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「エーリカ・フォン・アステリア! 貴様との婚約を破棄し、この国から追放する!」
シャンデリアが眩しく輝く王宮の夜会会場。
その中央で、第一王子ジュリアンが朗々と宣言した。
彼の腕には、男爵令嬢のリリアーヌが、壊れ物を扱うかのような手つきでしがみついている。
エーリカは手に持っていたワイングラスを、そっと近くのテーブルに置いた。
その所作があまりに冷静だったため、周囲の貴族たちは「ついにショックで心が壊れたか」とヒソヒソと囁き合う。
「……左様でございますか」
「なんだ、その他人事のような反応は! 貴様がリリアーヌに行った数々の嫌がらせ、すべて把握しているのだぞ!」
ジュリアンが突きつけた指先を見つめながら、エーリカは脳内で急速に計算を始めていた。
(婚約破棄……ということは、つまり、王子の代行として行っていた月間二百件におよぶ書類仕事からの解放。追放……ということは、国境を越えた先にある隣国の、あの広大な手つかずの自然と、何より『仕事をしなくていい日々』の到来……!)
エーリカの心臓が、歓喜で早鐘を打つ。
しかし、彼女の顔面は長年の過酷な事務作業によって表情筋が死滅しており、傍目には冷徹な氷の美貌にしか見えない。
「殿下、一つ確認させていただきたいのですが。その『婚約破棄』および『追放令』は、今この瞬間から発効されるということで、お間違いないでしょうか?」
「当たり前だ! 二度とその不気味な顔を私の前に見せるな!」
「承知いたしました。では、これにて私は『自由』……失礼いたしました、『国外追放身分』ということで、受理させていただきます。ありがとうございます」
エーリカは、これまで見せたことのないほど深い、そして優雅な礼をした。
あまりの腰の低さに、ジュリアンの方が毒気を抜かれたように一歩後退る。
「……あ、あの、エーリカ様ぁ」
リリアーヌが、勝ち誇ったような、それでいてどこか不安げな声を上げた。
「リリアーヌ様、何か?」
「そんなに、あっさり認めちゃうんですかぁ? もっと、こう、泣き喚いて私に縋り付くとか、そういうのを想像していたんですけどぉ……」
「いえ、とんでもございません。リリアーヌ様のような『愛に生きる方』こそ、殿下の隣にふさわしい。私のような、税率の計算や魔物討伐の予算配分にしか興味がない女は、早々に身を引くのが世のため人のためでございます」
エーリカの言葉に、周囲の貴族たちがざわめき出した。
彼らは知っているのだ。この国の内政が、王子の名前を借りたエーリカ一人の手によって回っていたという事実を。
「さぁ、殿下。私の私物は、すでに馬車に積み込んであります。追放を言い渡されるだろうと予測して、昨夜のうちにパッキングを済ませておきましたので」
「は? よ、予測していただと?」
「ええ。殿下がリリアーヌ様に鼻の下を伸ば……失礼、熱烈な視線を送るようになってから、私の計算によれば、本日がXデーになる確率が九八パーセントでしたから。残りの二パーセントは、殿下が転んで頭を打って、正気に戻る可能性を考慮したものです」
エーリカは淡々と、かつ流暢に言葉を紡ぐ。
ジュリアンの顔が、怒りと困惑で赤ら顔に変わっていく。
「き、貴様……! どこまでも私を馬鹿にしおって!」
「滅相もございません。ただ、殿下には最後のご奉公として、私の執務室の鍵を返却させていただきます。机の上にあります赤い表紙の束が、明日までに処理しなければならない緊急案件。青い表紙が、来週までに終わらせないと国庫が空になる案件でございます」
エーリカは懐から鍵を取り出し、ジュリアンの手元に放り投げた。
鍵はチャリンと虚しい音を立てて、王子の足元に転がる。
「それでは皆様、ごきげんよう。私はこれから、人生初の『有給休暇』……もとい、追放生活を謳歌しに行ってまいりますわ。あぁ、なんて素晴らしい夜かしら!」
エーリカは、踵を返して出口へと向かった。
その背中は、誰が見ても「悲劇のヒロイン」ではなく、「終業ベルと同時に退社する会社員」のそれであった。
「待て! 待たないか、エーリカ! まだ話は終わって……!」
後ろでジュリアンが何かを叫んでいるが、エーリカの耳にはもう届かない。
彼女の頭の中は、今夜泊まる予定の宿で食べる予定の、温かいスープとふかふかのベッドのことで一杯だった。
(さようなら、ブラックな王宮! こんにちは、輝かしいニート生活!)
