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柔らかな陽射しが、レンガ造りのテラスに降り注いでいました。
ルベル渓谷の別荘。
かつて、私が「聖地」と呼び、隠居を夢見たこの場所には、今、穏やかな風が吹いています。
「……良い天気ですね」
私はロッキングチェアに深く体を預け、膝掛けを直しました。
視界に入る手は、随分と皺が増え、血管が浮き出ています。かつて書類とペンを握りしめ、国を動かしていた手も、今では編み棒を持つのがやっとです。
「ああ。絶好の昼寝日和だ」
隣の椅子から、低く、少し枯れた声が答えました。
レオンハルト様です。
彼の自慢だった銀髪は、今や純白の雪のようになりました。けれど、その背筋は老いてもなお騎士のように伸びており、私を見るアイスブルーの瞳の優しさは、出会った頃と少しも変わっていません。
「ニュースを聞いたか、スカーレット。……王都からの手紙だ」
彼はサイドテーブルに置かれた新聞を手に取りました。
「エレナが、ついに『大陸統一法典』を完成させたそうだ。各国の法律を統合し、貿易の壁を撤廃する……お前がやり残した最後の仕事だと言っていたぞ」
「……あの子らしいですわ」
私は目を細めました。
娘のエレナは、私の論理的思考を受け継ぎ、私の後を追って史上最年少の女性宰相となりました。今やその手腕は「氷の宰相」と呼ばれ、各国から恐れられているそうです。
「アレクの方も相変わらずだ。騎士団長として、またドラゴンを素手で追い払ったらしい。『父上の記録を抜いた!』と書いてある」
「……本当に、誰に似たのかしら。あんな筋肉ダルマ」
「ははは。私の自慢の息子だよ」
私たちは笑い合いました。
かつて「トラブルメーカー」だった双子たちは、立派に巣立ち、それぞれの道を歩んでいます。
リリィも、ヴィクターも、そして北の地で生涯を終えたジュリアン元殿下も……皆、それぞれの物語を生き、あるいは終えていきました。
「……長かったですね」
私はポツリと呟きました。
「ええ。本当に、長い『残業』でした」
「後悔しているか?」
レオンハルト様が、いつかと同じ質問をしました。
「お前が本来望んでいたのは、二十歳で引退して、一日中パジャマで過ごす生活だったはずだ。……私のせいで、随分と働かせてしまった」
私はゆっくりと首を横に振りました。
「いいえ。……計算外でしたけれど、赤字ではありませんでしたわ」
確かに、私は働きました。
子育てをし、国を回し、他国の干渉を跳ね除け、アイゼン家の親族をまとめ上げ……息つく暇もないほど、騒がしい人生でした。
でも。
「一人で寝るベッドは、広くて寒いですから」
私は隣を見ました。
「貴方が隣にいて、喧嘩をして、笑って、美味しいご飯を作ってくれて……。そんな毎日の方が、ずっと『効率的』に幸せでした」
「……そうか」
レオンハルト様の目尻に皺が寄りました。
彼は骨ばった大きな手で、私の手をそっと包み込みました。
「私もだ、スカーレット。お前と出会えて、私の人生は退屈を知らなかった。……愛しているよ。何十年経っても、お前は私の可愛いお姫様だ」
「……お爺さんが、何を言っているのですか」
口では憎まれ口を叩きながら、私は彼の手を握り返しました。
その温もり。
どんな地位や名誉よりも、私を安心させてくれる唯一の熱。
まぶたが、ゆっくりと重くなってきました。
心地よい風。小鳥の囀り。そして愛する人の気配。
全ての条件が整いました。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「そろそろ、許可をいただけますか?」
「なんの許可だ?」
「……長い、お昼寝の許可です」
私の言葉に、彼は一瞬だけ息を呑み、強く私の手を握り締めました。
けれどすぐに、彼は穏やかな声で答えました。
「ああ。……いいよ」
彼は優しく、私の髪を撫でました。
「よく頑張ったな、スカーレット。全ての業務は完了だ。……もう、誰も邪魔しない。ゆっくりお休み」
その言葉は、私が一生をかけて待ち望んでいた、最高の「退職願受理」の言葉でした。
「……ありがとうございます」
「心配するな。目が覚めるまで、私がずっと手を握っている」
「ええ。……知っていますわ」
「それに、夕飯の支度もしなくていい。今日は私が……」
彼の声が、少しずつ遠くなっていきます。
ああ、なんて贅沢なのでしょう。
書類もない。
騒音もない。
ただ、愛と静寂だけがある。
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じました。
意識が、温かい闇へと溶けていきます。
夢の中で、私はまた、あの頃の――若くて、不器用で、一生懸命だった私と彼に会えるでしょうか。
きっと会えるでしょう。
だって、ここは私の「聖地」。
ハッピーエンドの、その先にある場所なのですから。
「おやすみなさい、レオンハルト様……」
「おやすみ、スカーレット」
二つの椅子が、風に吹かれて小さく揺れました。
繋がれた手と手は、そのまま離れることなく。
かつて「悪役令嬢」と呼ばれた女は、最愛の騎士の隣で、永遠に満ち足りた眠りについたのでした。
