婚約破棄?喜んで!完璧悪役令嬢は引退予定です!

ちゅんりー

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「スカーレット・ヴァレンタイン! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」


王宮の大広間に、王太子ジュリアン殿下のよく通る声が響き渡りました。


音楽が止まり、ダンスを楽しんでいた貴族たちの視線が一斉にこちらへ突き刺さります。


シャンデリアの輝き、色とりどりのドレス、そして美味な料理の香りが漂う夜会の中央。


そこに、まるで悲劇のヒーローのように胸を張り、片手を突き出している金髪の青年――私の婚約者が立っていました。


その隣には、小柄で可愛らしい男爵令嬢、リリィ様が震えながら寄り添っています。


まさに、物語のクライマックスのような光景です。


しかし。


(……あと十分)


私は扇で口元を隠しながら、冷ややかな視線を壁の時計へと走らせました。


現在時刻は、夜の八時五十分。


我が公爵家の就業規定……いえ、個人的な生活リズムに基づけば、九時には馬車に乗り込み、屋敷へ帰って湯を浴び、泥のように眠る手筈になっている時間です。


(あの馬鹿(殿下)、よりによって帰宅直前に……。あと十分で私は「業務終了」なのですけれど)


私の内心の舌打ちなど露知らず、ジュリアン殿下は勝利を確信したような顔で声を張り上げます。


「なんだその態度は! 反省の色が見えないぞ!」


「反省、でございますか」


私は極めて事務的なトーンで返しました。


感情を乗せる必要はありません。これは仕事ですから。


「具体的に、私が何に対して反省すべきとお考えで?」


「とぼけるな! リリィに対する陰湿な嫌がらせの数々だ!」


殿下は大袈裟なジェスチャーで、隣のリリィ様の肩を抱き寄せました。


「彼女の教科書を破り捨て、ドレスにワインをかけ、あまつさえ階段から突き落とそうとしたそうではないか! これほど性根の腐った女が、次期王妃になどなれるはずがない!」


会場中から、「まあ、なんて恐ろしい」「やはり『氷の令嬢』と呼ばれるだけのことはあるわ」といったヒソヒソ話が聞こえてきます。


やれやれ。


私は小さく溜息をつきました。


「殿下。事実確認をさせていただいても?」


「ふん、言い逃れなど聞く耳持たん!」


「教科書が破られた件ですが、それは先月の十四日のことですね?」


「そ、そうだ! よく覚えているな!」


「ええ、覚えておりますとも。その日、私は殿下が放置された『隣国との貿易協定に関する最終確認書類』の山を片付けるために、朝から晩まで王宮の執務室に缶詰でしたから」


「うっ」


「次にドレスの件。それは先週の金曜日、リリィ様がお茶会で汚された日のことでしょうか?」


「そうだ! 貴様がわざとぶつかったと聞いたぞ!」


「その時間、私は殿下が計算ミスを連発された『王都防衛費の予算案』の修正作業のため、財務大臣と三時間にわたる激論を交わしておりました。アリバイは大臣を含め、文官二十名が証明してくださるかと」


「な……っ」


「最後に、階段の件ですが」


私は扇を閉じ、パチリと音を立てました。


「そもそも私は、リリィ様とお会いするのが今日で三度目です。過去二回は挨拶を交わしたのみ。一体いつ、どのタイミングで突き落とせばよろしいので?」


ジュリアン殿下の顔が、みるみる赤くなっていきます。


論理と事実。


私が最も愛し、殿下が最も苦手とする二つの武器です。


殿下は言葉に詰まると、視線を泳がせ、最後にリリィ様に助けを求めました。


「リ、リリィ! 君は確かに、スカーレットにやられたと言っていたよな!?」


「えっ、あ、あの……わ、私は……」


リリィ様は青ざめた顔で、殿下と私を交互に見比べています。


その瞳は、私に対する恐怖というよりは、何か別の――そう、話の通じない上司に捕まった新入社員のような絶望感を湛えていました。


(ああ、なるほど)


私は瞬時に状況を理解しました。


おそらく、リリィ様は殿下の「過剰な寵愛(つきまとい)」に困り果てていたのでしょう。


「彼女が私をいじめているから、守ってください」とでも言えば、殿下が私に意識を向けてくれると思ったのかもしれません。


まさか、それが「公衆の面前での婚約破棄」という、国家レベルの大騒動に発展するとは夢にも思わず。


「う、うう……殿下、その……もういいのです。私の不注意だったのです……」


リリィ様が消え入りそうな声で言いました。


しかし、引くに引けなくなった殿下は、さらに声を荒らげます。


「優しいリリィ! 君はそうやってあいつを庇うのか! だが、私は騙されないぞ! スカーレット、貴様のその冷徹な態度こそが、悪女の証拠だ!」


「はあ……」


「なんだその気のない返事は! 王太子である私への不敬だぞ!」


殿下。


貴方が私の態度を「冷徹」と感じるのは、私が貴方を見る時、常に「この書類のミスをどう修正するか」「この失言をどうカバーするか」しか考えていないからです。


そこに愛も憎しみもなく、あるのはただの「業務遂行能力」のみ。


ですが、そんなことを説明しても理解できる殿下ではありません。


殿下はビシッと私を指差しました。


「もう我慢ならん! スカーレット・ヴァレンタイン、貴様とは婚約破棄だ! これは決定事項である!」


会場が静まり返ります。


誰もが、私が泣き崩れるか、怒り狂うか、あるいは無様に縋り付くかを見守っていました。


公爵令嬢としてのプライドが傷つけられたのです。相応のリアクションを期待されているのでしょう。


しかし。


私の頭の中を占めていたのは、たった一つの感情でした。


(――終わった)


婚約破棄。


それはつまり、将来の王妃という激務からの解放。


毎朝五時起きの勉強、分刻みのスケジュール、殿下の尻拭いという名の無限残業、そして休日のない公務。


それら全てからの、完全なる撤退。


(受理、された……!)


