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静まり返った夜会会場。
床に散らばった教務主任バインの裏帳簿と、無惨に倒れ伏した本人の姿。
そして、その中心に立つ私に向けられた、何百もの熱い視線。
……やりすぎましたわね。
私の計画では、もっとこう、ひっそりと「殿下に愛想を尽かされた可哀想(?)な令嬢」として身を引くはずだったのに。
「……マーリ。……いや、マーリ・侯爵令嬢」
震える声で私の名を呼んだのは、脇の下が弾けた上着を必死に押さえているジュリアン殿下だった。
彼の顔からは、これまでの傲慢な自信が完全に消え去っている。
代わりに浮かんでいるのは、深い後悔と、そして……何かを覚悟したような表情。
「……はい、殿下。なんでしょう。その、上着の予備なら、あちらの控室にバイン様が没収した『生徒からの賄賂品』の中に一着ありましたわよ。サイズも今の殿下にぴったりですわ」
「……そんなことはどうでもいい。……私は、取り返しのつかない過ちを犯した」
ジュリアン殿下が一歩、重い足取りで私に近づく。
その足元、右の靴の踵(かかと)が三ミリほど削れている。焦って会場を歩き回った証拠ですわね。
「私はリリアの甘い言葉に惑わされ、バインの策略に乗せられ……真に国を、そして私を支えてくれるはずだった『予言の聖女』である君を、この手で切り捨てようとした」
「……殿下、そこまで仰らなくても。私はただの人間観察マニア――」
「静かにしてくれ。……君は、私の不実をすべて見通していたのだな。私が脇を破ることも、鼻血を出すことも、すべては君が私に与えた『悔い改めるための試練』だったのだな……!」
……違います。
それは単に殿下の自業自得ですわ。
「マーリ・侯爵令嬢。君に、公式に謝罪したい。君は邪悪な魔女などではない。この国に必要な、唯一無二の真実を語る女性だ」
会場中から「おおお……」という感銘の声が上がる。
ジュリアン殿下は深呼吸をし、喉の震えを抑えるようにして叫んだ。
「ここに宣言する! 私、ジュリアン・フォン・アステリアは、マーリ・侯爵令嬢との婚約を、本日をもって解消する!!」
待ってました!
私は心の中で小躍りし、ガッツポーズを決めそうになった。
けれど、殿下の言葉には続きがあった。
「これは君を追放するためではない! 不実な私には、君を隣に置く資格がないからだ! 君は自由だ! ……そして、いつか、私が君に相応しい男になった時……もう一度……」
「……あ、そこまでで結構ですわ」
私は満面の笑みで、彼の手を取り、無理やり(物理的に適切な角度で)合意書の上へ誘導した。
「解消ですね。承知いたしました。……さあ、ここにサインを。あと、慰謝料の上乗せ分についても、こちらの別紙にサインをいただけますかしら。殿下が私に放った暴言の一文字につき、金貨一枚で計算しておりますの」
「……なっ……一文字につき金貨一枚? そんな計算……」
「あら。私の心の傷の深さを、殿下の心拍数で測定すれば、これでも安い方ですわ。……さあ、今すぐサインをなさらないと、あと三秒で、そこのバイン様が意識を取り戻して、殿下の恥ずかしい秘密を暴露し始めますわよ」
「な、なんだと!? 書く! すぐ書く!」
ジュリアン殿下は、恐怖と混乱に突き動かされるようにして、流れるような筆致でサインを書き込んだ。
「……よし。契約成立ですわね」
私はインクの乾いていない書類を素早く回収し、胸元に仕舞い込んだ。
これで、私の「湖畔の隠居生活」を支える軍資金は、当初の予定の五倍に膨れ上がった。
「……ジュリアン様! そんな、私を見捨てるのですか!?」
そこへ、ピンク色の粉を中途半端に落としたリリア様が、泣きながら縋り付いてきた。
「私との愛は……私の奇跡は……!」
「リリア様。貴女の『奇跡』の種明かし、もう一度全員の前でいたしましょうか? ……貴女のそのネックレスの裏側にある、声を可愛く作るための『変声魔石』。あと三秒で、電池……いえ、魔力が切れますわよ」
「えっ……? あ、ああああ……(野太い声で)そんな、まさか……っ!」