ルベル渓谷の別荘。
かつて、私が「聖地」と呼び、隠居を夢見たこの場所には、今、穏やかな風が吹いています。
「……良い天気ですね」
私はロッキングチェアに深く体を預け、膝掛けを直しました。
視界に入る手は、随分と皺が増え、血管が浮き出ています。かつて書類とペンを握りしめ、国を動かしていた手も、今では編み棒を持つのがやっとです。
「ああ。絶好の昼寝日和だ」
隣の椅子から、低く、少し枯れた声が答えました。
レオンハルト様です。
彼の自慢だった銀髪は、今や純白の雪のようになりました。けれど、その背筋は老いてもなお騎士のように伸びており、私を見るアイスブルーの瞳の優しさは、出会った頃と少しも変わっていません。
「ニュースを聞いたか、スカーレット。……王都からの手紙だ」
彼はサイドテーブルに置かれた新聞を手に取りました。
「エレナが、ついに『大陸統一法典』を完成させたそうだ。各国の法律を統合し、貿易の壁を撤廃する……お前がやり残した最後の仕事だと言っていたぞ」
「……あの子らしいですわ」
私は目を細めました。
娘のエレナは、私の論理的思考を受け継ぎ、私の後を追って史上最年少の女性宰相となりました。今やその手腕は「氷の宰相」と呼ばれ、各国から恐れられているそうです。
「アレクの方も相変わらずだ。騎士団長として、またドラゴンを素手で追い払ったらしい。『父上の記録を抜いた!』と書いてある」
「……本当に、誰に似たのかしら。あんな筋肉ダルマ」
「ははは。私の自慢の息子だよ」
私たちは笑い合いました。
かつて「トラブルメーカー」だった双子たちは、立派に巣立ち、それぞれの道を歩んでいます。
リリィも、ヴィクターも、そして北の地で生涯を終えたジュリアン元殿下も……皆、それぞれの物語を生き、あるいは終えていきました。
「……長かったですね」
私はポツリと呟きました。
「ええ。本当に、長い『残業』でした」
「後悔しているか?」
レオンハルト様が、いつかと同じ質問をしました。
「お前が本来望んでいたのは、二十歳で引退して、一日中パジャマで過ごす生活だったはずだ。……私のせいで、随分と働かせてしまった」
私はゆっくりと首を横に振りました。
「いいえ。……計算外でしたけれど、赤字ではありませんでしたわ」
確かに、私は働きました。
子育てをし、国を回し、他国の干渉を跳ね除け、アイゼン家の親族をまとめ上げ……息つく暇もないほど、騒がしい人生でした。
でも。
「一人で寝るベッドは、広くて寒いですから」
私は隣を見ました。
「貴方が隣にいて、喧嘩をして、笑って、美味しいご飯を作ってくれて……。そんな毎日の方が、ずっと『効率的』に幸せでした」
「……そうか」
レオンハルト様の目尻に皺が寄りました。
彼は骨ばった大きな手で、私の手をそっと包み込みました。
「私もだ、スカーレット。お前と出会えて、私の人生は退屈を知らなかった。……愛しているよ。何十年経っても、お前は私の可愛いお姫様だ」
「……お爺さんが、何を言っているのですか」
口では憎まれ口を叩きながら、私は彼の手を握り返しました。
その温もり。
どんな地位や名誉よりも、私を安心させてくれる唯一の熱。
まぶたが、ゆっくりと重くなってきました。
心地よい風。小鳥の囀り。そして愛する人の気配。
全ての条件が整いました。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「そろそろ、許可をいただけますか?」
「なんの許可だ?」
「……長い、お昼寝の許可です」
私の言葉に、彼は一瞬だけ息を呑み、強く私の手を握り締めました。
けれどすぐに、彼は穏やかな声で答えました。
「ああ。……いいよ」
彼は優しく、私の髪を撫でました。
「よく頑張ったな、スカーレット。全ての業務は完了だ。……もう、誰も邪魔しない。ゆっくりお休み」
その言葉は、私が一生をかけて待ち望んでいた、最高の「退職願受理」の言葉でした。
「……ありがとうございます」
「心配するな。目が覚めるまで、私がずっと手を握っている」
「ええ。……知っていますわ」
「それに、夕飯の支度もしなくていい。今日は私が……」
彼の声が、少しずつ遠くなっていきます。
ああ、なんて贅沢なのでしょう。
書類もない。
騒音もない。
ただ、愛と静寂だけがある。
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じました。
意識が、温かい闇へと溶けていきます。
夢の中で、私はまた、あの頃の――若くて、不器用で、一生懸命だった私と彼に会えるでしょうか。
きっと会えるでしょう。
だって、ここは私の「聖地」。
ハッピーエンドの、その先にある場所なのですから。
「おやすみなさい、レオンハルト様……」
「おやすみ、スカーレット」
二つの椅子が、風に吹かれて小さく揺れました。
繋がれた手と手は、そのまま離れることなく。
かつて「悪役令嬢」と呼ばれた女は、最愛の騎士の隣で、永遠に満ち足りた眠りについたのでした。
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