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ガタゴトと揺れる馬車の振動が、今のエーリカにとっては最高の子守唄だった。
王都の門を抜け、追手の影がないことを確認した彼女は、座席に深く身を沈める。
「ああ、ハンス。この振動、この音。まるで行進曲のようですわ」
「お嬢様、それは少しばかり気が立ちすぎではございませんか。普通、追放された令嬢はもっとこう、絶望に打ちひしがれるものですよ」
御者席から小窓越しにハンスが呆れたような声を出す。
しかしエーリカは、扇子で口元を隠しながらも、その瞳は爛々と輝かせていた。
「絶望? まさか。あのアステリア公爵家の重い扉、そして王宮の湿った空気が消えていくのが、これほど清々しいなんて! 見てごらんなさい、あの木々を。あの草花を。あんなに緑色をしていたなんて、今の今まで忘れていましたわ」
「……お嬢様は、三年間も窓のない執務室に籠もりきりでしたからな。無理もありません」
「そうなのよ。私の視界にあるのは常に、白い紙と黒いインク、そして王子の真っ白な頭脳だけでしたもの。これからは何を見ても感動できそうですわ」
エーリカはそう言うと、ふーっと大きく息を吐き出した。
その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「……ねえ、ハンス。少しだけ、目を閉じてもよろしいかしら」
「お好きなだけどうぞ。国境まではまだ時間がかかります。誰にも邪魔はさせませんよ」
「ありがとう。じゃあ、一秒だけ……」
一秒だけ、という言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、エーリカの意識は深い闇へと沈んでいった。
それは、気絶に近いほどの深い眠りだった。
「……様。お嬢様。エーリカお嬢様!」
どれくらいの時間が経っただろうか。
耳元でハンスの声が聞こえ、エーリカはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……ん、ああ、ハンス。おはようございます。もう朝の五時かしら。昨日の帳簿の続きを……」
「お嬢様、落ち着いてください。今は昼の二時です。それに、もう帳簿なんてどこにもありませんよ」
ハンスの言葉に、エーリカはハッとして周囲を見渡した。
そこは豪華な自室でも、殺風景な執務室でもなく、揺れ続ける馬車の中だった。
「……そうだったわ。私はもう、働かなくていいのね」
「左様でございます。それにしてもお嬢様、随分な寝顔でしたぞ。口が開いておりました」
「なっ! わ、私としたことが! 公爵令嬢として、いえ、国外追放者としてあるまじき失態ですわ!」
エーリカは慌てて手鏡を取り出し、自分の顔を確認した。
そこには、目の下の隈が少しだけ薄くなり、頬に赤みが差した自分の姿があった。
「あら。私、意外と可愛い顔をしていますわね」
「元からですよ。仕事ばかりして、いつも般若のような顔をしていたから誰も気づかなかっただけです」
「般若ですって? 失礼ね。あれは『効率化の神』が取り憑いていただけよ」
エーリカはふふっと笑い、窓の外を眺めた。
遠くには、この国と隣国を隔てる大きな山脈が見え始めている。
「ハンス、国境を越えたら、まずは何をしましょうか」
「まずはまともな食事でしょうな。王宮では、冷めたスープを飲みながらペンを走らせていたのでしょう?」
「ええ。味なんて覚えていないわ。温かくて、誰にも邪魔されない食卓。なんて贅沢なのかしら」
エーリカは背伸びをすると、固まっていた体がバキバキと音を立てた。
その痛みすら、自分が生きている実感を伴って心地よかった。
「さあ、行きましょう。新しい人生の第一歩は、国境の検問所からね。悪役令嬢らしく、堂々と追い出されてあげますわ!」
馬車は速度を上げ、輝く太陽の下をひた走る。
彼女を縛り付けるものは、もう何一つ残っていなかった。
王都の門を抜け、追手の影がないことを確認した彼女は、座席に深く身を沈める。
「ああ、ハンス。この振動、この音。まるで行進曲のようですわ」
「お嬢様、それは少しばかり気が立ちすぎではございませんか。普通、追放された令嬢はもっとこう、絶望に打ちひしがれるものですよ」
御者席から小窓越しにハンスが呆れたような声を出す。
しかしエーリカは、扇子で口元を隠しながらも、その瞳は爛々と輝かせていた。
「絶望? まさか。あのアステリア公爵家の重い扉、そして王宮の湿った空気が消えていくのが、これほど清々しいなんて! 見てごらんなさい、あの木々を。あの草花を。あんなに緑色をしていたなんて、今の今まで忘れていましたわ」
「……お嬢様は、三年間も窓のない執務室に籠もりきりでしたからな。無理もありません」
「そうなのよ。私の視界にあるのは常に、白い紙と黒いインク、そして王子の真っ白な頭脳だけでしたもの。これからは何を見ても感動できそうですわ」
エーリカはそう言うと、ふーっと大きく息を吐き出した。
その瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「……ねえ、ハンス。少しだけ、目を閉じてもよろしいかしら」
「お好きなだけどうぞ。国境まではまだ時間がかかります。誰にも邪魔はさせませんよ」
「ありがとう。じゃあ、一秒だけ……」
一秒だけ、という言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、エーリカの意識は深い闇へと沈んでいった。
それは、気絶に近いほどの深い眠りだった。
「……様。お嬢様。エーリカお嬢様!」
どれくらいの時間が経っただろうか。
耳元でハンスの声が聞こえ、エーリカはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……ん、ああ、ハンス。おはようございます。もう朝の五時かしら。昨日の帳簿の続きを……」
「お嬢様、落ち着いてください。今は昼の二時です。それに、もう帳簿なんてどこにもありませんよ」
ハンスの言葉に、エーリカはハッとして周囲を見渡した。
そこは豪華な自室でも、殺風景な執務室でもなく、揺れ続ける馬車の中だった。
「……そうだったわ。私はもう、働かなくていいのね」
「左様でございます。それにしてもお嬢様、随分な寝顔でしたぞ。口が開いておりました」
「なっ! わ、私としたことが! 公爵令嬢として、いえ、国外追放者としてあるまじき失態ですわ!」
エーリカは慌てて手鏡を取り出し、自分の顔を確認した。
そこには、目の下の隈が少しだけ薄くなり、頬に赤みが差した自分の姿があった。
「あら。私、意外と可愛い顔をしていますわね」
「元からですよ。仕事ばかりして、いつも般若のような顔をしていたから誰も気づかなかっただけです」
「般若ですって? 失礼ね。あれは『効率化の神』が取り憑いていただけよ」
エーリカはふふっと笑い、窓の外を眺めた。
遠くには、この国と隣国を隔てる大きな山脈が見え始めている。
「ハンス、国境を越えたら、まずは何をしましょうか」
「まずはまともな食事でしょうな。王宮では、冷めたスープを飲みながらペンを走らせていたのでしょう?」
「ええ。味なんて覚えていないわ。温かくて、誰にも邪魔されない食卓。なんて贅沢なのかしら」
エーリカは背伸びをすると、固まっていた体がバキバキと音を立てた。
その痛みすら、自分が生きている実感を伴って心地よかった。
「さあ、行きましょう。新しい人生の第一歩は、国境の検問所からね。悪役令嬢らしく、堂々と追い出されてあげますわ!」
馬車は速度を上げ、輝く太陽の下をひた走る。
彼女を縛り付けるものは、もう何一つ残っていなかった。
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