるのと一緒。
 それなら、ね。こんな私なんていなくなった方がいいんじゃないかって思うの。無価値と言ったらいいのか。何の役にも立たない、周りの労力とお金を貪り食うだけのお荷物。
 仲良くする友達——上辺だけの付き合い。
 親身になってくれる先生——教師としての義務。
 甘やかしてくれる両親——近所の目を気にしてる。
 そして兄は——

 死んでしまえ、こんな自分。


   ○●○


 大きな水の音がする。
 水が岸に叩きつけられて、水しぶきが足元に僅かにかかる。
 鼻は、磯の香りを吸い込んで、息と共に吐きだす。全身に染み渡るような心地よい気持ち。
 まつ毛の影を落としていた、双眸をゆっくりと開ける。
 そこには青い空と、碧い海が広がっていた。
 それらの境界線を引くにはあまりにも勿体ないほど存在感が強烈で、足を一歩でも動かしたら引き込まれそうだった。
「どうして、こんなところに」
 来たんだろう?
 誰も答えてくれないことを知っているから、言葉を切り上げる。無駄なことはよそう。
「あ」
 風が後ろから吹き抜ける。
 黒髪は靡く。
 飛行機のような大きな何かが、私を追い越した。目には見えないそれがどんなものなのか、全く分からない。肌で感じたそれは、凄いモノであるのは確かだった。いまでも鳥肌が止まらない。


   ○●○


 窮屈と不満を漏らしたくなる程の、狭い場所。だが、〝これ〟はそれでいい。
 目の前に並ぶ、数え切れないほどの多くの計測機。メモリをさす針も左右にぶれ、一部は壊れてゼロを示している。どのメーターを信じて飛べばいいのか分からない。
「クソッ! ナメやがって!」
 感覚で飛ぶしか道はない。
 油の独特の臭いが鼻を刺激する。それは毎日のように嗅いだ。だから不快感はない。ただ、いまはそれ以外の臭いがするということに危機感を抱いている。
 焦げ臭い。
 どこかが燃えている。しかし、〝いま〟は消火活動はできない。操縦桿を握りしめて、まずは背後にいる〝敵〟から逃げることが最優先だ。

