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王宮の廊下を、エーリカは軽快な足取りで進んでいた。
背後から聞こえる怒号や困惑のざわめきは、もはや心地よいBGMでしかない。
向かう先は、三年間、一日の休みもなく籠もり続けた執務室だ。
「失礼しますわ。……あぁ、このインクと古紙の混ざった匂い! これとも今日でおさらばね!」
勢いよく扉を開けると、そこには徹夜明けで死んだ魚のような目をしている事務官たちがいた。
彼らはエーリカの姿を見るなり、救いを求めるように立ち上がる。
「エーリカ様! あ、あの、この予算案の修正なのですが……!」
「あぁ、それ。もう私には関係ありませんわ」
「えっ?」
事務官が固まる。
エーリカは鼻歌まじりに、自分の机の上に置いていた私物の文房具を箱に詰め始めた。
「殿下から、たった今『婚約破棄』と『国外追放』を賜りましたの。ですので、私は今この瞬間から、この国の人間ですらありません」
「な、なんですって!? じゃあ、この後の大臣会議の資料は誰が……」
「殿下か、あるいは新しい婚約者となるリリアーヌ様が、愛の力でなんとかしてくださるはずですよ。楽しみですね、皆さんも」
エーリカは満面の笑みを浮かべた。
表情筋が死んでいるせいで周囲には「絶望のあまり狂った笑い」に見えていたが、本人は至って本気で喜んでいる。
「さて、と。これが最後の仕事ですわね」
エーリカは、机の脇に高く積み上げられた三つの大きな書類の束を指差した。
「これらはすべて、殿下が『明日までにやる』と仰って三ヶ月放置されていたものです。すべて殿下宛に、返品として置いていきますわ」
「そ、それを今から殿下に回したら、明日には国が止まります!」
「いいえ、止まりませんわ。……多分、三日後くらいに止まります」
「変わらないですよ!」
事務官の叫びを華麗にスルーし、エーリカは最後のペンを一等品のスエードケースに仕舞った。
思い出は山ほどあるが、未練は微塵もない。
「それでは皆様、短い間でしたがありがとうございました。私はこれから、隣国の国境まで馬車を飛ばします。追放令が出た以上、一刻も早く出国しないと不敬罪になってしまいますものね」
「追放されるのに、どうしてそんなに嬉しそうなんですか……」
「あら、分かります? 実は私、人生で一度も『昼まで寝る』という経験をしたことがないんです。これからは毎日それができるなんて、夢のようだと思いませんか?」
エーリカは箱を抱え、軽やかに執務室を後にした。
廊下に出ると、ちょうどこちらに向かって走ってくるジュリアンの姿が見えた。
「エーリカ! 貴様、勝手にいなくなるなと言っただろう!」
「殿下、私は不敬な女ですので。殿下のお顔を汚さないよう、迅速に消えるのが礼儀かと存じます。……あ、書類は机に置いておきましたので、頑張ってくださいね」
「書類? そんなことより、私の明日の服の準備は……」
「それもリリアーヌ様に聞いてくださいませ。それでは!」
「待て! おい!」
呼び止める声を無視して、エーリカは王宮の階段を駆け下りた。
玄関先には、彼女が手配しておいた一台の馬車が停まっている。
「お嬢様、本当に行ってしまうのですか?」
御者台に座る老僕が、心配そうに尋ねる。
彼はエーリカが幼い頃から仕えている、数少ない味方の一人だ。
「ええ、ハンス。行き先は決まっているわ。隣国の、あの温泉が有名な保養地よ!」
「……追放されたにしては、随分と浮かれた行き先ですな」
「いいじゃない。さぁ、出発して! 追手が『やっぱり仕事に戻れ』と言い出す前に、国境を越えるわよ!」
馬車が動き出す。
石畳を叩く馬の蹄の音が、エーリカには自由を祝う拍手のように聞こえた。
彼女は馬車の窓から、遠ざかっていく王宮を見つめる。
明日からあの場所で起こるであろう大混乱を想像し、エーリカは今日一番の深い溜息をついた。
「あぁ……明日、目が覚めたら仕事がないなんて。なんて贅沢なのかしら」
こうして、希代の有能令嬢は、自らの意思で「悪役」の汚名を被ったまま、高笑いと共に国を捨てたのであった。
