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王立学園の卒業パーティー会場は、華やかな喧騒に包まれていた。
シャンデリアの煌めき、淑女たちのドレス、給仕が運ぶ極上のワイン。
だが、その空気は一瞬にして凍りついた。
壇上に上がった第一王子カイルが、音楽を止めるように手を挙げ、大声で叫んだからである。
「アムリー・ベルンシュタイン! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」
会場中がどよめき、視線が一人の令嬢に集中する。
アムリー・ベルンシュタイン公爵令嬢。
鋭い吊り目に、隙のない立ち居振る舞い。
『氷の令嬢』あるいは『悪役令嬢』と陰口を叩かれる彼女は、扇子を閉じて静かに壇上の王子を見上げた。
その隣には、小動物のように震える男爵令嬢ミナが寄り添っている。
誰もがアムリーの悲鳴、あるいは怒号を予想した。
しかし。
「――承知いたしました」
アムリーの声は、驚くほど冷静で、そして明瞭だった。
「は?」
カイル王子が間の抜けた声を漏らす。
アムリーは無駄のない動作で、ドレスの隠しポケットから分厚い羊皮紙の束を取り出した。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。つきましては、こちらの書類に署名をお願いできますでしょうか?」
彼女は流れるような足取りで壇上へ進むと、王子の目の前に書類とペンを突きつけた。
「な、なんだこれは……」
「『婚約合意解約書』および『守秘義務契約書』、ならびに『慰謝料および未払い賃金請求書』でございます」
「ち、ちんぎん……?」
カイルは目を白黒させている。
その腕にしがみついていたミナが、涙目でアムリーを睨みつけた。
「ひどいです、アムリー様! カイル様は真実の愛に目覚めたんです! それを書類だなんて、心が痛まないんですか!?」
「ミナ様、『心』という主観的かつ数値化できない概念で議論するのは非効率です」
アムリーは冷ややかに切り返す。
「それに、これは双方にとって有益な提案ですよ? 殿下は私との婚約を白紙に戻したい。私はその条件として、正当な対価を求めている。完全なる利害の一致です」
「き、貴様……! 自分が何をしたか分かっているのか!?」
カイルが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「貴様はミナをいじめていただろう! 教科書を隠したり、わざと足を引っかけたり、陰湿な嫌がらせをしていたことは調べがついているんだ!」
会場から非難のひそひそ話が聞こえてくる。
だが、アムリーは眉一つ動かさない。
「訂正させていただきます。教科書を隠したのではなく、ミナ様が前日の授業内容を全く理解していなかったため、予習よりも復習が必要だと判断し、一年生の教科書と差し替えただけです」
「それを嫌がらせと言うんだ!」
「教育的指導です。次に、足を引っかけた件ですが」
アムリーは淡々と続ける。
「王妃教育のダンスレッスンにおいて、ミナ様のステップがあまりにも独創的すぎて私の足を踏み抜こうとされたため、防衛本能として足払いをかけ、重心の修正を促しました」
「転んだじゃないか!」
「床との接触面積が増えれば、安定感は増しますから」
「あ、ああ言えばこう言う女だ……!」
カイルは悔しげに歯噛みする。
ミナは「怖かったですぅ……」と嘘泣きを始めたが、アムリーはそれを完全に無視して書類を叩いた。
「そのような些末なことはどうでもよろしいのです。重要なのは、殿下が私との契約を破棄したいという事実。そして私は、それに合意するという事実。さあ、ここにサインを」
