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「……はぁ。ようやく帰りましたわね、あのキャベツ王子」
馬車の車輪が立てる不快な音が遠ざかるのを見送り、エーリカは深く息を吐いた。
肩の力が抜け、どっと疲れが押し寄せる。
やはり無能の相手をするのは、複雑な数式を解くよりも数倍の体力を消耗するものだ。
「お疲れ様でした、お嬢様。……おや、旦那様。そんなに険しい顔をして、どうされましたかな?」
ハンスの声に振り返ると、そこにはジュリアンが去った方向を凝視したまま、微動だにしないクラウスがいた。
彼の周囲には、先ほどまでの「少し強引な溺愛騎士」の空気は微塵もない。
あるのは、戦場の最前線で数多の敵を屠ってきた「英雄」としての、静かな、しかし凍りつくような殺気だった。
「……閣下? もう王子は行きましたわよ。そんなに睨みつけなくても、あの方はもう二度とここへは……」
「エーリカ。……あやつ、去り際にこれを落としていったぞ」
クラウスが指し示したのは、石畳の上に落ちていた一通の書簡だった。
王家の紋章が刻まれた、正式な『帰還命令書』だ。
エーリカがそれを拾い上げようとすると、クラウスの手がそれを制し、代わりに拾い上げた。
中身を一読したクラウスの瞳が、深淵のような黒に染まる。
「……『国家資産返還要求』だと?」
「国家資産? あの方が私を、物か何かと勘違いしているのかしら」
「それだけではない。ここに記されている内容は……貴殿が王宮の機密(帳簿)を盗み出し、隣国の男を誘惑して亡命を図った反逆者であると断定し、即刻の身柄拘束を命じるものだ」
エーリカは絶句した。
土下座までして見せたのは、油断を誘うための演技だったのか。
あるいは、断られた時のための卑劣な保険だったのか。
「しかも、裏面にはこうある。……『抵抗する場合は、ハインリヒ領への経済制裁および軍事的圧力を辞さない』。あやつ、貴殿を連れ戻すために、我が領と戦争を始める気か」
クラウスの声は低く、地を這うような響きを持っていた。
彼は無言で、持っていた命令書を素手で握りつぶした。
紙がミシミシと音を立てて粉々になり、風に舞う。
「……閣下。申し訳ありません。私のせいで、ハインリヒ領にまで迷惑を……」
「謝るな、エーリカ。私が怒っているのは、そんなことではない」
クラウスがゆっくりと振り返った。
その表情を見たエーリカは、思わず息を呑んだ。
彼は怒っていた。自分に対してではなく、エーリカを「計算機」か「資産」としか見なさない、あの男の浅ましさに対して。
「あやつは、君の心を、君の努力を、君という唯一無二の存在を……ただの『便利な道具』だと思っている。挙句の果てに、意に沿わねば反逆者扱いだと? ……許さん。断じて許さんぞ」
クラウスはそのまま、待機していた副官に向かって鋭い声を飛ばした。
「全軍に通達! 国境付近の警戒レベルを最大に引き上げろ! それから、王都の我が国のスパイに命じ、ジュリアンがこれまでに使い込んだ『使途不明金』の証拠をすべて、近隣諸国の王宮へバラまけ!」
「は、はいっ! 直ちに!」
「待ってください、閣下! そんなことをしたら、本当に戦争になってしまいますわ!」
エーリカが慌てて彼の腕を掴むが、クラウスの決意は揺るがなかった。
彼はエーリカの手を優しく、しかし力強く握りしめた。
「戦争などさせん。……一方的な『粛清』だ。エーリカ、君は知っているはずだ。数字が狂った組織がいかに脆いか。私は、君を侮辱した報いとして、あの男が最も執着している『王子の地位』を、根底から叩き潰してやる」
クラウスの背後に、黒い炎が見えるような気がした。
彼は「氷の騎士」ではない。一度火がつけばすべてを焼き尽くす、黒い太陽なのだ。
「……閣下。怒ってくださるのは嬉しいですが、少し怖いですわ」
「すまない。だが、君を傷つけようとする者がいる限り、私は手加減の仕方を思い出せそうにないのだ」
クラウスはエーリカの額に、誓いのようにそっと唇を寄せた。
「安心しろ。君はここで、好きなだけ計算し、好きなだけ昼寝をしていればいい。ゴミの片付けは、騎士の役目だ」
その夜、シュヴァルツ・シュロスの伝書鳩が、夜空へと一斉に飛び立った。
翌朝には、アステリア王国全土に、王子の不正と無能を告発する「完璧な報告書」がばら撒かれることになる。
エーリカは、執務室で一人、クラウスが淹れてくれた(少し濃すぎる)お茶を飲みながら窓の外を眺めた。
「……あーあ。私、ただのニートになりたかっただけなんですけれどね」
呟きとは裏腹に、彼女の指先は、クラウスから手渡された「王宮崩壊シミュレーション」の書類を、楽しそうにめくっていた。
守られるだけのお姫様になるには、彼女はあまりにも、有能すぎたのである。