 撃たれたら、死ぬ。
 撃たれたら、死ぬ。

 紙切れのように軽量化した戦闘機。それは銃弾が掠れるだけで火災を起こすという噂で持ちきりの機体だった。
 どんな機体であろうと乗りこなさなければならない。それができなければが、操縦士としての無価値と、戦争の敗北者という死だ。
 だから、死に物狂いで操縦桿を握り、戦闘機を動かす。ほんの僅かな間違いもあってはならない。鳥のように、自由に飛ぶ。体の一部のように、感覚を共有する。
 バリバリと破裂音がする。次々と、敵は容赦なく機銃を撃ってきた。その度に避け切れなかった弾が機体に穴を開ける。いつ、機体が火だるまになってもおかしくない。
『ぐッ!』
 胸部の痛みが、ズキズキと突き刺さる様。いや、痛いというより熱かった。その瞬間、嗚呼、撃たれたんだと分かった。
 それは一気に溢れ出た——血。ぼたぼたと落ちる血に気にかけてはいられない。
『クソクソクソクソッ‼︎』
 操縦席から見える視界は狭い。
 全て勘と感覚に頼らなければならなかった。
 機体を海にぐっと近付けたまま、右へ。左へ。また右へ。敵の打った弾が海へ突っ込み、水飛沫が上がる。その度に肝が冷えた。
 戦闘機の翼が少しでも海に当たったらおしまいだ。空中では取り返せる些細な失敗が、機体のバランスを一気に崩し、頭から海に突っ込むことになる。そうなれば風防を開ける間も無く、一瞬で機体は海に沈む。
 それを分かっているからか、後ろを飛ぶ敵はあまり海へ降りてこなかった。そこまで馬鹿ではないようだ。
 兎に角、いまは逃げられる可能性がある海の水面近くを飛ぶことが得策のようだ。
 蛇のように戦闘機を操る。
 目の前に突出した岩場が出てきた。このままでは機体をぶつけてしまう。大きく上昇しようと思った時だった——
『ッ!』
 息が一瞬止まった。
 頭上に弾が掠った。
 一瞬で蜘蛛の巣状のヒビが風防に入り、そして砕けるように風に吹き飛ばされる。同時にゴーグルと飛行帽も空の彼方へと飛んでいった。
 目を見開く。
 風に晒されて、頭が清々しい。
 徐々に頭が冴えてくる。
 置かれた状況、逃げ切る可能性の低さ。真っ黒な死がすぐ後ろに迫っている。頭の中では、もう次はない——そう言っていた。
 怖い。
 初めて、全身で死を感じた。いや、圧倒的な絶望感に包まれた。戦争で亡くした戦友が、俺を囲んで、おいでおいでと手招いている。真っ赤な顔で、真っ赤な手で。
 一秒後は、生きているのか——生きた心地がしない。
 自分はもう、どうすればいいのか。
 もしこのまま敵に撃墜されたら、どうなるのか。下に広がる海に落ちるのか。それとも、この機体と共に空の藻屑となるのか。どちらが早い?
 死んだら、自分はどうなる?
 この全身の痛みも感じなくなって、それから、それから——自分という存在が、この世界から無くなる。
『母ちゃん』
 呟いた瞬間、鮮明な母の姿が脳裏に浮かぶ。
 子供の頃、死というものを知ってから、優しい母が死ぬかもしれないと思っただけで、怖くて泣いた。その度に、母は黙って抱きしめてくれた。頭を撫でて、『大丈夫。あんたを残して死にゃーせん。母ちゃんは強いんだからね』と力強く笑う。
 母ちゃん、また頭を撫でて。
 母ちゃん、また抱きしめて。
 母ちゃん、一人で逝きたくない。
 母ちゃん、一人で、たった一人で逝くのは、寂し過ぎる。
 指が震える。
 腕が震える。
 体が震える。
 動揺して、視界も歪む——
『俺、俺、は……〝私〟は』
 風が声を攫う。




「逃げるなッ!」





 その声はハッキリと頭に響いた。
 どこの誰か知らない男の声。怒号に似た叫び声。
 それは耳を貫くように入ってきて、霧がかかっているような頭の中が、一瞬にして新風が通り過ぎたようにスッキリとする。
 空は、晴れた。
 それからは何者かが乗り移ったかのように、操縦桿を右手で握りしめる。そして、もう一方の手で機銃発射レバーを握る。
「絶対に勝つ! 死んでも勝つ!」
 その者は、いままで抱えていた戦慄を闘気に変え、勝気な声色で吐き捨てた。痛覚も勝利への礎と言わんばかりに狂気な笑みを浮かべる。
 ガタガタと空中分解を匂わせる音さえも、ファンファーレのような音楽だと思っているかのように、気に掛けることもない。
「ハッ! まだまだイケる‼︎」
 繊細な腕捌き。
 操縦桿の些細な角度で、飛んでくる弾を避ける。
 太陽の位置、雲の位置、風の強さ、高度、そして敵の位置。
 あらゆるモノを一目見て把握する。
 強靭な精神を持ち合わせている彼は、瞬きほどの短い時間さえも、見逃さない。
 風のうねりに戦闘機を乗せる。
 普段なら風は戦闘機を狂わせる。しかし、いまはそれを上手く利用し、片翼に触れさせた。その瞬間、想像もできない動きを見せ、ひっくり返る。
 それは敵も驚いたようだった。目視できるほど、敵との距離は近かった。その口はきっとクレイジーだと言っているのだろう。
「耐えろ、耐えろよ……!」
 お前ならできるはずだ。耐えるはずだ。
 そう言って、制御できる間合いに入った瞬間、操縦桿を倒す。