「ま、待て! 話が進みすぎだ! 貴様、悔しくないのか!? 次期王妃の座を失うんだぞ!?」
カイルの問いかけに、アムリーは初めてきょとんとした顔をした。
そして、小さく首を傾げる。
「悔しい? なぜ私が悔しがる必要が?」
「だ、だって、王妃になれないんだぞ?」
「ええ、そうですとも!」
アムリーの声が、今日一番の明るさを帯びた。
その瞳は希望に輝いている。
「王妃教育という名の、朝六時から夜二十三時までの拘束労働。休日なし、残業代なし、有給休暇なし。さらに理不尽な上司(国王陛下)からのプレッシャーと、部下(殿下)の尻拭いに追われる日々……」
アムリーはうっとりと天井を仰いだ。
「そこから解放されるのですよ? これほどの喜びがありましょうか! ああ、自由! 甘美なる響き!」
会場が静まり返る。
令嬢たちは扇子で口元を隠し、貴族たちは目を丸くしている。
「ブラック……?」
「殿下、聞いてください。私は十歳の頃から八年間、この国の未来のために尽くしてきました。しかし、その労働環境は劣悪の一言!」
アムリーは請求書の明細を指差した。
「ご覧ください、この計算式を。王妃教育に費やした時間、延べ二万九千二百時間。これを国家公務員一級職の基本給で換算し、さらに深夜労働割増、休日出勤手当を加算。加えて、殿下が公務をサボって街へ遊びに行った際の捜索費用、および隠蔽工作にかかった経費、ミナ様が破壊した王家の茶器の弁償代(私が立て替え済み)……」
アムリーは早口でまくし立てる。
まるで機関銃のような勢いに、カイルは後ずさった。
「し、知らん! そんな金、払えるわけが……」
「払っていただけますとも」
アムリーはニッコリと笑った。
それは、獲物を追い詰めた捕食者の笑みだった。
「殿下の個人資産、および王家からの年間予算は把握しております。この請求額は、殿下の愛馬三頭と別荘一軒、それにコレクションしている骨董品を全て売却すれば、ギリギリ賄える金額に設定してありますので」
「なっ……!?」
「さあ、サインを。今ここでサインをいただければ、この『殿下が執務室で隠れて書いていた恥ずかしいポエム集』の流出だけは防げますよ?」
アムリーがもう一冊の薄い手帳をチラつかせた瞬間、カイルの顔から血の気が引いた。
「な、なぜそれを……!」
「私の情報収集能力を甘く見ないでいただきたい。副題は『漆黒の翼を持つ堕天使の憂鬱』でしたね?」
「わあああああああ! やめろ! 読むな!」
「では、サインを」
「す、する! すればいいんだろう!」
カイルはひったくるようにペンを奪い、震える手で書類に署名した。
アムリーは素早く書類を回収し、内容を確認する。
完璧だ。
署名、捺印、不備なし。
「契約成立です」
アムリーは満足げに頷くと、書類を大切に懐へしまった。
「それでは殿下、いえ、カイル様。ミナ様とお幸せに。私はこれにて『退職』させていただきます」
優雅なカーテシー。
それは王族に対する敬意というより、面倒な客を追い出した後の店員のような晴れやかさに満ちていた。
「あ、アムリー……」
呆然とするカイルとミナを残し、アムリーは踵を返す。
会場の貴族たちが、モーゼの海割れのように道を開けた。
(終わった……! ついに終わった!)
アムリーの胸中は、お花畑のように舞い踊っていた。
明日からは目覚まし時計に怯えなくていい。
積み上がった書類の山と格闘しなくていい。
「これ」と「それ」しか言わない王子の心を忖度しなくていいのだ。
(さあ、帰って寝よう。泥のように眠って、起きたら美味しい紅茶を飲んで、二度寝するのよ!)