夜会会場の重厚な扉が開かれる。
外の夜風は、執務室のインクの匂いとは違い、どこまでも清々しく、エーリカの頬を優しく撫でた。
彼女の瞳は、まるで少女のようにキラキラと輝いている。
それは、これから始まる波乱万丈な(本人は隠居のつもりだが)新生活への期待に満ち溢れていた。
シャンデリアが眩しく輝く王宮の夜会会場。
その中央で、第一王子ジュリアンが朗々と宣言した。
彼の腕には、男爵令嬢のリリアーヌが、壊れ物を扱うかのような手つきでしがみついている。
エーリカは手に持っていたワイングラスを、そっと近くのテーブルに置いた。
その所作があまりに冷静だったため、周囲の貴族たちは「ついにショックで心が壊れたか」とヒソヒソと囁き合う。
「……左様でございますか」
「なんだ、その他人事のような反応は! 貴様がリリアーヌに行った数々の嫌がらせ、すべて把握しているのだぞ!」
ジュリアンが突きつけた指先を見つめながら、エーリカは脳内で急速に計算を始めていた。
(婚約破棄……ということは、つまり、王子の代行として行っていた月間二百件におよぶ書類仕事からの解放。追放……ということは、国境を越えた先にある隣国の、あの広大な手つかずの自然と、何より『仕事をしなくていい日々』の到来……!)
エーリカの心臓が、歓喜で早鐘を打つ。
しかし、彼女の顔面は長年の過酷な事務作業によって表情筋が死滅しており、傍目には冷徹な氷の美貌にしか見えない。
「殿下、一つ確認させていただきたいのですが。その『婚約破棄』および『追放令』は、今この瞬間から発効されるということで、お間違いないでしょうか?」
「当たり前だ! 二度とその不気味な顔を私の前に見せるな!」
「承知いたしました。では、これにて私は『自由』……失礼いたしました、『国外追放身分』ということで、受理させていただきます。ありがとうございます」
エーリカは、これまで見せたことのないほど深い、そして優雅な礼をした。
あまりの腰の低さに、ジュリアンの方が毒気を抜かれたように一歩後退る。
「……あ、あの、エーリカ様ぁ」
リリアーヌが、勝ち誇ったような、それでいてどこか不安げな声を上げた。
「リリアーヌ様、何か?」
「そんなに、あっさり認めちゃうんですかぁ? もっと、こう、泣き喚いて私に縋り付くとか、そういうのを想像していたんですけどぉ……」
「いえ、とんでもございません。リリアーヌ様のような『愛に生きる方』こそ、殿下の隣にふさわしい。私のような、税率の計算や魔物討伐の予算配分にしか興味がない女は、早々に身を引くのが世のため人のためでございます」
エーリカの言葉に、周囲の貴族たちがざわめき出した。
彼らは知っているのだ。この国の内政が、王子の名前を借りたエーリカ一人の手によって回っていたという事実を。
「さぁ、殿下。私の私物は、すでに馬車に積み込んであります。追放を言い渡されるだろうと予測して、昨夜のうちにパッキングを済ませておきましたので」
「は? よ、予測していただと?」
「ええ。殿下がリリアーヌ様に鼻の下を伸ば……失礼、熱烈な視線を送るようになってから、私の計算によれば、本日がXデーになる確率が九八パーセントでしたから。残りの二パーセントは、殿下が転んで頭を打って、正気に戻る可能性を考慮したものです」
エーリカは淡々と、かつ流暢に言葉を紡ぐ。
ジュリアンの顔が、怒りと困惑で赤ら顔に変わっていく。
「き、貴様……! どこまでも私を馬鹿にしおって!」
「滅相もございません。ただ、殿下には最後のご奉公として、私の執務室の鍵を返却させていただきます。机の上にあります赤い表紙の束が、明日までに処理しなければならない緊急案件。青い表紙が、来週までに終わらせないと国庫が空になる案件でございます」
エーリカは懐から鍵を取り出し、ジュリアンの手元に放り投げた。
鍵はチャリンと虚しい音を立てて、王子の足元に転がる。
「それでは皆様、ごきげんよう。私はこれから、人生初の『有給休暇』……もとい、追放生活を謳歌しに行ってまいりますわ。あぁ、なんて素晴らしい夜かしら!」
エーリカは、踵を返して出口へと向かった。
その背中は、誰が見ても「悲劇のヒロイン」ではなく、「終業ベルと同時に退社する会社員」のそれであった。
「待て! 待たないか、エーリカ! まだ話は終わって……!」
後ろでジュリアンが何かを叫んでいるが、エーリカの耳にはもう届かない。
彼女の頭の中は、今夜泊まる予定の宿で食べる予定の、温かいスープとふかふかのベッドのことで一杯だった。
(さようなら、ブラックな王宮! こんにちは、輝かしいニート生活!)
夜会会場の重厚な扉が開かれる。
外の夜風は、執務室のインクの匂いとは違い、どこまでも清々しく、エーリカの頬を優しく撫でた。
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