 双眸に宿る、闘魂。

 その目前には敵の背後。
 ——まだだ。まだだ。
 撃ちたくなる衝動をぐっと堪え、敵の機体と近づくまで引き金を引かない。
 ——まだだ。あと少し。

 左の指に力を込める。




「菅野一番ッ!」






   ○●○



「おい! しっかりしろ!」
 誰かが体を大きく揺さぶる。
 誰かが呼んでいる。
 それが自分のことだと理解し始めた瞬間、大きく咳を繰り返した。とても肺が痛くて、口の中が塩辛い。吐き出す水が生温くて、更に意識がはっきりとしてくる。
「大丈夫か!?」
 咳を繰り返すばかりで、返事をしない私を心配してか、男は青ざめた表情で見ていた。
「お、兄、ちゃん?」
「こんなことになるくらいなら、海に連れてこなければよかった……!」
 そう言って、兄は私を抱きしめた。
 どうやら非常に心配させたようだった。一体何故こんなことになっているのか、頭が混乱していてよく分からない。
 それに、先程見た夢。あれは何だったのだろうか。やけにリアルだった。あんな切迫感、日常生活で抱いたことがない。手に汗を握って、震え上がるような恐怖。いまいる〝私〟が死ぬのかと思った。
 肺の中にある海水を全て吐き出しても、まだ肺が痛い。苦しかった。一層のこと、死んだ方がマシなんじゃないかと思うくらい。
 兄に抱えられながら、私は茫然と広がっている蒼天を眺めていた。
「お前の気分転換になればと思って連れ出したばかりに……もう少しでお前が死ぬところだった。本当にごめん」
 兄のその言葉を聞いて、やっと思い出した。
 そういえば、家に引きこもる私を心配して、優しい兄はこの海まで連れてきてくれたのだ。陽の光を少しでも浴びてもらいたくて、不健康なほどに真っ白な肌の私を。
「足を滑らせたのは、私のせいだし。兄ちゃん、関係ない」
「でも、俺がちゃんと見ていれば、すぐに助け出せたのに……」
「まあ、確かに? 蟹に夢中になってる大人ってのは、ちょっとどうかと思うけどね」
 海水で濡れた岩場に立っていたものだから、風に吹かれた時踏ん張れなかった。そのまま海に落ちてしまったのは、やはりどう考えても己のミスである。
 兄の手を解き、自分の力だけで上半身を起こす。
 びちゃびちゃな体。へばりつく服が気持ち悪い。
 どうやって泣きじゃくる兄を落ち着かせようかと唸っていると、目前に誰かが立ったかのように視界が暗くなる。


「このたがらものが!」


 その言葉が耳を貫く。そして、額に衝撃が走った。デコピンでもされたかのような痛みが。
 でも、私と兄以外に誰もいない。あるのはジンジンとする痛みだけが残っている。人影も嘘だったかのようになかった。
 頭上に疑問符が何個も浮かぶ。
 訳が分からなかった。
 とりあえず、誰かに怒られて、誰かにデコピンか何かを喰らったということだけ分かる。
 鼻がムズムズすると思ったら、くしゃみを続けて三回。鼻水がたらりと垂れた。
「……生きてるのか」
 風に吹かれて、体が冷える。寒い。
 でも、それもまた生きているから、そう感じているのかと思うと、心の奥が、ほんのりと温もっていることに気づく。
 温もりを知らなければ、寒いことも分からない。


「当たり前だ」


 またあの声だ。その声色は少し嬉しそうに聞こえた。
 振り返ってみるが、やはり誰もいない。
 波が岩場を打ち付けるだけ。

「生きる自覚など人と接する時にするものだ。楽しい、嬉しい、気持ちが良い感情だけではない、悲しい、辛い、痛い、抱きたくない感情を持つこともあるだろう。それら全てが〝生きる〟ということだ」

 またあの声がする。

「怖かっただろう? 空戦は」

 うるさい。怖かったに決まってるでしょ。

「なら、まだ生きたいと思っている証拠」

 何を言っているんだ、この声は。怖いと思うのは普通じゃないか。

「生を諦めた者は恐怖を感じない。何を失ってもいいからだ。執着するものなどない。貴女はまだ失いたくないものがあるのではないか?」

 失いたくないもの?

