婚約破棄? 喜んで! ついでにこれも返却しますね?

ちゅんりー

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シュヴァルツ・シュロスのバルコニーからは、国境の山々に沈む美しい夕陽が一望できた。
手元には、クラウスが放った情報戦の結果報告書。
エーリカはそれを読み終え、感嘆の吐息をついた。

「実に見事な手際ですわね。ジュリアン殿下の使途不明金を、近隣諸国の通商連合に一斉送信するなんて。これでは王国は、外交的に完全に詰みですわ」

「あぁ。数字で国を動かしていた君の敵ではないが、物理的な圧力と情報の拡散は私の得意分野だ。……不快な思いをさせたな、エーリカ」

背後から、重厚な足音が近づく。
振り返ると、そこには戦装束を脱ぎ、ゆったりとした部屋着を纏ったクラウスが立っていた。
その瞳は、先夜の猛々しい殺気は影を潜め、どこまでも穏やかで、深い。

「いいえ。……私、少し驚きましたの。誰かが私のために、これほどまでに容赦なく『怒り』を露わにしてくださるなんて、初めてのことでしたから」

エーリカは少しだけ視線を落とした。
王宮では、彼女の苦労は「当然の義務」であり、彼女への無礼は「王族の愛嬌」で済まされていた。
守られることの、その胸を締め付けるような温かさに、彼女はまだ慣れずにいる。

「……エーリカ。私はこれまで、君の有能さに惚れ込み、君の才能を我が領に迎えたいと言い続けてきた」

クラウスが、一歩、彼女との距離を詰めた。
夕陽を背負った彼のシルエットが、エーリカの視界を優しく覆う。

「だが、それは間違いだったと気づいた。……私は、君の計算能力が欲しいわけでも、君の事務処理能力を求めているわけでもない」

「え? そ、それは困りますわ。私からその二つを取ったら、ただの『昼寝好きの令嬢』になってしまいますもの」

エーリカが動揺して冗談めかすと、クラウスは低く笑い、彼女の両手をそっと包み込んだ。
その手は大きく、そしてとても温かかった。

「それでも構わない。……君が一日中寝ていても、君が二度とペンを握らなくても、私は君が欲しいのだ。エーリカ・フォン・アステリアという一人の女性を、私の人生に迎えたい」

クラウスはそのまま、古風な騎士の作法に則り、その場で静かに跪いた。
バルコニーを吹き抜ける風が、彼の銀髪を揺らす。

「これはスカウトではない。……正式な求婚だ。エーリカ、私と結婚してほしい」

「……っ」

「君を二度と働かせない、とは言わない。君は、何かを成し遂げている時が最も輝いているからだ。だが、君を二度と『一人で』戦わせはしない。君が疲れたら私が抱き上げ、君が迷ったら私が道を切り拓こう」

エーリカは言葉を失った。
心臓の鼓動が、かつてないほど速く、激しく時を刻んでいる。
それは、どれほど複雑な帳簿を前にしても感じたことのない、甘くて苦しい動揺だった。

「……閣下。一つ、確認してもよろしいかしら」

「なんだ? どのような条件でも受け入れよう」

「私、結婚しても、たまに無意識に領地の予算案に赤ペンを入れてしまうかもしれません。……それでも、よろしいのですか?」

エーリカが少しだけ声を震わせて尋ねると、クラウスは顔を上げ、眩しいものを見るような笑みを浮かべた。

「あぁ。その赤ペンの一本一本が、私への愛の証だと思って受け止めよう」

「……。あなた、本当に、とんでもない方ですわね」

エーリカは顔を真っ赤に染めながら、自嘲気味に笑った。
そして、彼の手の中にあった自分の手を、そっと握り返した。

「……お受けしますわ、その不合理な契約。私も、あなたの淹れた(苦すぎる)お茶を、一生飲んであげる覚悟を決めましたから」

「――っ、エーリカ!」

歓喜に溢れたクラウスが、彼女をそのまま軽々と抱き上げた。
くるくると回る視界の中で、エーリカは初めて、自分が求めていた「自由」の正体を知った。

それは、何もしないことではない。
自分を理解し、愛してくれる人の隣で、自分らしく在れること。

「さあ、そうと決まれば次は結婚式の準備だな! エーリカ、君の理想の式を教えてくれ。予算は無限だ!」

「無限なんて、一番管理しにくい数字を言わないでくださいまし! ほら、まずは積算見積書を持ってきなさい! 私が一晩で精査してあげますわ!」

「ははは! やはり君は、最高に可愛い私の奥方だ!」

幸せな喧嘩を繰り広げる二人の上空には、祝福するように一番星が輝き始めていた。
だが、そんな二人のもとへ、ハンスが血相を変えて駆け込んできた。

「お嬢様、旦那様! 大変です! 王宮から逃げ出したリリアーヌ様が、なぜか我が公爵家の馬車を盗んでこちらに向かっているとの報告が!」

「……もう、最後までお休みをくれないのかしら、あの人たちは」

エーリカは深く溜息をつきつつも、その瞳には戦う有能令嬢の光が、力強く宿っていた。
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