背後から聞こえる怒号や困惑のざわめきは、もはや心地よいBGMでしかない。
向かう先は、三年間、一日の休みもなく籠もり続けた執務室だ。
「失礼しますわ。……あぁ、このインクと古紙の混ざった匂い! これとも今日でおさらばね!」
勢いよく扉を開けると、そこには徹夜明けで死んだ魚のような目をしている事務官たちがいた。
彼らはエーリカの姿を見るなり、救いを求めるように立ち上がる。
「エーリカ様! あ、あの、この予算案の修正なのですが……!」
「あぁ、それ。もう私には関係ありませんわ」
「えっ?」
事務官が固まる。
エーリカは鼻歌まじりに、自分の机の上に置いていた私物の文房具を箱に詰め始めた。
「殿下から、たった今『婚約破棄』と『国外追放』を賜りましたの。ですので、私は今この瞬間から、この国の人間ですらありません」
「な、なんですって!? じゃあ、この後の大臣会議の資料は誰が……」
「殿下か、あるいは新しい婚約者となるリリアーヌ様が、愛の力でなんとかしてくださるはずですよ。楽しみですね、皆さんも」
エーリカは満面の笑みを浮かべた。
表情筋が死んでいるせいで周囲には「絶望のあまり狂った笑い」に見えていたが、本人は至って本気で喜んでいる。
「さて、と。これが最後の仕事ですわね」
エーリカは、机の脇に高く積み上げられた三つの大きな書類の束を指差した。
「これらはすべて、殿下が『明日までにやる』と仰って三ヶ月放置されていたものです。すべて殿下宛に、返品として置いていきますわ」
「そ、それを今から殿下に回したら、明日には国が止まります!」
「いいえ、止まりませんわ。……多分、三日後くらいに止まります」
「変わらないですよ!」
事務官の叫びを華麗にスルーし、エーリカは最後のペンを一等品のスエードケースに仕舞った。
思い出は山ほどあるが、未練は微塵もない。
「それでは皆様、短い間でしたがありがとうございました。私はこれから、隣国の国境まで馬車を飛ばします。追放令が出た以上、一刻も早く出国しないと不敬罪になってしまいますものね」
「追放されるのに、どうしてそんなに嬉しそうなんですか……」
「あら、分かります? 実は私、人生で一度も『昼まで寝る』という経験をしたことがないんです。これからは毎日それができるなんて、夢のようだと思いませんか?」
エーリカは箱を抱え、軽やかに執務室を後にした。
廊下に出ると、ちょうどこちらに向かって走ってくるジュリアンの姿が見えた。
「エーリカ! 貴様、勝手にいなくなるなと言っただろう!」
「殿下、私は不敬な女ですので。殿下のお顔を汚さないよう、迅速に消えるのが礼儀かと存じます。……あ、書類は机に置いておきましたので、頑張ってくださいね」
「書類? そんなことより、私の明日の服の準備は……」
「それもリリアーヌ様に聞いてくださいませ。それでは!」
「待て! おい!」
呼び止める声を無視して、エーリカは王宮の階段を駆け下りた。
玄関先には、彼女が手配しておいた一台の馬車が停まっている。
「お嬢様、本当に行ってしまうのですか?」
御者台に座る老僕が、心配そうに尋ねる。
彼はエーリカが幼い頃から仕えている、数少ない味方の一人だ。
「ええ、ハンス。行き先は決まっているわ。隣国の、あの温泉が有名な保養地よ!」
「……追放されたにしては、随分と浮かれた行き先ですな」
「いいじゃない。さぁ、出発して! 追手が『やっぱり仕事に戻れ』と言い出す前に、国境を越えるわよ!」
馬車が動き出す。
石畳を叩く馬の蹄の音が、エーリカには自由を祝う拍手のように聞こえた。
彼女は馬車の窓から、遠ざかっていく王宮を見つめる。
明日からあの場所で起こるであろう大混乱を想像し、エーリカは今日一番の深い溜息をついた。
「あぁ……明日、目が覚めたら仕事がないなんて。なんて贅沢なのかしら」
こうして、希代の有能令嬢は、自らの意思で「悪役」の汚名を被ったまま、高笑いと共に国を捨てたのであった。
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