「そうだ。それを失ったら悲しいもの、困るもの」

 悲しい? 困る?
 そんなものがあっただろうかと悩んでいると、遠くから兄の声が聞こえてきた。先に車に戻って、物色をするように何かを探している。
「おーい! 早く車に戻ろう! 風邪ひいちゃうー! あ! いつから車に入ってるか分からないタオルがあったから持っていくよ!」
 そのタオルは汚くないのかと訊きたい。
 私は滴がこぼれ落ちる髪と、服の裾を絞った。
 兄は青いフェイスタオルを左右に振りながら走り寄ってくる。私も足場の悪い岩場から抜け出すと、丁度兄が来た。私のことなのに、まるで自分のことのように困った顔をして、「どうしよう」と繰り返す。私は大人の定義に入らないけど、決して小さな子供ではない。どうしたらいいかなんて、分かってる。
 兄からタオルを奪い取ると、まずは顔、そして頭を拭いた。
「私、濡れてるから、車が汚れちゃうね」
「バカヤロウ」そう言ったと思うと、兄は私の頭をガシガシと拭き始めた。突然拭く主導権を奪われた弾みで、青いタオルはずれ、視界が青くなる。少し乱暴だが、心地よい。
「どーとでもなるだろ」
 タオルで隠れて表情は窺えないが、よくそう言ったものだ。綺麗好きのくせに。
「嘘つき。ほんとは嫌なくせに」
 ぶっきら棒に答えてみた。
「そ、それはまあ……でも、死なれる方が嫌だし。そう考えたら車が汚れても安いもんだろ」
「何で」そう言ってから、改めて口を開く。
「何で死んでほしくないの」
 訊ねた瞬間、兄の拭く手が止まった。それに意識が向き、僅かに顔を上げる。
「血を分けた兄妹が死んでほしくないと思うのは当然のことだろ」
 まるで怒っているかのような低い声。だが、兄は決して怒っているわけじゃない。責めるような声色ではなく、次の言葉を聞いてはっきりとする。
「お前が生まれた時から一緒に過ごしてきたじゃないか。それなのに、まだ未来がどうなるか分からない若い年齢で……こんなところで終止符を打つのは、あまりにも急過ぎる。お互いにジジイ、ババアになって、孫を自慢しあって、共に長く生きたいと思うのは、贅沢な願望なんかなぁ?」
「どうして」
 そう思えるのか。
 私の頭の中を読み取ったかのように、兄は答えた。
「大好きだからに決まってんだろ」
「⁉︎」
 あまりにも衝撃的な言葉に、声が出なかった。
「こんなんだから、よくダチにシスコンって言われるんだよなぁ」
 その声が柔らかく、優しい。だが、私は恥ずかしい。
「ば、馬鹿じゃないの⁉︎ 兄妹で普通そんなこと言わないし!」
「分かってる分かってる~」
 そう言いながら笑う。
 私が死んだら、この兄は泣くんだろう。他に誰も泣かないかもしれない。でも、たった一人の兄が泣いて、落ち込んで、塞ぎ込んでしまうのを、私は望まない。もしかしたら、最悪、私の後を追ってきてしまうかもしれない——それだけは絶対に嫌だ。
 私の知らない女と結婚するのも嫌だ。ちゃんと兄を幸せにしてくれるお嫁さんの顔を見たい。優しい兄のことだから、コロッと騙されてしまいそう。ちゃんと結婚詐欺じゃないか、相手を見ておかなければ。
 嗚呼、私って、案外欲望を持ってたんだ。

 あの声は結局誰だったのだろうか。
 夢を見た限りでは、昔生きた人なのだろう。戦闘機のパイロットだろうが、私は疎いのでよく分からない。
 でも、一つだけ、頭の中に浮かぶことがある。

 私は——彼に生かされたのかもしれない。

 だから、私は生きなければならないのだろう。

 じゃないと、
 またあの人に怒られる。
 そんな気がした。
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