足取り軽く出口へ向かうアムリー。
しかし、その行く手を阻む大きな影があった。
「――素晴らしい手際だ」
低く、心地よいバリトンの声。
アムリーが顔を上げると、そこには見上げるような長身の男が立っていた。
漆黒の髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。
現国王の弟にして、若くして宰相の地位にある『冷徹公爵』こと、ギルバート・フォン・ライオットである。
(げっ)
アムリーは心の中で舌打ちした。
この男こそ、アムリーに王妃教育の課題を山のように送りつけてきた張本人であり、王城における「労働の鬼」だ。
「ライオット公爵閣下。ごきげんよう」
「ああ。いいショーだったよ、ベルンシュタイン嬢」
ギルバートは口元だけで笑った。
その目は笑っていない。
むしろ、値踏みするようにアムリーを観察している。
「あの計算の速さ、そして躊躇なく王族を恐喝する胆力……。実に惜しい人材だ」
「恐喝ではございません。正当な権利の行使です」
「どちらでもいい。ただ、君のような有能な人間が、野に下るのは国家的損失だと思ってね」
嫌な予感がした。
アムリーの「危機管理センサー」が警報を鳴らしている。
一刻も早くこの場を離脱しなければならない。
「過分なお褒めの言葉、恐縮です。ですが私は心身ともに疲弊しておりまして。当分は実家で静養する予定ですので、失礼いたします」
アムリーは足早に通り過ぎようとした。
だが、ギルバートの長い腕が、逃げ道を塞ぐように壁に手をつく。
いわゆる「壁ドン」というやつだ。
しかし、そこにときめきは皆無だった。
あるのは圧迫感と、逃げ場のないプレッシャーのみ。
「静養? それはもったいない」
ギルバートが耳元で囁く。
「君のその能力、私が高く買おう。どうだ? 私の元で働かないか?」
アムリーは引きつった笑顔で答えた。
「謹んで辞退申し上げます。私は今、無職の喜びを噛み締めているところですので」
「好条件を約束するよ?」
「条件の問題ではありません。私は働きたくないのです」
「ふむ。では、こうしよう」
ギルバートはアムリーの手を取り、その甲にうやうやしく口付けを落とした。
会場から黄色い悲鳴が上がる。
しかし、アムリーの背筋には冷たいものが走っていた。
「君の実家の借金、および今回の騒動による父親の心労……。私が全て肩代わりすると言ったら?」
「……はい?」
アムリーの動きが止まる。
実家の借金。
それは初耳だった。
「おや、知らなかったのか? 君の父君は人が良すぎてね。連帯保証人という名の罠に、少々かかってしまったらしい」
ギルバートは懐から、一枚の紙を取り出した。
そこには見慣れた実家の紋章と、目の飛び出るような金額が記されている。
アムリーは瞬時に計算した。
これを返済するには、領地の収益だけでは五十年かかる。
「……詐欺では?」
「事実だ。調べてもらっても構わない」
ギルバートは悪魔のように微笑んだ。
「君が私の補佐官……いや、『婚約者』として働いてくれるなら、この借金を帳消しにし、さらに君には十分な給与を支払おう」
「婚約者、ですか?」
「ああ。対外的な防波堤が必要でね。君なら私の邪魔をする有象無象を、その口車と書類で一掃できそうだ」
つまり、偽装婚約。
ビジネスパートナー。
アムリーの脳内で天秤が揺れる。
一方には、夢のニート生活。しかし実家は破産。
もう一方には、冷徹公爵の下での激務。しかし実家は安泰、さらに給与付き。
(……詰んだ)
アムリーはがっくりと肩を落とした。
自由への扉が開いたと思った瞬間、別の檻に放り込まれた気分だ。
だが、彼女はアムリー・ベルンシュタイン。
転んでもただでは起きない女である。
アムリーは顔を上げ、ギルバートを睨みつけた。