馬車の車輪が立てる不快な音が遠ざかるのを見送り、エーリカは深く息を吐いた。
肩の力が抜け、どっと疲れが押し寄せる。
やはり無能の相手をするのは、複雑な数式を解くよりも数倍の体力を消耗するものだ。
「お疲れ様でした、お嬢様。……おや、旦那様。そんなに険しい顔をして、どうされましたかな?」
ハンスの声に振り返ると、そこにはジュリアンが去った方向を凝視したまま、微動だにしないクラウスがいた。
彼の周囲には、先ほどまでの「少し強引な溺愛騎士」の空気は微塵もない。
あるのは、戦場の最前線で数多の敵を屠ってきた「英雄」としての、静かな、しかし凍りつくような殺気だった。
「……閣下? もう王子は行きましたわよ。そんなに睨みつけなくても、あの方はもう二度とここへは……」
「エーリカ。……あやつ、去り際にこれを落としていったぞ」
クラウスが指し示したのは、石畳の上に落ちていた一通の書簡だった。
王家の紋章が刻まれた、正式な『帰還命令書』だ。
エーリカがそれを拾い上げようとすると、クラウスの手がそれを制し、代わりに拾い上げた。
中身を一読したクラウスの瞳が、深淵のような黒に染まる。
「……『国家資産返還要求』だと?」
「国家資産? あの方が私を、物か何かと勘違いしているのかしら」
「それだけではない。ここに記されている内容は……貴殿が王宮の機密(帳簿)を盗み出し、隣国の男を誘惑して亡命を図った反逆者であると断定し、即刻の身柄拘束を命じるものだ」
エーリカは絶句した。
土下座までして見せたのは、油断を誘うための演技だったのか。
あるいは、断られた時のための卑劣な保険だったのか。
「しかも、裏面にはこうある。……『抵抗する場合は、ハインリヒ領への経済制裁および軍事的圧力を辞さない』。あやつ、貴殿を連れ戻すために、我が領と戦争を始める気か」
クラウスの声は低く、地を這うような響きを持っていた。
彼は無言で、持っていた命令書を素手で握りつぶした。
紙がミシミシと音を立てて粉々になり、風に舞う。
「……閣下。申し訳ありません。私のせいで、ハインリヒ領にまで迷惑を……」
「謝るな、エーリカ。私が怒っているのは、そんなことではない」
クラウスがゆっくりと振り返った。
その表情を見たエーリカは、思わず息を呑んだ。
彼は怒っていた。自分に対してではなく、エーリカを「計算機」か「資産」としか見なさない、あの男の浅ましさに対して。
「あやつは、君の心を、君の努力を、君という唯一無二の存在を……ただの『便利な道具』だと思っている。挙句の果てに、意に沿わねば反逆者扱いだと? ……許さん。断じて許さんぞ」
クラウスはそのまま、待機していた副官に向かって鋭い声を飛ばした。
「全軍に通達! 国境付近の警戒レベルを最大に引き上げろ! それから、王都の我が国のスパイに命じ、ジュリアンがこれまでに使い込んだ『使途不明金』の証拠をすべて、近隣諸国の王宮へバラまけ!」
「は、はいっ! 直ちに!」
「待ってください、閣下! そんなことをしたら、本当に戦争になってしまいますわ!」
エーリカが慌てて彼の腕を掴むが、クラウスの決意は揺るがなかった。
彼はエーリカの手を優しく、しかし力強く握りしめた。
「戦争などさせん。……一方的な『粛清』だ。エーリカ、君は知っているはずだ。数字が狂った組織がいかに脆いか。私は、君を侮辱した報いとして、あの男が最も執着している『王子の地位』を、根底から叩き潰してやる」
クラウスの背後に、黒い炎が見えるような気がした。
彼は「氷の騎士」ではない。一度火がつけばすべてを焼き尽くす、黒い太陽なのだ。
「……閣下。怒ってくださるのは嬉しいですが、少し怖いですわ」
「すまない。だが、君を傷つけようとする者がいる限り、私は手加減の仕方を思い出せそうにないのだ」
クラウスはエーリカの額に、誓いのようにそっと唇を寄せた。
「安心しろ。君はここで、好きなだけ計算し、好きなだけ昼寝をしていればいい。ゴミの片付けは、騎士の役目だ」
その夜、シュヴァルツ・シュロスの伝書鳩が、夜空へと一斉に飛び立った。
翌朝には、アステリア王国全土に、王子の不正と無能を告発する「完璧な報告書」がばら撒かれることになる。
エーリカは、執務室で一人、クラウスが淹れてくれた(少し濃すぎる)お茶を飲みながら窓の外を眺めた。
「……あーあ。私、ただのニートになりたかっただけなんですけれどね」
呟きとは裏腹に、彼女の指先は、クラウスから手渡された「王宮崩壊シミュレーション」の書類を、楽しそうにめくっていた。
守られるだけのお姫様になるには、彼女はあまりにも、有能すぎたのである。
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