リリア様の口から、おじさんのような野太い声が漏れた。
会場は、今日一番の静寂に包まれた。
「……あ。……あ、アハハ……」
「リリア。……君の声は、そんな……そんなダミ声だったのか……?」
ジュリアン殿下は、まるで夢から覚めたような……いや、悪夢の中に突き落とされたような顔で、リリア様から後退りした。
「……リリア様。貴女はバイン様の共犯者として、あとで騎士団にたっぷりお話を伺うことになりますわ。……あ、セドリック様。彼女、今、隙を見て逃げようと右のスカートの中に隠した煙幕を焚こうとしていますわよ」
「なにっ!? 不届き千万! 確保だぁぁぁーーー!!」
セドリック様が、無駄にキレのある動きでリリア様を羽交い締めにし、会場の外へと連行していった。
「……ふぅ。これで、本当にお掃除が終わりましたわね」
私は、合意書をポンポンと叩きながら、サイラス様を見た。
「サイラス様。……黒幕の確保と、契約の締結。すべて観察通りですわ」
「実に見事だよ、マーリ。君は因果を操る女神だ。……でも、君が手に入れたその『自由』。……僕の観測圏内から逃げ出せると思ったら大間違いだよ?」
サイラス様が、眼鏡の奥で狂気じみた喜びを浮かべて微笑んだ。
「……構いませんわ。私の新しい別荘、地盤が硬すぎて魔法の探知が効きにくい場所を選びましたもの。物理的に貴方を跳ね返す罠も、百八つほど用意する予定ですわ」
私は、驚きと感嘆に満ちた会場の人々に、優雅に一礼した。
婚約破棄、完了。
悪徳教師、排除。
偽聖女、失脚。
私の「観察日記」の最終ページには、望み通りの「自由」という二文字が刻まれていた。
……ただ一つ、私の予測が外れたとするならば。
(……殿下。あんなに清々しい顔で『もう一度、相応しい男になったら』なんて言わなくてよろしいのに。私の計算では、貴方が相応しくなる確率は、ゼロパーセントに限りなく近いですわよ)
私は、夕闇に染まる学園の空を眺め、ようやく訪れた本当の平穏を噛み締めるために、深呼吸をした。
床に散らばった教務主任バインの裏帳簿と、無惨に倒れ伏した本人の姿。
そして、その中心に立つ私に向けられた、何百もの熱い視線。
……やりすぎましたわね。
私の計画では、もっとこう、ひっそりと「殿下に愛想を尽かされた可哀想(?)な令嬢」として身を引くはずだったのに。
「……マーリ。……いや、マーリ・侯爵令嬢」
震える声で私の名を呼んだのは、脇の下が弾けた上着を必死に押さえているジュリアン殿下だった。
彼の顔からは、これまでの傲慢な自信が完全に消え去っている。
代わりに浮かんでいるのは、深い後悔と、そして……何かを覚悟したような表情。
「……はい、殿下。なんでしょう。その、上着の予備なら、あちらの控室にバイン様が没収した『生徒からの賄賂品』の中に一着ありましたわよ。サイズも今の殿下にぴったりですわ」
「……そんなことはどうでもいい。……私は、取り返しのつかない過ちを犯した」
ジュリアン殿下が一歩、重い足取りで私に近づく。
その足元、右の靴の踵(かかと)が三ミリほど削れている。焦って会場を歩き回った証拠ですわね。
「私はリリアの甘い言葉に惑わされ、バインの策略に乗せられ……真に国を、そして私を支えてくれるはずだった『予言の聖女』である君を、この手で切り捨てようとした」
「……殿下、そこまで仰らなくても。私はただの人間観察マニア――」
「静かにしてくれ。……君は、私の不実をすべて見通していたのだな。私が脇を破ることも、鼻血を出すことも、すべては君が私に与えた『悔い改めるための試練』だったのだな……!」
……違います。
それは単に殿下の自業自得ですわ。
「マーリ・侯爵令嬢。君に、公式に謝罪したい。君は邪悪な魔女などではない。この国に必要な、唯一無二の真実を語る女性だ」
会場中から「おおお……」という感銘の声が上がる。
ジュリアン殿下は深呼吸をし、喉の震えを抑えるようにして叫んだ。
「ここに宣言する! 私、ジュリアン・フォン・アステリアは、マーリ・侯爵令嬢との婚約を、本日をもって解消する!!」
待ってました!