「……労働条件の提示をお願いします。残業代は? 休日は? 福利厚生は?」
「交渉成立だな」
ギルバートは満足げに目を細めた。
「詳しくは明朝、私の執務室で話そう。楽しみにしていてくれ、私の『新しい婚約者』殿」
アムリーは遠い目をして呟いた。
「……慰謝料が入ったら、高級羽毛布団を買う予定だったのに」
カイル王子の「おい、俺を無視するな!」という叫び声は、誰の耳にも届かなかった。
シャンデリアの煌めき、淑女たちのドレス、給仕が運ぶ極上のワイン。
だが、その空気は一瞬にして凍りついた。
壇上に上がった第一王子カイルが、音楽を止めるように手を挙げ、大声で叫んだからである。
「アムリー・ベルンシュタイン! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」
会場中がどよめき、視線が一人の令嬢に集中する。
アムリー・ベルンシュタイン公爵令嬢。
鋭い吊り目に、隙のない立ち居振る舞い。
『氷の令嬢』あるいは『悪役令嬢』と陰口を叩かれる彼女は、扇子を閉じて静かに壇上の王子を見上げた。
その隣には、小動物のように震える男爵令嬢ミナが寄り添っている。
誰もがアムリーの悲鳴、あるいは怒号を予想した。
しかし。
「――承知いたしました」
アムリーの声は、驚くほど冷静で、そして明瞭だった。
「は?」
カイル王子が間の抜けた声を漏らす。
アムリーは無駄のない動作で、ドレスの隠しポケットから分厚い羊皮紙の束を取り出した。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。つきましては、こちらの書類に署名をお願いできますでしょうか?」
彼女は流れるような足取りで壇上へ進むと、王子の目の前に書類とペンを突きつけた。
「な、なんだこれは……」
「『婚約合意解約書』および『守秘義務契約書』、ならびに『慰謝料および未払い賃金請求書』でございます」
「ち、ちんぎん……?」
カイルは目を白黒させている。
その腕にしがみついていたミナが、涙目でアムリーを睨みつけた。
「ひどいです、アムリー様! カイル様は真実の愛に目覚めたんです! それを書類だなんて、心が痛まないんですか!?」
「ミナ様、『心』という主観的かつ数値化できない概念で議論するのは非効率です」
アムリーは冷ややかに切り返す。
「それに、これは双方にとって有益な提案ですよ? 殿下は私との婚約を白紙に戻したい。私はその条件として、正当な対価を求めている。完全なる利害の一致です」
「き、貴様……! 自分が何をしたか分かっているのか!?」
カイルが顔を真っ赤にして怒鳴る。
「貴様はミナをいじめていただろう! 教科書を隠したり、わざと足を引っかけたり、陰湿な嫌がらせをしていたことは調べがついているんだ!」
会場から非難のひそひそ話が聞こえてくる。
だが、アムリーは眉一つ動かさない。
「訂正させていただきます。教科書を隠したのではなく、ミナ様が前日の授業内容を全く理解していなかったため、予習よりも復習が必要だと判断し、一年生の教科書と差し替えただけです」
「それを嫌がらせと言うんだ!」
「教育的指導です。次に、足を引っかけた件ですが」
アムリーは淡々と続ける。
「王妃教育のダンスレッスンにおいて、ミナ様のステップがあまりにも独創的すぎて私の足を踏み抜こうとされたため、防衛本能として足払いをかけ、重心の修正を促しました」
「転んだじゃないか!」
「床との接触面積が増えれば、安定感は増しますから」
「あ、ああ言えばこう言う女だ……!」
カイルは悔しげに歯噛みする。
ミナは「怖かったですぅ……」と嘘泣きを始めたが、アムリーはそれを完全に無視して書類を叩いた。