私の心の中で、ファンファーレが高らかに鳴り響きました。


長年提出し続けてきた(心の中の)退職願が、ついに受理されたのです。


喜びのあまり、口元が緩みそうになるのを必死で堪えました。


ここで笑っては「ショックで気が触れた」と思われかねません。


私は深く息を吸い込み、あえて無表情を作りました。


そして、優雅にカーテシー(礼)をしてみせます。


「――謹んで、お受けいたします」


「……は?」


殿下が間の抜けた声を上げました。


「え? あ、いや、待て。泣かないのか? 『嫌です殿下、捨てないで』とか……」


「殿下の決定は絶対でございます。不肖スカーレット、殿下の隣に立つ器ではないとのご判断、真摯に受け止めましょう」


私は流れるような動作で懐から書類を取り出しました。


「念のため、こちらの『婚約解消合意書』にサインをいただけますか? 口頭だけですと、後々手続きが煩雑になりますので」


「な、なぜそんなものを持っている!?」


「常に万が一に備えるのが、私の務めでしたから」


嘘です。


いつかこの日が来ることを夢見て、三年前から毎晩枕の下に入れて寝ていただけです。


殿下は狐につままれたような顔で、震える手でサインをしました。


書き終えた瞬間、私は書類を素早く回収し、インクが乾くのを確認してから大切に懐へしまいます。


これで、契約成立。


私は自由だ。


「では殿下、リリィ様。末長くお幸せに」


私は満面の笑み(といっても、周囲には『冷ややかな微笑』に見えたでしょうが)を浮かべ、踵を返しました。


「お、おい! 待てスカーレット! 話はまだ……」


背後で殿下が何か叫んでいますが、聞こえません。


今の私には、業務時間終了の鐘の音しか聞こえていないのですから。


(帰れる。帰って、あの最高級の羽毛布団にダイブできる……!)


足取り軽く、私は出口へと向かいました。


周囲の貴族たちがモーゼの十戒のように道を空けてくれます。


その視線が「あまりのショックで心が壊れたのでは」という同情を含んでいることなど、どうでもいいことでした。


明日からは、目覚まし時計をかけずに眠れる。


好きな時に起き、好きな本を読み、パジャマのままで一日を過ごす。


そんな夢の隠居生活(スローライフ)が待っているのです。


大広間の重厚な扉に手をかけ、外の空気を感じようとした、その時でした。


「――早かったな」


扉の向こう、夜風が吹き抜けるバルコニーの入り口に、巨大な影が立っていました。


月明かりを背に受け、銀色の甲冑を輝かせる長身の男。


王宮騎士団長、レオンハルト・アイゼン。


「氷の騎士」と恐れられる、この国最強の武人が、なぜか私の進行方向を塞ぐように仁王立ちしていたのです。


「……アイゼン団長?」


私は眉をひそめました。


なぜ彼がここに? 警備の配置はホール周辺のはず。


レオンハルト団長は、彫像のように整った、しかし無愛想極まりない顔で私を見下ろしました。


そのアイスブルーの瞳が、じっと私を捉えて離しません。


「お疲れ様でした、スカーレット嬢」


低く、よく響く声。


「……それはどうも。では、通していただけますか? 私はもう部外者ですので」


私が横を通り抜けようとすると、彼は長い手足を動かし、壁に手をついて私の行く手を阻みました。


いわゆる、壁ドンです。


ただし、ときめきよりも「物理的な圧迫感」が勝る、軍人仕様の壁ドンですが。


「な、何事ですか?」


「婚約破棄、成立したそうだな」


「ええ、おかげさまで。……なぜご存知で?」


まだ一分も経っていないはずです。


レオンハルト団長は答えず、懐から一枚の紙を取り出しました。


そこには、王国の地図と、いくつかのルートが赤線で記されています。


「君が実家の馬車を使わず、裏門から辻馬車を拾い、西の街道を経由して隣国の別荘地へ逃亡するルート……すでに把握済みだ」


「は?」


私の思考が停止しました。


なぜバレている?


あれは昨日の深夜、ベッドの中でこっそり立てた極秘計画のはず。


「どいてください。私には帰って寝るという重大な任務が……」


「ならん」


レオンハルト団長は、無表情のまま言い放ちました。


「君の身柄は、これより私が預かる」


「……はい?」


「逃がさないと言っている」


その言葉の響きは、まるで凶悪犯を確保する時のそれでした。


しかし、その瞳の奥には、獲物を前にした肉食獣のような、あるいはもっと別の――重く、熱い何かが渦巻いているように見えたのです。


自由への扉が開いたと思った瞬間、なぜか最強の門番にロックオンされてしまった。


私の平穏な隠居計画に、早くも暗雲が立ち込めた瞬間でした。
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