私は心の中で小躍りし、ガッツポーズを決めそうになった。
けれど、殿下の言葉には続きがあった。
「これは君を追放するためではない! 不実な私には、君を隣に置く資格がないからだ! 君は自由だ! ……そして、いつか、私が君に相応しい男になった時……もう一度……」
「……あ、そこまでで結構ですわ」
私は満面の笑みで、彼の手を取り、無理やり(物理的に適切な角度で)合意書の上へ誘導した。
「解消ですね。承知いたしました。……さあ、ここにサインを。あと、慰謝料の上乗せ分についても、こちらの別紙にサインをいただけますかしら。殿下が私に放った暴言の一文字につき、金貨一枚で計算しておりますの」
「……なっ……一文字につき金貨一枚? そんな計算……」
「あら。私の心の傷の深さを、殿下の心拍数で測定すれば、これでも安い方ですわ。……さあ、今すぐサインをなさらないと、あと三秒で、そこのバイン様が意識を取り戻して、殿下の恥ずかしい秘密を暴露し始めますわよ」
「な、なんだと!? 書く! すぐ書く!」
ジュリアン殿下は、恐怖と混乱に突き動かされるようにして、流れるような筆致でサインを書き込んだ。
「……よし。契約成立ですわね」
私はインクの乾いていない書類を素早く回収し、胸元に仕舞い込んだ。
これで、私の「湖畔の隠居生活」を支える軍資金は、当初の予定の五倍に膨れ上がった。
「……ジュリアン様! そんな、私を見捨てるのですか!?」
そこへ、ピンク色の粉を中途半端に落としたリリア様が、泣きながら縋り付いてきた。
「私との愛は……私の奇跡は……!」
「リリア様。貴女の『奇跡』の種明かし、もう一度全員の前でいたしましょうか? ……貴女のそのネックレスの裏側にある、声を可愛く作るための『変声魔石』。あと三秒で、電池……いえ、魔力が切れますわよ」
「えっ……? あ、ああああ……(野太い声で)そんな、まさか……っ!」
リリア様の口から、おじさんのような野太い声が漏れた。
会場は、今日一番の静寂に包まれた。
「……あ。……あ、アハハ……」
「リリア。……君の声は、そんな……そんなダミ声だったのか……?」
ジュリアン殿下は、まるで夢から覚めたような……いや、悪夢の中に突き落とされたような顔で、リリア様から後退りした。
「……リリア様。貴女はバイン様の共犯者として、あとで騎士団にたっぷりお話を伺うことになりますわ。……あ、セドリック様。彼女、今、隙を見て逃げようと右のスカートの中に隠した煙幕を焚こうとしていますわよ」
「なにっ!? 不届き千万! 確保だぁぁぁーーー!!」
セドリック様が、無駄にキレのある動きでリリア様を羽交い締めにし、会場の外へと連行していった。
「……ふぅ。これで、本当にお掃除が終わりましたわね」
私は、合意書をポンポンと叩きながら、サイラス様を見た。
「サイラス様。……黒幕の確保と、契約の締結。すべて観察通りですわ」
「実に見事だよ、マーリ。君は因果を操る女神だ。……でも、君が手に入れたその『自由』。……僕の観測圏内から逃げ出せると思ったら大間違いだよ?」
サイラス様が、眼鏡の奥で狂気じみた喜びを浮かべて微笑んだ。
「……構いませんわ。私の新しい別荘、地盤が硬すぎて魔法の探知が効きにくい場所を選びましたもの。物理的に貴方を跳ね返す罠も、百八つほど用意する予定ですわ」
私は、驚きと感嘆に満ちた会場の人々に、優雅に一礼した。
婚約破棄、完了。
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……ただ一つ、私の予測が外れたとするならば。
(……殿下。あんなに清々しい顔で『もう一度、相応しい男になったら』なんて言わなくてよろしいのに。私の計算では、貴方が相応しくなる確率は、ゼロパーセントに限りなく近いですわよ)
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