「そのような些末なことはどうでもよろしいのです。重要なのは、殿下が私との契約を破棄したいという事実。そして私は、それに合意するという事実。さあ、ここにサインを」
「ま、待て! 話が進みすぎだ! 貴様、悔しくないのか!? 次期王妃の座を失うんだぞ!?」
カイルの問いかけに、アムリーは初めてきょとんとした顔をした。
そして、小さく首を傾げる。
「悔しい? なぜ私が悔しがる必要が?」
「だ、だって、王妃になれないんだぞ?」
「ええ、そうですとも!」
アムリーの声が、今日一番の明るさを帯びた。
その瞳は希望に輝いている。
「王妃教育という名の、朝六時から夜二十三時までの拘束労働。休日なし、残業代なし、有給休暇なし。さらに理不尽な上司(国王陛下)からのプレッシャーと、部下(殿下)の尻拭いに追われる日々……」
アムリーはうっとりと天井を仰いだ。
「そこから解放されるのですよ? これほどの喜びがありましょうか! ああ、自由! 甘美なる響き!」
会場が静まり返る。
令嬢たちは扇子で口元を隠し、貴族たちは目を丸くしている。
「ブラック……?」
「殿下、聞いてください。私は十歳の頃から八年間、この国の未来のために尽くしてきました。しかし、その労働環境は劣悪の一言!」
アムリーは請求書の明細を指差した。
「ご覧ください、この計算式を。王妃教育に費やした時間、延べ二万九千二百時間。これを国家公務員一級職の基本給で換算し、さらに深夜労働割増、休日出勤手当を加算。加えて、殿下が公務をサボって街へ遊びに行った際の捜索費用、および隠蔽工作にかかった経費、ミナ様が破壊した王家の茶器の弁償代(私が立て替え済み)……」
アムリーは早口でまくし立てる。
まるで機関銃のような勢いに、カイルは後ずさった。
「し、知らん! そんな金、払えるわけが……」
「払っていただけますとも」
アムリーはニッコリと笑った。
それは、獲物を追い詰めた捕食者の笑みだった。
「殿下の個人資産、および王家からの年間予算は把握しております。この請求額は、殿下の愛馬三頭と別荘一軒、それにコレクションしている骨董品を全て売却すれば、ギリギリ賄える金額に設定してありますので」
「なっ……!?」
「さあ、サインを。今ここでサインをいただければ、この『殿下が執務室で隠れて書いていた恥ずかしいポエム集』の流出だけは防げますよ?」
アムリーがもう一冊の薄い手帳をチラつかせた瞬間、カイルの顔から血の気が引いた。
「な、なぜそれを……!」
「私の情報収集能力を甘く見ないでいただきたい。副題は『漆黒の翼を持つ堕天使の憂鬱』でしたね?」
「わあああああああ! やめろ! 読むな!」
「では、サインを」
「す、する! すればいいんだろう!」
カイルはひったくるようにペンを奪い、震える手で書類に署名した。
アムリーは素早く書類を回収し、内容を確認する。
完璧だ。
署名、捺印、不備なし。
「契約成立です」
アムリーは満足げに頷くと、書類を大切に懐へしまった。
「それでは殿下、いえ、カイル様。ミナ様とお幸せに。私はこれにて『退職』させていただきます」
優雅なカーテシー。
それは王族に対する敬意というより、面倒な客を追い出した後の店員のような晴れやかさに満ちていた。
「あ、アムリー……」
呆然とするカイルとミナを残し、アムリーは踵を返す。
会場の貴族たちが、モーゼの海割れのように道を開けた。
(終わった……! ついに終わった!)
アムリーの胸中は、お花畑のように舞い踊っていた。
明日からは目覚まし時計に怯えなくていい。
積み上がった書類の山と格闘しなくていい。
「これ」と「それ」しか言わない王子の心を忖度しなくていいのだ。
(さあ、帰って寝よう。泥のように眠って、起きたら美味しい紅茶を飲んで、二度寝するのよ!)
足取り軽く出口へ向かうアムリー。
しかし、その行く手を阻む大きな影があった。
「――素晴らしい手際だ」
低く、心地よいバリトンの声。
アムリーが顔を上げると、そこには見上げるような長身の男が立っていた。
漆黒の髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。
現国王の弟にして、若くして宰相の地位にある『冷徹公爵』こと、ギルバート・フォン・ライオットである。
(げっ)
アムリーは心の中で舌打ちした。
この男こそ、アムリーに王妃教育の課題を山のように送りつけてきた張本人であり、王城における「労働の鬼」だ。
「ライオット公爵閣下。ごきげんよう」
「ああ。いいショーだったよ、ベルンシュタイン嬢」
ギルバートは口元だけで笑った。
その目は笑っていない。
むしろ、値踏みするようにアムリーを観察している。
「あの計算の速さ、そして躊躇なく王族を恐喝する胆力……。実に惜しい人材だ」
「恐喝ではございません。正当な権利の行使です」
「どちらでもいい。ただ、君のような有能な人間が、野に下るのは国家的損失だと思ってね」
嫌な予感がした。
アムリーの「危機管理センサー」が警報を鳴らしている。
一刻も早くこの場を離脱しなければならない。
「過分なお褒めの言葉、恐縮です。ですが私は心身ともに疲弊しておりまして。当分は実家で静養する予定ですので、失礼いたします」
アムリーは足早に通り過ぎようとした。
だが、ギルバートの長い腕が、逃げ道を塞ぐように壁に手をつく。
いわゆる「壁ドン」というやつだ。
しかし、そこにときめきは皆無だった。
あるのは圧迫感と、逃げ場のないプレッシャーのみ。
「静養? それはもったいない」
ギルバートが耳元で囁く。
「君のその能力、私が高く買おう。どうだ? 私の元で働かないか?」
アムリーは引きつった笑顔で答えた。
「謹んで辞退申し上げます。私は今、無職の喜びを噛み締めているところですので」
「好条件を約束するよ?」
「条件の問題ではありません。私は働きたくないのです」
「ふむ。では、こうしよう」
ギルバートはアムリーの手を取り、その甲にうやうやしく口付けを落とした。
会場から黄色い悲鳴が上がる。
しかし、アムリーの背筋には冷たいものが走っていた。
「君の実家の借金、および今回の騒動による父親の心労……。私が全て肩代わりすると言ったら?」
「……はい?」
アムリーの動きが止まる。
実家の借金。
それは初耳だった。
「おや、知らなかったのか? 君の父君は人が良すぎてね。連帯保証人という名の罠に、少々かかってしまったらしい」
ギルバートは懐から、一枚の紙を取り出した。
そこには見慣れた実家の紋章と、目の飛び出るような金額が記されている。
アムリーは瞬時に計算した。
これを返済するには、領地の収益だけでは五十年かかる。
「……詐欺では?」
「事実だ。調べてもらっても構わない」
ギルバートは悪魔のように微笑んだ。
「君が私の補佐官……いや、『婚約者』として働いてくれるなら、この借金を帳消しにし、さらに君には十分な給与を支払おう」
「婚約者、ですか?」
「ああ。対外的な防波堤が必要でね。君なら私の邪魔をする有象無象を、その口車と書類で一掃できそうだ」
つまり、偽装婚約。
ビジネスパートナー。
アムリーの脳内で天秤が揺れる。
一方には、夢のニート生活。しかし実家は破産。
もう一方には、冷徹公爵の下での激務。しかし実家は安泰、さらに給与付き。
(……詰んだ)
アムリーはがっくりと肩を落とした。
自由への扉が開いたと思った瞬間、別の檻に放り込まれた気分だ。
だが、彼女はアムリー・ベルンシュタイン。
転んでもただでは起きない女である。
アムリーは顔を上げ、ギルバートを睨みつけた。
「……労働条件の提示をお願いします。残業代は? 休日は? 福利厚生は?」
「交渉成立だな」
ギルバートは満足げに目を細めた。
「詳しくは明朝、私の執務室で話そう。楽しみにしていてくれ、私の『新しい婚約者』殿」
アムリーは遠い目をして呟いた。
「……慰謝料が入ったら、高級羽毛布団を買う予定だったのに」
カイル王子の「おい、俺を無視するな!」という叫び声は、誰の耳にも届かなかった。
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